魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

日夏耿之介の「晶光詩篇」

魔女の机に散らばる古書とクリスタルと乾燥ハーブの写真素材。www.pakutaso.comより。

台湾人による『転身の頌』の紹介

近代日本の詩人、日夏ひなつ耿之介こうのすけ(1890 - 1971)の「晶光詩篇しょうこうしへん」とは、日夏の第一詩集『転身てんしんしょう』(1917年)に収められている四行詩の連作につけられたタイトルで、全部で十二篇あります。そのうちの一篇について、前々からずっと頭の片隅に引っかかっていることを、少し書き留めておこうと思うのですが。
まずこの「晶光詩篇」から何篇かご紹介して、どのような詩風のものなのか、ご覧に入れるのが筋かと思い、検索をかけてみたところ、驚きました。何と台湾の方が、この『転身の頌』の全文を、ご自分のブログで公開されています。

note.com

この複雑なテキストデータを作成するのは大変な作業だったはずで、頭の下がる思いがします。台湾の著作権保護期間は50年だそうで、台湾人が今これを公開するのは違法ではないそうです。日本では、当ブログで何度も書いている通り、保護期間が今は70年とされているため、これの真似をすることはできませんが、もしこの記事を読んで日夏の詩に興味を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひ上のブログ記事を参照されて、『転身の頌』全文に触れてみていただきたいと思います。
なおこの記事での引用は、上のブログ記事によらず、下の版によっております。

この現代詩文庫版については、以前、悪口めいたことを書きましたけれども、この『転身の頌』に関しては、全文が最終的なヴァージョンに基づいて掲載されており、お薦めできます。こちらの記事でお薦めした作者自選の新潮文庫版『日夏耿之介詩集』には、残念ながら「晶光詩篇」は採られておりません。

「天才」の極印

さて「晶光詩篇」ですが、その前に、今ちょっと思い出したのですが、日夏耿之介は確かどこかで与謝野晶子について、「もし彼女が『みだれ髪』一巻だけで夭折していたら、『絶世の天才歌人』の名をほしいままにしていたことだろう」というような、晶子本人に対しても、晶子ファンに対しても、まことに失敬きわまりないことを言っておりました。そーゆーことを言い出せば日夏自身もまた同じなのであって、彼がもし『転身の頌』一巻のみを遺して夭折していたら、それこそ「近代日本最大の詩人」の名を不動のものとしていたことでしょう。『転身の頌』の中の数篇の詩には、紛れもない「天才」の極印が認められるのであります。これは何もそれ以後の作品の質が劣るという意味ではありませんで、たとえば上に触れた作者自選の詩集の中に、この『転身の頌』からの作品がごくわずかしか採られていないところから見ても、日夏自身がこの第一詩集の出来映えに必ずしも満足していなかったことは明らかなのです。だからと言って、『転身の頌』の存在価値はいささかも揺らぐものではありません。たとえば萩原朔太郎が『月に吠える』も『青猫』も発表することなく、ただ『氷島』一巻のみを遺して死んでいたとしたら、彼の名は今ではすっかり忘れ去られていたことでしょう。

「学匠詩人」と「遊び人」

「晶光詩篇」にもどります。この十二篇の四行詩のうち、冒頭のものはすでにこちらの記事で紹介済みですが、より原詩に近い形で、あえて再掲します。

そらは悲しび
遊星のきはらし
さめざめと
銀のなんだす 卯月の夜!(「晶光詩篇」第一番)

上に見られるとおり、「晶光詩篇」に限らず、『転身の頌』全体を通じた詩的スタイルと申すものは、日夏耿之介が彼のいわゆる「ゴシック・ローマン詩体」を確立する以前の、きわめてロマンチックで感傷的な詠嘆を基礎としたものです。とりわけこの四行詩十二篇は、若い感性がきらきらときらめきを放つようで、「晶光詩篇」とは名付けて妙だと思います。

やはらかきふたつの手 半霄そらをすべり来て
ふるへたる心をとらへぬ
なんだの浴泉をたちいでて
かく美装びさうせるわれなりけり!(「晶光詩篇」第十番)

大変美しい。ファンタスティックなイメージが、冴えた霊感によって連結されています。

青くかなしめる
世のすべての女性にょせいをかきいだかば
女人らはたえざる楽奏にうれしみ
かつは おどろおどろしき朝暾あさひ嗤笑わらはむ!(「晶光詩篇」第十二番)

こちらの記事にも少し書きましたが、『転身の頌』にはこのように、若い詩人が酒色に耽溺する姿もうかがえる。わたくし思うに、現在流通している日夏耿之介のイメージは、気難しい「学匠詩人」の面が少し強調されすぎているような気がするので、次の機会に日夏を取り上げる際には、こうした「遊び人としての日夏耿之介」にスポットを当ててみるのも面白いかも知れない、などと考えております。

「清乱」の意味

ところで今回、私が特に書きたいと思っていたのは、次の四行詩についてです。

かぎりもなき悲哀ひあいを汲み
かぎりもなき沈黙ちんもくの壺にふうじぬ!
いくの春をねむりさり
なほわれは仲夏白日なつのまひる清乱せいらんを恋ひしたふ(「晶光詩篇」第八番)

この詩に初めて出会ったのは今から50年以上前ですが、それから今に到るまで、私はずっと考え続けているわけです――この仲夏白日なつのまひる清乱せいらんとは、何を意味しているのか、と。特にこの「清乱」という言葉は、どこから見つけてきたのか、それとも作者の造語なのか、わかりませんが、とにかく文脈上、きわめて適切であると同時に、きわめて奥が深く、想像力を刺激する言葉です。
私は当初、直感的に、これは「十代の性体験」を指しているのだと思いました。「乱」という字に、ここでは「性交渉」か、何かそれに近い意が読み取れるのは確かです。問題はその上に乗っかっている「清」の字の解釈です。「清らかな性交渉」とは何か?と考えた時に、私の頭にまず浮かんだのが、大人の性交渉とは性質がまるで違う、少年少女による性交渉だったわけです。大人の男女によるテクニカルな性交渉が、反道徳的で不潔なものと感じられるとすれば、少年少女による、ただ思いをぶつけ合うだけの、ぎこちない、不器用な性交渉は、純粋なものと言えるかも知れません。
しかし今の私は、この仲夏白日なつのまひる清乱せいらんについて、これを当時の日夏が妄想していた美しい女子同性愛の世界を暗示しているのではないか、と解する方に傾いています。根拠はこちらの記事でご紹介した若い日夏によるサッフォーの訳詩(厳密に言うとブリス・カーマン著『サッフォー:100のリリック』からの抄訳)です。あの訳詩のスタイルは、おそらくこの『転身の頌』のころのもので、訳者はかなりの感情移入をしながら訳しています。美しい女性同士の恋愛は、見方によっては、異性愛者の恋愛よりも清らかなものと感じられるかも知れません。いっとき流行はやった「百合萌え」みたいな境地ですね。


日夏耿之介によるブリス・カーマン著『サッフォー:100のリリック』からの抄訳は、彼の『海表集』という訳詩集に収められているのですが、これは昔から古書の世界を非常な高価格で流通しているものですので、興味のある方にはそれよりも、下記の書籍を検索してみられることをお勧めします。『海表集』のみならず、森鴎外の『於母影おもかげ』以後に発表された素晴らしい訳詩集が、完全な形で数多く収録されています。