魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ふたたびBAND-MAIDの「HATE?」の歌詞

これも2023年5月のデトロイト公演から。ウィキメディア・コモンズより。

世にリアクション動画ほどくだらないものはないと、常々思っております。他人様ひとさまが作ったミュージックビデオを流して、横で「アア!!」とか「オオ!!」とか言って、ハイ出来上がり。こんな安直なもん、俺にでも作れるわ!!!(よう作りませんが)それでYouTubeの「おすすめ動画」で表示されても、リアクション動画は滅多に見ないのですが、BAND-MAIDのリアクション動画だけは好んで見ます。BAND-MAIDの動画を流しながら、横でリアクターたちが「アア!!」とか「オオ!!」とか言っているのを見るのが愉快でたまらないのです。先日、ようやく(というか、「満を持して」というべきか)BAND-MAID「HATE?」という曲の公式ライブビデオが公開されたので、私は冬眠から叩き起こされた形で、またぞろリアクション動画をあさっておりました。
BAND-MAIDを知らない方のために、少し紹介しておきましょう。BAND-MAIDは日本の5人組ガールズバンドで、5人のうちの2~3人(?)がメイド服(メイド喫茶の店員が着ているような)を着て「お給仕」(=ライブ演奏)をするところから「BAND-MAID」の名があるわけですが、ために日本では何か特殊な性的嗜好(?)を持った人たちに支持されているバンドだという偏見があるようで、さような偏見にとらわれない海外の人々にむしろ熱心なファンが多い。音を聞けばわかりますが、このBAND-MAIDは非常に高度な演奏技術を誇る、本格的なロックバンドで、古き良き時代のハードロックの伝統を受け継いでいる。それもただ単に形式的に受け継いでいるだけでなく、これに新しい価値を賦与しております。
下がその「HATE?」の動画ですが。


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だいたい公式ライブビデオなどと申すものは(BAND-MAIDのに限らず)視点が切り替わるのが早すぎて、めまいがする感じで、ファンカムの方がむしろ臨場感があるように思うものですが、このビデオは曲のテンポに合っているせいか、見ていてそれほど苦痛を感じません。曲中、ベースのソロに合わせてリードギターの女の子の踊る姿がとても可愛い。
この「HATE?」という曲の歌詞については前にも書いたことがあります(こちらの記事)。これはわれわれ男性にとっては大変「耳が痛い」内容のものです。これについて、リアクション動画につけられた英語のコメントの中に「この歌詞は彩姫(メインヴォーカルの女の子)の親しい女友だちが彼氏に浮気されて、それに憤慨した彩姫が書いた」というのがあって、その情報はどこから来たものかと少し調べてみたところ、どうも日本語のインタビュー記事*1の英訳があいまいで、誤読されたもののようでした。このメインヴォーカルの女の子は「近頃有名人の不倫報道が(日本では)多いが、そのたびに女を裏切る男は許せないと思う」と言ったわけです。もっともこの歌詞の内容は、世の男性一般に対する怒りというよりは、やはり何か個人的体験に基づくもののような気がしますが。

私を使って満たす自己顕示欲…

このフレーズの字幕での英訳、

Just using me to make you feel you have meaning. 

これはなかなかの名訳ですね。薄っぺらで、中身のない彼氏の胸に、グサリと突き刺さる言葉のナイフです。その次の、

10分そこらのショボい運動…

というのも、ギョッとさせられるセリフですが、さらにその次の、

たーいしたこともないのに!!!
たーいそうに!!!

まー、このクッソ憎たらしいイントネーションはどうでしょうか?しかもセカンドヴォーカルのコーラス付きです。海外のリスナーには、この辛辣さはなかなか想像がつかないだろうと思います。それだけ血の通った日本語でもあるわけです。

あーあーバカみたいだ!!!

繰り返しになりますが、BAND-MAIDの音楽は、ハードロックの王道を行くのみならず、これに新しい息吹きを吹き込むものです。チャラチャラしたステージ衣装とはうらはらに、そこには何かしら技術以上の「ピュアなソウルのごときものが、演奏にも感じられるし、歌詞にも感じられる。これまた私の大好きな「Warning!」という曲の歌詞に、

エラそうに もったいぶって
「愛」とか歌わないで!!!

とある通り、この「HATE?」はそこらのラブソングよりも、もっとまっすぐに「愛」を伝えてくれます。

松任谷由実の「春よ、来い」


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今の時代、「うっせー、うっせー、うっせーわー!!」みたいな歌詞が書ける自称「天才」は、おそらく日本中に掃いて捨てるほどいるのでしょうが、上の「春よ、来い」のように格調高い歌詞が書ける人は、もうほとんどいないのでしょうね。口語体の中に文語体をないまぜにした、およそ奇妙な形式ですが、それでいてきわめて正確に、ほとんど外すことなく、われわれ日本人の心の急所を突いてきます。特にこの二番の歌詞、

君に預けしわが心は
今でも返事を待っています
どれほど月日が流れても
ずっと ずっと 待っています…

何という美しい日本語でしょう。少し分析的に言うと、この「月日」という単語は、他の単語に置き換えることが絶対にできない。その次の行の「ずっと、ずっと」という、何か急に言葉に詰まったかのような繰り返しも、聴く者の胸にじかに響き、涙を誘います。
ただ私が考えてしまうのは、こーゆー純日本的としか言いようのない歌の魅力は、外国人には理解してもらえないだろうな、ということですね。たくさん言葉を積み重ねて「説明」することはできるかも知れないが、耳に入るなり激しくわれわれを動揺させ、涙腺を崩壊させる、この感じはネイティヴの日本語話者にしかわからないでしょう。たとえばこの歌の中に、

まなざしが肩を抱く…

というフレーズがありますが、われわれはこれを耳にしただけで、肩のあたりに何かぬくもりを感じる気がするものですが、これを翻訳するのは難しい。今ちょっとGoogle翻訳で自動英訳してみますと、

Your gaze embraces my shoulders.

となるようですが、これでは何のことやらわかりませんね。
下は英語によるカバー。ヘイリー・ウェステンラさんのカバーも聴きましたが、ヘイリーさんのは「春よ、来い」というより「春が来た」で、春を迎えるよろこびに満ちた歌で、原曲の、絶望のどん底で一縷の夢にすがっているかのような雰囲気とはまるで違います。下のレベッカさんのカバーの方が原曲に近い。


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ちなみに松任谷由実の楽曲で個人的に一番好きなのは、荒井由実時代の「ベルベット・イースター」という曲です。少女の感性というものをこれほど鮮烈に印象づけた楽曲を、他に知りません。


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「Netflix版『アッシャー家の崩壊』はポーを讃えることに失敗した」

ナポレオン・アッシャー(ラフル・コーリ、手前)と恋人のジュリアス(ダニエル・ジュン)。www.imdb.comより。

以下は去る2023年10月27日、Ahmed Honeiniとおっしゃるイギリスのアメリカ文学研究者の方が「The Conversation」というサイト上に発表した「Netflix版『アッシャー家の崩壊』:ポーを讃えることに失敗した脈絡のない言及のごちゃまぜ(Netflix’s The Fall of the House of Usher: an incoherent mess of references that fails to honour Edgar Allan Poe)」という英文記事の全訳です。例によって元記事を書いた人には無断で訳しますので、前触れなく削除する場合があります。ポーを読む方の参考になれば幸いです。

theconversation.com

 

 

Netflix版『アッシャー家の崩壊』は原作の質を損なっている

以下の記事はネタバレを含みます。

エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」(1839年)はアメリカ文学史上もっとも有名な短編小説の一つである。疾病しっぺい精神疾患および早まった埋葬を主題とするアッシャー兄妹、すなわちロデリックとマデラインの破滅の物語は、多くの世代にわたる読者を震え上がらせてきた。
ポーの小説はこのたび、同名の新しいNetflixシリーズに着想を与えた。『アッシャー家の崩壊』は8話から成るアンソロジー・シリーズで、監督のマイク・フラナガンは同じくNetflixで配信された『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』(2018年)や『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』(2020年)も手掛けている。
フラナガンはこのホラーというジャンルについて明らかに造詣が深く、今日この産業におけるトップクラスの創造的人物マインドの一人という実証された評判を得ている。この新シリーズは、ポーの作品を現代の視聴者たちに紹介するための理想的な販路アウトレットとなるはずであった。
『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』や『ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー』に見られる通り、原作を翻案する上でこれに大幅に手を加えることは、それ自体は何も悪いことではない。だが『アッシャー家の崩壊』はポーからの引用を編み直し、貼り合わせ、混ぜ合わせているために、効果が混乱している。
このように新味のない引用はあまりに頻繁なので、結果としてショーは支離滅裂で、今なお読者にショックと、恐怖と、魅惑をもたらすポーの作品の質をはなはだしく損なっている。

的外れの言及に終始

このシリーズは、アッシャー家が富と名声をかけたファウスト的な契約を、謎の女性ヴェルナ(「Verna」は「Raven」の陳腐なアナグラム)と結んだのち、急速に崩壊する様子を描いたものである。ポーへの言及は、初めのうちは当て物として楽しめるが、すぐに退屈で耐えられないものとなる。
たとえばアッシャー家の子供たちの名前、フレデリックやタマレーンやヴィクトリーヌやカミーユやナポレオンやプロスペロは、ポーの「メッツェンガーシュタイン」や「早まった埋葬」や「タマレーン」や「モルグ街」や「眼鏡」や「赤い死の仮面」といった詩や短編から採られている。ただ採られているというだけで、これらの言及にはほとんど何の関連性もない。
こうした薄っぺらさはこのショーにおけるロデリック・アッシャーの描写に輪をかけて認められる。彼は詩人になりたいという若いころの夢を繰り返し思い出す。無数の場面において、彼は自分が書いたことになっているポーの「アナベル・リー」や「大鴉」等、その他数限りないポーの詩からの引用を、長々と暗唱する。
私に推測できるのは、このショーの作者はこうした引用によって、ロデリックをその冷酷で助平な本性にかかわらず、なおかつわれわれの同情に値する、繊細で、心乱れた、悲しい男に見せかけたいのではないかということだけだ。私はこのシリーズに出てくる人間に何のシンパシーも感じない。
特に第一話「物寂しい真夜中に」、第六話「ゴールドバグ」、第八話「大鴉」は大失敗だ。これらは資本主義的搾取に対する鋭い批判というショーのテーマに合わせるために、「ウィリアム・ウィルソン」や表題作「アッシャー家の崩壊」のようなポーの短編を歪め、ねじ曲げている。
これらのエピソードは、アッシャー家をロックフェラーやトランプやサックラー等の悪名高き大富豪一族と比較することに懸命で、これに夢中になるあまり、ポーの原作のエッセンスが最良の場合でも破壊され、最悪の場合には完全に失われても止むなしとしている。

二つのエピソードが救い

ポーの作品を成功裡に利用していると思われるのは第四話「黒猫」と第五話「告げ口心臓」だけだ。この二つのエピソードは、ナポレオンとヴィクトリーヌという二人のアッシャーたちについて、その精神的崩壊と変死を軸として展開する点で共通している。ポーの原作同様、ナポレオンもヴィクトリーヌも、みずからの過ちに心を病む。ナポレオンはあやまって殺してしまった猫の代わりに手に入れたそっくりの猫に責め立てられる。この化け猫によって狂気へと駆り立てられた彼は、破壊的な乱行に及んだ挙句、自死を遂げる。ヴィクトリーヌは通常の医療研究の手順プロシージャからの逸脱バイパスを試みたのち、不断の心音に取り憑かれ、やはり自殺に追い込まれる。
いずれのエピソードもポーの原作に対して、罪と、憎悪と、暴力という中心的なテーマを維持している点で忠実だ。これらは人々が人間にも動物にも感じるかも知れない恐怖心に訴えかける。

ヴィクトリーヌ・ラフルカード(タニア・ミラー、右)と恋人のアレッサンドラ・ルイーズ医師(パオラ・ヌニェス)。www.imdb.comより。

ナポレオン役のラフル・コーリ、およびヴィクトリーヌ役のタニア・ミラーの卓越した演技は、原作のうちに大書たいしょされているホラーと、パラノイアと、フレンジーの感覚を巧みに捉えている。とりわけ注目すべきは、この二つのエピソードが、ポーの作品からの引用を採掘することにさほど執着せず、何よりも魅惑的な映像を創り出すことに専念している点である。
もしこの『アッシャー家の崩壊』が何か有益な目的に資するとすれば、それはポーの作品を新しい世代の読者に発見させることだ。Netflixは、有難いことに、視聴者に対してカンニングペーパーを配布することで、無数の引用がポーのどの作品に依拠するものなのかを教示してくれている。

www.netflix.com

とはいえ、私はこれらの若い読者が、もっぱらポーの美点にアプローチすることを切に望む。ポーの中にこのシリーズに見られるような歪曲や冒涜を見出そうとしてほしくない。このシリーズは、その可能性を裏切って、権力や強欲に関する表面的で凡庸なストーリーを語るために、ポーの驚異と恐怖とを犠牲にしている。


上のレビューには2023年11月11日現在、2件の批判的なコメントが寄せられていて、下はそのうちの一つ。

この記事は評者がポーについても、フラナガンについても、創造的プロセスについても全く無知であることを示している(ポーは同時代の社会や強欲や不正や資本主義を批判していた)。このシリーズは傑作であり、脚本は絶妙を極めている。そうしていつものように、単なるホラーではなく、この評者にはさっぱりわからないらしい意味というものがこめられている。最後に、言い忘れるところだったが、私は歴史に無知な文学専門家にはもううんざりだ。

「Netflix版『アッシャー家の崩壊』にはポーの魂がない」

Netflix版『アッシャー家の崩壊』から、ヴィクトリーヌ役のタニア・ミラー。www.imdb.comより。

以下はAja Romanoというライター集団が、去る2023年10月13日、www.vox.comというサイト上に発表した「Netflix版『アッシャー家の崩壊』はポーの情熱的怪奇を欠く――これらの登場人物のうち、死体に対して不適切な振舞いに及んだことのある者が一人でもいるだろうかNetflix’s The Fall of the House of Usher lacks the passionate weirdness of Poe - I’m not convinced any of these people have ever behaved inappropriately with a corpse! )」という英文記事の抄訳です(マイク・フラナガン監督のキャリアに関するパラグラフを一部割愛しております)。例によって元記事を書いた人には無断で訳しますので、前触れなしに削除する場合があります。ポーを読む方の参考になれば幸いです。

www.vox.com


ポーを今風に脚色することに何の意味があるのか。マイク・フラナガンによるNetflix最新シリーズ『アッシャー家の崩壊』はエドガー・アラン・ポーの同名小説の大まかな翻案だが、これには確かに馴染みの深い名詞が数多く現れる。それぞれのエピソードが一つの、もしくは二つ以上の懐かしいポーの作品に依拠しており、われわれの心をジュニア・ハイスクール時代へとトリップさせてくれる。問題はトーンが無いことだ。
まず、ほとんどの人間が原作「アッシャー家の崩壊」について何か知っているとすれば、それはこのタイトルの「崩壊」が近親相姦の意だということだ。だがNetflix版はその代わりに、これがオピオイド危機の話ならどうだい?と提案する。
この物語は、ある製薬大手の冷たくてよそよそしい継承者が、その帝国の衰退期に、子どもたち一人一人が悲惨な死を遂げるのを見届けるというものだ。 ショーの 8つのエピソードを通じて、フラナガンはポーの最もよく知られた短編のいくつかからアイデアを借用し、強欲と一族の破滅を描いたほぼオリジナルのストーリーを作り上げ、ある種のポー的な映像世界を創出する。 とはいえ壮大エピックな家族ドラマの間にあって、ポーとの関連へのこだわりはしばしば不純であり、不快ですらある。 登場人物の一人にアナベル・リーを名乗らせ、主人公にポーの有名な詩をランダムに朗読させることは、彼の変わらぬ愛をわれわれに確信させてくれるだろうか。 たぶんノーだ。
しかしながら、これがショーが依存しているアプローチであって、その結果、テーマとムードがミスマッチを起こしている。 『アッシャー家』には、手の込んだ仕掛けはあるが、ポーの全作品の中核を成すエレメントが決定的に欠落しているように思われる。 それは情熱だ。登場人物たちの死に様はゴシックホラーかも知れないが、生き様はそうではない。

Netflix版『アッシャー家の崩壊』から、フレデリック・アッシャー(ヘンリー・トーマス)と重傷を負った妻モレラ(クリスタル・バリント)。www.imdb.comより。

注意: 以下のレビューは『アッシャー家の崩壊』のネタバレを含みます。

ライターとして、ポーもフラナガンも陰気で、少なからず恥知らずで、死や悲しみや喪失ロスについての心理学的ならびに哲学的問題に取り憑かれている。 「アッシャー家の崩壊」なるポーの悪名高い短編小説は、フラナガンの家族に対する執着を共有しているので、フラナガンと更に相性がいい。 フラナガンの作品に時間を費やしたことのある者なら誰でも知っているように、彼がベタなびっくり箱ジャンプ・スケアや内省的独白よりも好む唯一のものは、家族について考えること――すなわち何が家族を結びつけ、何が引き裂き、何が家族を再び結びつけるのかを考える機会であって、 それはマイク・フラナガンの世界観には、たとえ最も皮肉な瞬間であっても、家族の再会と救済への希望が常に存在するからだ。
アメリカン・ホラー・ストーリー』で同じキャストが繰り返し起用されたのと同じように、フラナガンは中心となる役者たちのローテーションを組んで仕事をする傾向がある。 このシリーズでは彼らは皆、自分たちがポーの暗い世界に生きているという自負に全身全霊を捧げており、守秘義務やスピン報道に関する皮肉や警句とともに、ポーの詩や小説からの狂った台詞をすらすらと口にする。 各エピソードは、それぞれ別の有名なポーの短編小説に漠然たるテーマを負っており、『ファイナル・デスティネーション』のごとき災難のごちゃ混ぜホッジポッジの中で死の様相が展開する。 アッシャー家(サックラー家の明らかな類似品アナローグ)の凄惨な死は、アメリカのオピオイド危機に対する超自然的な報復だが、その危機とはまさしくアッシャーが先導アッシャーしたものだったのだ。連続死の凄まじさが呼び寄せたかに見えるのは超自然的な死の女神、すなわち「フラナギャング」のOGメンバーの一人カーラ・グギノで、アッシャーたちを死へと追いやるために、一連の仮面ペルソナを着けて現れる。
ショーはこの設定により、ポーのよく知られたテーマへの継続的参照と、特定の原作に焦点を当てたエピソードとの間を行ったり来たりすることができる。 たとえば有名な詩「大鴉」、古典的な復讐劇「アモンティラードの樽」、そして「アッシャー家の崩壊」への言及は随所に登場する。 他の作品では主として登場人物の名前で(たとえばカール・ランブリーが見事な沈着で演じた元刑事の検事オーギュスト・デュパンは『モルグ街の殺人事件』や『盗まれた手紙』などのポーの小説に出てくる探偵と同じ名前)、または何気ない余談や、会話中に挿入される直接の引用によっても言及される。 この一連のほのめかしは、露骨なものからひそかなもの、明敏なものからうるさいものまで多岐にわたる。 ある時、ロデリックの無表情な弁護士ピム(素晴らしいマーク・ハミル)がディナーにゲストを呼ぶ話をするが、これはもう一人のピムが当該ゲストの人肉を食うというポーの原作小説へのほのめかしである。 登場人物の一人には、ポーの実人生での敵、ルーファス ・グリスウォルドの名が付けられている。
参考文献にはもれなくチェックが入っている。「モルグ(死体保管所)の殺人」では霊長類による死が取り上げられる。 「赤死病」は今風の狂宴バカナルとなり、きわめて邪悪な方向に向かう。「ゴールドバグ」のエピソードには黄金虫が出てくる。 また『アッシャー家の崩壊』とのタイトルが示す通り、誰かが生き埋めの憂き目に会う。とはいえこうした隠し味は、楽しいおまけ要素イースター・エッグとして機能することを除けば、メインストーリーに寄与するところがほとんどない。そしてメインストーリーは参照している原作と、実際のショーとの乖離かいりに悩まされる。
フラナガンは今回、自身の最大の参考文献に対して、一種の「使いまわしミックス・アンド・マッチ」のアプローチを採用しており、オリジナルとの一致がほとんど偶然に過ぎなくなっていることが多い。 たとえばポーの短編「黒猫」は、もとは暴力的な衝動に抵抗できない殺傷中毒者の物語だ。 しかし『アッシャー家』の「黒猫」では、視聴者が中心人物と過ごす時間がほとんどないうちに、彼と化け猫との戦いが始まってしまうので、彼のそうした内的側面が見えてこない。 その代わり、その心理学は「落とし穴と振り子」のテーマとして引き渡されるので、結果的に「落とし穴と振り子」には原作との共通点がほとんどなく、一方で「黒猫」には原作を忘れ難いものとしているあの凶暴な激しさや深みがまったく無い、等々。
さらに、これらの死の裏に横たわる理由――アッシャーとその家族とがグギノ演じる死神に付きまとわれるのに8つのエピソードが費される理由は、本質的にファウスト的であり、すべてが呪いによるもので、勧善懲悪的であることが判明する。 ポーの未だに残る謎、彼の小説とその主題の上を覆う内的モチベーションと夢幻的ロジックに関する未解決の巨大な問題は、そこには見当たらない。
確かに素晴らしくクリエイティヴな瞬間はいくつかある。たとえばフラナガンは、アッシャー家全員を紹介するオープニングで、気の利いたクロスカットや対話のオーバーラップによるモンタージュを愉快に編集している。それから殺人また殺人だ。デカダンス、メロドラマ、血潮、美味なるホラー。あなたがこの作品を鑑賞する目的が、キャラクター一人ひとりのド派手な死までの運命のカウントダウンの8サイクルであるなら、あなたは大満足だろう。
だがこのショーには、ポーを時代を超えた人気者たらしめている詩的な繊細さや感情の深さ、意味の重みといったものがほとんどない。 ポーの小説は影に満ち、熱を帯びて膨張した想像に満ちている。 それらは悪夢と、幻覚と、狂気との入り乱れた混沌を呼び覚ますのだ。 フラナガンの『真夜中のミサ』の荒涼たる沈鬱と、『ヒル・ハウス』の背後からヌッと現れる幽霊とを組み合わせれば、このテーマにぴったりだったことであろうに、この企画が代わりに採用したのは重役会議的感情麻痺だった。設定も、登場人物同様、淡白で冷たい。ポーのゴシック要素の挿入は、内輪もめしている大金持ち一家を皮肉る夜間照明ハロゲンコア的雰囲気の中では、不自然に殺菌されてしまったかに見える。登場人物が幻覚に打ち負かされ、ハエのように地べたに叩きつけられる時でさえ、物語のトーンは他人行儀なままだ。われわれはあたかもロデリック・アッシャー(ブルース・グリーンウッド)のごとく、無情な会社のビルの上から人間の苦悩を見下ろしている一羽の鳥の視界に閉じ込められているかのようで、ポーがわれわれを取り込んだような悪夢の中を真っ逆さまに落ちてゆく気がすることは決してない。
もう一つ、この翻案には、ポーの性心理的葛藤(psychosexual turbulence)がまるで感じられない。 確かに変態行為はしょっちゅう出てくるが、ショー全体のトーンに合わせて、常に性欲処理的で、情熱がなく、快感すら乏しい。 ある登場人物は乱交パーティーを主催するが、ビジネス戦略としてに過ぎない。 別の女性は、個人秘書たちをコントロールして、純粋に取引上のセックスをさせる。 もう一人は夫との肉体関係をすべてセックスワーカーに外部委託している。 そうして繰り返すが、アッシャー兄妹の間には、昇華された近親相姦的欲望のヒントすらない。これこそが皆が原書を手に取る理由の半分であるというのに。
あなたはこれらの登場人物のうちの誰一人として、倒れた敵の前で狂ったように笑ったり、墓穴から執念深く這い出してきたり、死体と不適切な交渉を持ったり、その他ゴシック小説をたまらなく面白いものにするあの物凄すぎる個性の発揮といったものを一切しないことに気がつくだろう。なるほど、ロデリック・アッシャーとその妹マデライン(メアリー・マクドネル。月並みな出来)は、彼らの母親の「早すぎた埋葬」について、さだめしトラウマを抱えていることだろう。事実、第一のエピソードで、彼らの母親は墓穴から這い出して来るのである。ところがこのプロットは何らインパクトを残さずに片づけられ、兄妹は平気でふたたび人を生き埋めにする。アモンティラードのクライマックスたるあの凶行ですら、単なる覇気のない商取引に堕してしまう。狂喜はどこだ?激怒はどこだ?ヒステリアはどこだ?最終的に考えられないような狂った行為へと爆発する、あの長期にわたって抑圧されてきた感情の解放はどこだ?ポーはどこだ?
フラナガンはこの点について、二つの人格変容キャラクター・アークでわれわれを満足させてくれる。この二つはいずれもが痛めつけられた狂暴な心理の混沌たる矛盾をよく捉えており、ストーリーが時間をかけてキャラクターを確立した上で、人格が次第に崩壊してゆく有様を描き出しているので、いずれも成功している。第一の勝利はタニア・ミラーのもので、彼女はヴィクトリーヌ・ラフルカードなる心臓病学者を演じ、奇跡的な医療技術を追い求めるあまり、精神錯乱に陥ってしまう。その結果は驚くほど血まみれで、一点非の打ちどころのない恐怖の表現となる。第二の勝利はヘンリー・トーマスのもので、彼はフレデリック・アッシャーという意地悪な長子を演じ、弟や妹が次から次へと死に始めると、家族に対する疑心暗鬼と怨恨から、凶悪な家庭内暴力へと突っ走るが、それはクラシックで皮肉な一撃によってピークに達する。
この二人のアッシャーの変貌はよく考えられ、巧みに表現されるが、皮肉なことに、これが他の犠牲者たちのケースの不手際を際立たせる結果となっている。フラナガンはあたかもポーの阿片オピウムに対する伝説的な耽溺から、現代のオピオイド危機との関連を思いつき、ポーの作品の情動的エッセンスについてはそれ以上掘り下げることなしに、思考実験を行なかったかに見える(ポーはおそらく阿片中毒ではなかった)。これはおそらくフラナガンが心のどこかで独自のストーリーを書きたいと思っていたからだろう。Netflix版『アッシャー家の崩壊』は、純粋で生々しく、スタイリッシュで素晴らしい恐怖の瞬間を数多く含んでいる。とはいえこの映像作品は、その元となる素材を均一に把握できずに失敗しているので、むしろその元となる素材にまったく依拠していなければ、かえって成功していたことだろう。理想的なフラナガン作品への鍵は、いいとこ取りの翻案などではなく、完全にフラナガン自身の発案によるストーリーの展開にあると思われる。


下は謎の女性ヴェルナについて語るカーラ・グギノ。「彼女はスーパーナチュラルな存在。悪魔ではなく、悪しきものですらない。人々は死に臨んで、彼女を前に本当のことを話す機会を与えられる…マイク・フラナガンは私に言った、『アッシャー家の人々は個々の楽器で、ヴェルナはこれを一つにするシンフォニーのようなものだ』と。」


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マイク・フラナガン監督の『アッシャー家の崩壊』をめぐって(レビューではない)

『アッシャー家の崩壊』から、謎の女性ヴェルナ役のカーラ・グギノ。www.imdb.comより。

マイク・フラナガン監督の『アッシャー家の崩壊』というホラー映画が10月12日からNetflixで配信されており、その1ヶ月前からYouTube上で公開されていたのが下の公式予告編(英語版)です。


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マイク・フラナガンという映画監督は、スチーブン・キングの小説を映画化した『ジェラルドのゲーム(Gerald's Game, 2017)』という作品で日本でも有名ですね。その他にも、確か『真夜中のミサ(Midnight Mass, 2021)』という作品がアメリカでちょっとしたセンセーションを巻き起こしたように記憶しますが、日本ではあまり話題に上らなかった。日米間のホラーに関する嗜好の相違の他に、宗教がらみのテーマだったせいで、日本人にはピンとこない面があったのかも知れません。
私はエドガー・アラン・ポーが好きなんですが、マイク・フラナガンのファンではないので、この『アッシャー家の崩壊』の噂を聞いても、わざわざこれを観るためにNetflixに加入しようとは思わなかった。ただポーについて、今のアメリカ人はどういうイメージを持っているのだろう、という点については大いに関心があったので、上の予告編のコメント欄などは興味津々で眺めておりました。
今は作品も公開されて、上の予告編のコメント欄も実際に作品を視聴された方の感想が主になっています。まあ、ROTTEN TOMATOESやIMDbのレビュー欄同様、毀誉きよ褒貶ほうへんこもごも到る、といったところのようですが、特に目立つ批判としては「キャスティングが多様性ダイバーシティに配慮しすぎていて、ために作品全体が滅茶苦茶になっている」というのが多く見受けられます。この「多様性ダイバーシティ」をめぐっては、アメリカのエンタメ界のみならず、文化シーン全体が大きな地殻変動のごときものに巻き込まれているようですね。そうしてこれに混じって目につくのが「ポーに対するリスペクトが足りない」というものです。
この映像作品は、作品全体のタイトルはもちろんのこと、8つのエピソードのそれぞれにポーの作品からの引用を冠している。のみならず、ポーからの引用はドラマのセリフ中にも出てくるようです。
下の動画にはポーの「夢の中の夢」という詩からの引用が出てきます。


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下は「海中の都市」という詩からの引用。


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このように、この映像作品にはポーへのオマージュがちりばめられているかに見えるのですが、実際に観た人に言わせると「これのどこがポーなんだ?タイトルはただの釣りに過ぎない」といった代物らしい。
実はこの「ポーが草葉の陰で泣いている」といった批判は、公式予告編が公開された当初から、「楽しみだ!!」「(配信が)待ち切れない!!」といった大多数の歓迎の声に混じって、結構投稿されておりました。私の目に止まったのは、たとえば予告編が公開されて二、三日目に投稿された、こんなコメントです。

何か新しいものを作ろうとは思わないのか?
Netflixはその代わりに、ポーのあらゆる作品を引っ張ってきて、甲高い効果音ヴァイオリン・スクリーチや、びっくり箱ジャンプ・スケアや、ポーが決して創ることのなかったモンスターなどとごちゃまぜにするのだろう。そうして万人がこの駄作を絶賛する。なぜならNetflixはポーの作品のいいとこ取りをして、何かユニークなものが創造されたかのように披露するだろうからだ。
これが原作の忠実な映像化だったらよかったのに。
知ってるかい?ポーは四十やそこらで金に困って死んだんだぜ。「大鴉」の稿料はたった1ドル25セントで、彼がそこから手に入れたのは近所の子供たちとの遊びだけだった。子供たちはポーの後をこっそりとついて歩いて、ポーがくるっと振りむいて「ネバーモア!」と叫ぶとみんな笑って逃げたんだ。
もし君がこの映画を観るのなら、せめて原作も読んで欲しい。君が読書が苦手なら、丸一日かかるかも知れないが、それで君はホラーの何たるかがわかるはずだ。

確かに、今をときめくフラナガン監督と、今から二百年ほど前にボルティモア野垂れ死にした貧乏詩人とのイメージ上のギャップを思いますと、何か暗澹たる気分になりますね。
なお上のアドバイスに「君が読書が苦手なら(『アッシャー家の崩壊』の原作を読むのに)丸一日かかる」とあるのは、「君が古文を読むのが苦手なら」という意味です。何せ今から二百年前に書かれた小説ですので、その文体は今のアメリカでは立派な古文体であるわけです。確か他の人のコメントで「原作は学校で読まされたが、さっぱりわからなかった」というのもありました。またこの「アッシャー家の崩壊」の原作のAmazon.comのコメント欄に「オリジナルはスタイルが古すぎて何が書いてあるかわからないので、今の英語に書き直したものを読んで、それなりに感動した」とあるのを見た記憶もあります。
このブログにはポーの小説を今の日本語に訳したものを幾つか載せております。これを見に来るお客さんは学生の方が多いようですが、日本の学校では今でもポーの作品を英語教材として用いているのでしょうか?もちろん古典に触れること自体は貴重な体験ですが、ポーの作品を英語教材に使うことは、『雨月物語』を日本語教材として使用するようなもので、とても適切だとは思えません。
上記の通り、ポーの作品について、これが発表された当時の衝撃をじかに感じることは、今のアメリカ人にとってももはや困難なこととなっている。これに対して日本の読者は、ポーの作品を今の日本語に直したものが読めるのですから、別に丸一日家に閉じこもらなくても、たとえばボードレールが初めてポーの作品に接した際の衝撃をリアルに追体験できるわけです。このチャンスをお見逃しなく。

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