魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ルネ・ヴィヴィアン作『一人の女が私の前に現れた』第5章

それは手に入れたばかりの自由に酔い痴れていた二十一歳のころ、イオーネに伴われて訪れたヴァリーの家で、私は初恋の甘美きわまる胸の痛みを知った。青空と夕闇とのその日以来、友情は恋愛のかげに隠れ、私の白い妹イオーネの姿は遠景へとしりぞいた。私はもはや彼女を私の『慰めびと』とは呼ばなくなった。なぜなら私はもはや彼女に悩みごとを打ち明けたりはしなかったから。悩みごとはひりひり疼く胸の深みに、誰にも悟られないように仕舞い込まれた。こうして私は沈黙と孤独の人となった。

ヴァリーは束の間の恋にいつもうつつを抜かしていた。何人もの女のまぼろしが、次から次へと彼女の心を彩った。他の女の匂いのすることが当たり前となり、他の女の笑顔に耐えているのが日常となった。私は彼女たちを意味もなく恨まないようにした。彼女たちは私のものを横取りしたのではない。それはもともと私のものではなかったのだ。私は彼女たちを愛していると言っていいくらい寛大な気分になれた。彼女たちはそれほど心優しく、それほど悪意なく私を痛めつけてくれたのである。
…私も今はこの行きずりの女たちを、何の苦痛もなしに思い出すことができる。彼女たちはみな各人各様に美しかった。殊に美しかったのはあるユダヤ女で、彼女はオリエントそのもののように壮麗だった。その髪にはしおれた薔薇と白檀の香りが沁み込んでいた。ヴェールを取ったバテシバと言えども、これほど燦然と光り輝いてはいなかったろう。その物憂げな、重いまぶたの下でまどろんでいたものは、官能的快楽の暴力だった。それは恐ろしいほど美しい女だった。

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ウィレム・ドロステ『バテシバ』(1654年)。私はこの絵が京都に来た時、実物を見ました。一度見たら忘れられない絵です。ルーヴルではレンブラントの『バテシバ』と向かい合って置かれているそうです。日本語版ウィキペディアより。

彼女の後に続いたのはまだほんの小さな女の子で、その子の横顔を見、その子のさえずりを聴いていると、私は優しい気持ちになるのだった。その子は間もなく、女神の肉体のうちに少女の魂を宿したある若いイギリス人女性に取って替わられた。
次には一組の姉妹がヴァリーの歓心を得ようとして争い、その姉妹の髪はいずれも北極の太陽のようなシルバー・ブロンドだった。とは言え彼女たちの天下もまた長くは続かなかった。不実な恋人が彼女たちのことをすっかり忘れてしまったのは、好き者の甘い微笑みを浮かべたあるアメリカ人少女に夢中になったからである。誰もヴァリーの恋心を支配するすべを知らず、彼女のふらふらした気持ちをつなぎとめておくことはできなかった。
にもかかわらず、私はこのような幼い情婦たちにいつも嫉妬せずにいられず、それは彼女たちが、たとえ一瞬にせよ、ヴァリーから本気のキスをもらっていたからである。
「今の私はあなたを愛しているとは言えない」水入らずのひとときに、彼女は言った。「たぶんそのうち人を愛するすべを学ぶわ。あなたは私に少しずつ本当の愛を教えて」
そうして私は彼女の目に嘘偽りのない愛情が現われるのを忍の一字で待ち続けたが、何の甲斐もなかった。

夏が薔薇色に咲き乱れ、夏が海上に輝いた。そうしてヴァリーは私にアメリカまで同行するよう厳命した。私はついていった、彼女のために過去も未来も捨てたあの日と同じように。
私たちはある大きな女子大学に通い、そこでは男性の出入りは何人かの研究者と労働者を除いて認められていなかった。それは全く神聖な町、努力と瞑想の町であった。若い女たちは将来の戦いに備え、または自らの満足のために、学習の夢の無限を織り上げていた。肉の歓びよりも千倍も感動的な精神の喜びで、彼女たちの飾らない顔は輝いていた。校舎の壁はある静けさを発散していたが、その内部は蜂の巣を思わせる勤勉のつぶやきでいっぱいだった。

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ブリンマー大学のトーマス図書館(心理学研究)。1900年ごろ。ブリンマー大学のホームページより。

十月という聖なる月を「新世界」で過ごしたことのない者は、秋の美しさについて何も知らないと言ってよい。私はたそがれてゆく宇宙の火を前にしていた。木々は血まみれの焚き木のように燃えていて、その金茶の色は夢のように鮮烈だった。融けたエメラルドよりも緑の色をした小さな蛇が路傍の塵の中に眠っていて、生きている小枝のように、急にちょろちょろと走り出した。
この活動的であると同時に瞑想的な学校のそばに小さな墓地があって、こうもりたちが青い翼を広げて飛び交っていた。この窮屈な死者の都で、私とヴァリーとは日が暮れる頃、作詩中のサン・ジョヴァンニとばったり出くわした。彼女はエベネザー・ブラウンの最愛の妻であるハンナ・ジェインの立派なお墓の上に腰かけていた。
「おお詩人よ、ここは地上の楽園ですね」ヴァリーはにこにこしながら皮肉を言った。「蛇と、こうもりと、墓と、孤独と。あなたにとってここはまさに天国ね。天国も地獄も人それぞれね」
「なるほど」と私は賛意を表わした。「私にとっての天国とはひとことで言えば『音楽』だから、私にとっての地獄とは『非音楽』に他ならない。もし私が地獄に落ちたら、たぶん強烈な騒音を聴かされるという刑を受けるので、のこぎりの音や、路面電車の音や、子供の金切声や、サイレンの音や、下手くそなピアニストの穴だらけの演奏などを永遠に聴かされ続けなければならないのだわ」
「'Letters from Hell'(『地獄からの手紙』)というタイトルの変な本を読んだことがあってね」とサン・ジョヴァンニは言った。「それは地獄に落ちた人たちの書簡集で、嘆かわしいプロテスタント精神がこめられているのだけれど、地獄の風俗習慣に関する珍妙な描写がいっぱいなの。亡霊はそこで生前犯した罪について、遅まきながら償いをする必要に駆られて罰を受ける…たとえばエゴイストたちは他者を愛し、他人に尽くしたいという欲求に駆られて闇をさまよう。彼らは役にも立たない愛の言葉で空しく舌をもつれさせ、発作的な愛欲に駆られて空しく両手を広げるの。そうして彼らが卑屈な求愛の言葉を並べ、熱心な愛撫を重ねている影の方は、あまりの鬱陶しさに彼らを拒絶する。
「偽善者たちは、その霊が正直者になりたい由、公言しているにもかかわらず、自分たちが生前ついていた嘘について、涙ながらに白状することを強いられる。虚栄心の強い者が受ける罰はもっと恐ろしい。彼らは生前の自分を他人がどう見ていたかを見、自分について叩かれた陰口をすべて聴かなければならないの」
私とヴァリーは少し大げさにふるえ上がって見せた。
「愛欲の強い者が受ける刑は」私は興味津々でたずねた。
「欲するという行為を強制される」とサン・ジョヴァンニは答えた。「内心うんざりしながらも、彼らは一人の人を思い続けるという不可能事を漠然と夢想する。一人ぼっちの淋しさは彼らを飢えのように噛み、渇きのように焼く」
彼女は少し考えた。
「その昔、ある女のために地獄に落ちた男がいた」と彼女は続けた。「彼の激しい愛欲は死後の世界でも彼を責め苛んだ。彼はその女にふたたびめぐり会えるのではないかという希望を捨てなかった。地獄の責め苦のさなかにあって、彼女の訪れを思わない日はなかった。何年も何年も、彼は待ち続けた」
「それが愛の偉大さよ」悟った人のように、私は言った。
「彼がふたたび見ていたのは若い頃の無慈悲な美女の姿だった。彼は口づけで赤く染まった遠い日の唇や、紫色のまぶたや、素晴らしい肉体を思って胸を焦がした。思い出されるのは神秘の宵であり、交わされた言葉であり、聖なる沈黙であった。
「長い間、彼は待ち続けた。
「彼女が遂に戻ってきて、彼のかたわらにしゃがみこんだ。影の中から現われた顔の上には幾重もの皺が刻まれていた。彼女がにっこりと微笑むと、歯の抜けた口の中から黒ずんだ歯肉が見えた。胸はぺしゃんこになった二つの革袋のように垂れ下がっていた。まばらになったまつげの下で、しょぼしょぼした目がまたたいていた。
「この恋する男に科せられた刑罰とは、このおぞましい化け物に追いすがり、昔のように涙ながらに愛の告白をして、もろもろの約束と祈りとを繰り返すことであった。彼はいやいやながらも彼女の悪臭紛々たる唇に接吻させて欲しいなどと言った。そうして彼は、かつては本当に恋い焦がれていた肉体の前で、心にもない讃辞を発明するのに疲れ果ててしまった」
ヴァリーは少し青くなって、顔をそむけた。
「サン・ジョヴァンニ、もしあなたが地獄に落ちる番が来たら」と私は口をはさんだ。「あなたはたくさんの読者を見出だすことでしょうね。読み物好きの亡霊たちは、みんなあなたの本を手にしていることでしょうね」
「お上手ね。私の書くものが売れるとは思わないけどね。地獄で読まれるなんて、素晴らしいわねえ。それは私の本のこの世での微々たる売上げの埋め合わせをしてくれることでしょうね」
「正義の女神は」と私は付け加えた。「地上を空しくさまよい歩くことに疲れて、地獄へ避難したのよ。正義は地獄の鬼たちが持っている唯一の美徳だもの」
「地獄に鬼なんかいないわよ」とサン・ジョヴァンニは答えた。「拷問者なんてナンセンス、なぜなら地獄に落ちた人たちは自分で自分を責めるから。『鬼』とは『邪念』の粗悪な擬人化に過ぎない」
この時ある若い大学教授が仲間に加わって、それはギリシャ古典文学に造詣が深いことでヴァリーが尊敬している先生であったが、彼は最近婚約した由、誇らしげにアナウンスした。ヴァリーはその場にふさわしい決まり文句をぼそぼそと呟いた。サン・ジョヴァンニはいささか憂鬱な目で彼を見ていたが、やがて友好的に話しかけた。
「若き同僚よ、君に空しい祝辞よりも、将来の幸福にもっと役立つ忠告を与えよう」
彼女は膝の上に原稿を広げて、その中から行き当たりばったりに以下の一節を選び出した。

『蛇使い』はエフェベに言った。
「ここに蛇たちの教訓がある。彼らは情交の相談係だ。
「愛の手ほどきを避けよ。それは略奪のごとく卑劣、強姦のごとく非道で、殺戮のごとく血なまぐさく、ただ酔いどれの粗野な兵士にのみふさわしい。
「もし君の愛する女が処女であるなら、その初花を散らす行為は他の誰かに任せておけ。愛は混じり気のない情欲だけで出来ていなければならない。情交における苦痛とは、楽音の世界における雑音のごときものだ」

サン・ジョヴァンニは聞き手の心あたたまる「ありがとう」を耳にすることができなかった。「愛の手ほどき」のあたりで、彼は早々に逃げ出してしまったからである。そのような無礼な態度は彼としては珍しいものであった。
ヴァリーは呆れ果てて吹き出しそうになるのをぐっとこらえた。
「婚約中のヘレニスト相手にどんな忠告をしているのよ。あなたはあのよく出来た青年の羞恥心を傷つけてしまったのよ」
「ごめんあそばせ」サン・ジョヴァンニは容赦なく言った。「彼はあの無作法な婚約発表で、私の羞恥心を平気で踏みにじってくれたのよ。婚約なんてものは人前で口にするのをはばかるべき不潔な瑣事よ。聴かされる方の身にもなってもらいたいものだわ」
「お黙り」ヴァリーはにっこりと笑った。「それよりその『男の売春婦』という面白そうなタイトルの付いた原稿を読んで聞かせて」
「それはいいけど、その前にことわっておかなければならないのは、先日の夜、あなたがべたべたと体をくっつけながら共にワルツを踊っていたあのド・ヴォーダム氏の顔に、私はこの『売春夫』を垣間見たのよ。ドルに目がくらんで、彼は『売春夫』に成り下がったのね」
サン・ジョヴァンニは重々しく語り始めた。

Look here, upon this picture, and on this.
(これを見て。この絵と、この絵も)

「『売春婦』が夜を通り過ぎてゆく。
「彼女の顔には期待による乱心が貼り付いている。その頬紅の赤は羞恥の赤に似ている。彼女は夜を通り過ぎてゆく、野獣のように追い詰められ、世界中から有罪の烙印を捺され、不名誉な投獄の危険に絶えずさらされながら。明日の生死もわからない彼女の頭上にかざされているものはデモクレスの剣ではなく、ポン引きや行きずりの男たちの卑劣なナイフである。彼女は食い物にされ、食いつぶされてゆく存在、偏見と警察の取り締まりとの下に押しつぶされている存在である。
「この女はみずからを売るが、古代の市場における奴隷のように、売り飛ばされることもある。そうして彼女が来ると道を空ける人たちは、彼女を『売春婦』と呼ぶ。
「『売春夫』はその御殿のように大きなお屋敷で不精を決め込んでいる。彼の気まぐれによるお仕着せを着せられた従者たちは、絵のように美しい姿で彼の命令を黙々と実行する。彼の飼い馬たちはその堂々たる美しさで、動物美の愛好者たちの目を楽しませる。贅沢、すなわちこの世におけるあらゆる夢の実現が、彼の行く手を常に照らしている。彼の欲望は美しく叶えられる。彼の慢心の周囲で讃辞が爆発する。彼は通り過ぎてゆく、光の冠をいただき、賢者や使徒たちよりも栄光に輝きながら。
「彼は自分自身を売った。とは言え『結婚』は寺院の穹窿の下で、この商取引を神聖なものとした。厳粛なる祝典がお金目当ての行為に敬礼した。彼は教会に祝福され、慣習に讃美され、法律に守られている。彼を『売春夫』呼ばわりするのは私だけだ。
「女は無知のため、必要のために自分を売った。なぜなら賃金法は働く女に対して苛酷であり、女が楽をして食べてゆく手段は売春しかないからだ。
「男が自分を売ったのは、お金になる仕事はいくらでもあるにかかわらず、努力よりも安楽を取り、自尊心よりも一攫千金を選んだからである。このようにして女の『売春婦』よりもはるかに道徳的に堕落した、はるかに見下げ果てたこの男の『売春婦』は、現世におけるすべての利益とすべての栄誉とを享楽する。
「ただ私だけが彼に真のレッテルを貼ってやるのだ、『売春夫』と」

「『売春夫』はこきおろされて当然ね」と私の女司祭は賛意を表わした。「だからと言って、今夜も彼とワルツを踊らないわけにはいかないけどね。私はこれからこの学問の都を離れて、お隣の大邸宅で催される軽薄きわまる舞踏会に参加するのだけれど、私のお付きの騎士よ、あなたも来るわね」
「嫌よ」私はやんわりと言った。「私はもう何度もあなたを目で追ってきた。あの操り人形たちの腕の中でゆらゆら揺れているあなたを見て、私がどんなに悲しかったか。私はもう妬けて妬けて、あなたとワルツだのコティヨンだのを踊っている男たちが憎くて憎くて仕方なかった。ヴァリー、私はもう二度と舞踏会へは行かないわ」
「あら、そう」彼女はふくれっ面をし、愛らしく肩をすくめて見せた。「さようなら、サン・ジョヴァンニ。あなたも私よりふくろうや蛇と一緒にいる方を選ぶのね。あなたたちはせいぜいその辺の墓碑銘について、心ゆくまで瞑想していらっしゃい」
そうして彼女のワンピースの裾が巻き起こした風は、死せる木の葉たちの眠りを心なく掻き乱した。(第5章終わり)