魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ルネ・ヴィヴィアン作『一人の女が私の前に現れた』第4章

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ジョン・コリア作「リリス」(1892年)。日本語版ウィキペディアより。

四月も末のある日、ヴァリーが受け取った手紙の紙面には、あまりにも繊細であまりにも不明瞭な文字が蛇行しており、それはあの官能的神秘主義者、あるいは神秘的官能主義者の筆跡に違いなかった。古い羊皮紙のように黄ばんだ紙の一角には象形文字がもつれていたが、時間をかけて辛抱強く吟味した結果、それは現代の字体の頭文字を組み合わせたものに過ぎないとわかった。

「今日の午後いらっしゃいな、あなたの奴隷も連れて」

…私とヴァリーとはその日の午後、風変わりな緑色のブドワールでサン・ジョヴァンニを待っていたが、その部屋の家具は皆面食らうほどくねくねしていて落ち着かなかった。そこでは不可解きわまる「アール・ヌーボー」が勝利を収めており、『過去』の遺物はレオナルド作「サン・ジョヴァンニ」の複製だけであった。この複製は、共感と敬慕の雰囲気に包まれて、ためにあのサフィズム詩人の肖像というよりも、むしろ魂そのものといった印象を与えた。
黒いアイリスが枯れている花瓶のまわりに、ひからびた蛇が巻きついていた。
優しい好奇心から、ヴァリーはその光沢を失ったうろこを眺めていた。そこにはもはや生彩もなく、打ち砕かれた宝石のような輝きもなかった。
「死んだ蛇をあまりに長く見つめていては駄目」サン・ジョヴァンニの声が響いた。彼女の忍びやかな足音は絨毯の深い毛に吸い取られて、ために私たちの夢想は中断されることがなかったのである。「なぜなら死んだ蛇たちは彼らを愛する者の目で蘇るから。リリスの魔性の目は彼らをふたたび活性化させる、月光が澱んだ水をふたたび流動させるように」
「あなたが前にぽつりぽつりと話して聞かせてくれた小話のことを思い出した」と私の異教の女司祭が言った。「あなたの言葉は幻のたそがれの彼方で震えていて、それは恐怖に蒼ざめたある『他界』の戦慄だった。あの『死んだ蛇』のコントをもう一度聞かせて、サン・ジョヴァンニ」
厳かな低い声で、女詩人はその夢を呼びさました。それはもろもろの公言できない苦しみが隠然と身を震わせている夜に、彼女の目に映じた幻であった。
「これは山中で道に迷ったあるアメリカの女冒険家の物語なの」と彼女は説明した。
物語が始まった。

「私はもう何日も山中をさまよっていた…そうして岩が人や動物と奇妙に似ているのを見て面白がっていた。身をかがめたキマイラにしか見えない岩があり、用心深くこちらをうかがっている『水の精』もいた。さらに鮫や、鯨や、オベリスクや、鰐や、女の尻のかたちが認められた。拷問にかけられた巨人の胴体もあれば、巨大な石のヴェールをかぶって跪いている修道女たちもいた。
「私は美しくていたずら好きの蜥蜴たちと遊んだ。宝石を愛するように、彼らを愛した。そうして夕暮れになると私は心から悲しくなるのだった。私は夕暮れになるといつも悲しくてたまらず、また朝が来ると不吉な予感で凍りつくこともあった。
「私は淋しさゆえに物思いに沈んだ。しばしば死の影のような暗闇に腰を下ろした。そんな時に私が考えていたのは、私たちが知るすべもないことばかりだった。
「説明できない恐怖が私の中を駆けめぐった。もし何が怖いのかがわかっていたら、それはもう怖いものではなくなっていたことだろう。もはや動く勇気がなかった。布団の下にもぐりこむ子供のように、私はからだを丸めてちぢこまった。未知への恐怖で心が乱れた…そのような時、非常に長い間、私はじっとしていて、ただ目の前をまっすぐに見つめたまま、顔を右に向けることも左に向けることも出来ないでいた。わけのわからぬ恐れを抱いていることは恐ろしいことだ。
「私は誰をも傷つけたことはない。私は一人の少女をとても純粋に愛したことがある…木の葉の間でげらげら笑っている時の彼女の目は決して笑っていなかった…その暗い目はその唇が表わしているよろこびを否認していた…彼女は死んだ…
「その後、私に女が出来た。私が蜥蜴を好むのは彼女に似ているからだ。彼女は日なたで眠るのが好きだった…彼女に怖いものなど何もなかった。幸福なひとだったにもかかわらず、彼女が歌を歌っているのを私は一度も聴いたことがない。何物も彼女を震え上がらせることは出来なかった。彼女はすぐに他の誰かを好きになった…それ以来、私はこの山中をさまよっているのだ。
「人を見くだすように晴れ上がった午後も暮れかけた頃、私は蔓草になかば覆われた奇妙な掘っ立て小屋を見つけて驚いた。それはある隠者が一人になりたいという狂おしい情熱とともに身をひそめている場所に違いなかった。
「人間の顔を見るのは本当に久しぶりだった。それで私はその隠者の庵のとびら代わりになっているむしろを掲げて中をのぞいた。
「そのような奇妙な住まいは初めてだった。板張りの四壁は乾いて縮れた蛇の皮によってびっしりと覆われており、その皮のうろこはそれでもまだそのうっすらとした輝きを失っていなかった。
「片隅にうずくまって、年老いた男が驚きと恐怖で顔を引きつらせていた。
「私はその頬のこけた、細長い顔を見て、何となく怖くなって後ずさりした。眼窩から飛び出した彼の黄色い目は、まるでふくろうの目のように、あの日光に弱い夜行性の目のように、膨張していた。過度にとんがったあごが目を引いた。白い蓬髪は絶え間ない恐怖にさらされているかのように逆立っていた。
「私は中に入れてくれと彼に頼んだ。彼はこちらをじっと見つめたまま、答えなかった。耳が遠いのかと思って、私は声を高めた。
「『大声を出すな』と部屋のあるじが言った。
「棺桶がぶっこわれたようなその声に、私はぎょっとした。
「私はためらった…しかし好奇心の方が分別よりも強かった。
「『入れ』彼は不意に叫んだ。
「沈黙が続いた。
「『会話に慣れていないのだ』言い訳するかのように、彼はつぶやいた。
「私は自分がいるこの不吉な場所を物珍しげに見回した。
「『なぜそのように壁を見つめている』と世捨て人が怒鳴った。『壁を見てもらいたくない』
「私は決心がつかないまま立ち尽くしていた。
「『あなたは蛇殺しですね』私はこわごわながら言ってみた。
「そうしてこのように何でもない言葉によって生じた思いがけない結果に唖然とした。
「世捨て人はにわかに立ち上がった。歯がガチガチと鳴っていた。彼は高熱に苦しんでいる病人のように見えた…その発作は子どものように泣き崩れることで峠を越えた。
「『それで君は』と彼はぶっきらぼうにたずねた。『蛇を殺したことがあるのか』
「『一匹か二匹、殺しました』私は不安を募らせながら、小さな声で答えた。
「老人は飛び上がると、私の両手を荒々しくつかんで、たわわに実をつけた果樹を揺さぶるように私を揺さぶった。
「『ああかわいそうに、かわいそうに…どうしてそんなことをしたのだ。そんなことをしても何にもならないのが解らないのか』
「その声は小さくなり、やがて恐怖におびえている者のかすれた声と消えた。
「『蛇が死なないということを知らないのか。と言うよりも、蛇は生き返るのだ。より恐ろしく、より有害なものとなって、生き返るのだよ』」
「日は傾いた。蒼ざめた黄昏で部屋の四隅の暗がりは怪しくも恐ろしいものとなった。
「阿片で廃人と化した中国人のように、彼は震えていた。
「『夜ですよ』私はやっとのことで言って、つらい沈黙を破った。
「『彼らが息を吹き返す時だ』と世捨て人はつぶやいた。『蛇を殺しても何にもならぬ…見ろ…見ろ…彼らが壁を這っているのがわからないか』
「彼の恐怖が私の目と心に乗り移ったのだろうか…それともそれは夕闇がもたらした幻影であったろうか…とにかく私は蛇たちが這っているのを見て、その乾いたうろこは宝石のようなきらめきを取り戻していた…こちらに注がれていたのは恨めしそうな視線で、それは敵意に満ちた、狡猾な輝きを浮かべながら、私たちの後ろにせまっていた。彼らはとぐろを巻いたりほどいたりしていた…今度は私の方が手に負えない身震いに襲われる番だった。
「『そこの緑色の蛇を見たまえ…』世捨て人はうめいた。『一番美しい蛇だ…生きた草の色をしている…草原を歩いていると、知らずに踏みつけてしまう…これほど美しい蛇を殺したことはない…それにこの赤黒い蛇…それにあの、海辺の砂利のまっただなかに眠っている小石のような縞模様の蛇…それにまた、あの錆びた銅色の蛇…私が殺そうとしたすべての国のすべての蛇…彼らは湿った床板の隙間から忍び込んでくる…そうして暗い四隅を這い回るのだ…見ろ…見ろ…』
「私は両足の先端から付け根にかけて、冷たいものが触れ、ぬるぬるしたものが絡みつくのを感じた。
「恐怖でわけがわからなくなって、私はかわいそうなお爺さんの腕をぐいと掴んだ。
「『どうしてここにとどまっているのですか。どうしてこの悪夢、この業病、この錯乱状態から遠く逃れようとしないのですか』
「冷たい汗でびっしょり濡れている額を、彼は震える手でぬぐった。
「『逃げようとしたさ。遠い昔のことだ…彼らはついてくるのだ…うしろを振り返ると、草の中や岩の下に見える…木の枝からぶら下がっていたり…小川を泳いでいたり…川底にうようよいるとウナギのように見える…その不吉な目で見つめられると身がすくんでしまう。本当のところ、私は『悪魔』が一匹の蛇だと確信している。蛇が呪われていると同時に神聖なのは恐らくそのせいだ…蛇を殺しても仕方の無いことがわかったろう…君が殺した蛇も他のすべての蛇と同様に蘇るのさ』
「外はまっくらだった。一筋の月の光で、数え切れないうろこが銀色に輝いた。
「『おお、今宵の彼らは意地悪だ…彼らは月が好きで、それは月が彼らと同じほど残酷だからだ…彼らは心ないお月様が大好きなのだ…彼らは喜び、月の光で恐ろしいものとなる…おお、今宵の彼らは実に意地悪だ』
「それは蔓草を吹く風のささやきであったろうか…私は口笛を耳にした…本当に口笛を耳にしたのだ…
「私はあのとびら代わりのむしろがかかっている出入口へとジャンプした…そうしてパニックに陥った馬のように、山の反対側まで一目散に走った…私は発狂していた…癲癇持ちのよだれが泡となって私の唇を汚した。
「とうとう緑色のあけぼのが山の端に現われた…とは言えあの世捨て人の暗い声は、今なお私の耳もとでこだましていた。
「『蛇を殺すな…蛇は死なない…と言うより、蛇は蘇るのだ、より有害な、恐ろしいものとなって』」

ヴァリーは黙っていた。その微笑みは漠たる不信感で曇っていた。
「あなたは本当にリリスの目が死んだ蛇を蘇らせると思っているの」彼女は遂にたずねた。
「もちろん」とサン・ジョヴァンニは言い切った。「短時間のうちに、蛇たちは不分明な道を這い進む。薄闇を透かして、彼らの目は残忍な光を放つ。なぜなら彼らはリリスの忠実なしもべだから。彼らはリリスが指示した獲物の見張りをする。彼らが見張っている人間は、得体の知れない恐怖とともに、その心臓を締め付ける冷たい蛇体の輪を感じるわけよ」
ヴァリーはあるマグダラのマリアの人形を見つめていて、それは落ち着いた色調の木製のドレスをまとい、手と顔が磁器で出来ていた。それはスペイン人たちが物言わぬ女優のごとく磔刑のシーンに集合させる、あの神秘的で純真な美しさを持った人形のうちの一体だった。私利私欲を離れた衝動から、彼女は万人のために祈っていた。その切実な悲しみの高まりで、彼女の美貌は霊的なものと化していた。
「そのマグダラのマリアで私が思い出すのはセビリアのあらゆる熱い輝きよ」とサン・ジョヴァンニが言った。「ああ、あの体が震えるような空気のシャープさ。そこにいるころ、私はこの身が霊妙な活気でほとんど透明になった気がした」
彼女は思い出に微笑んだ。
セビリアで」と彼女は続けた。「ある奇妙な、そうしてとても象徴的な話を聞いたの。ご存知のように、スペイン人は最近スペイン全土の時間を統一しようと思って、グリニッジ時間を標準に選んだ。ところがセビリア大聖堂の時計塔の時計だけが、グリニッジ時間は十五分早いと言って譲らない。その時計は他の時計たちに対抗してはばからず、遅れていることを自慢しているようだった。これはたとえ作り話でも面白い話だと思うけれど、どう思う」

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セビリア大聖堂のヒラルダの塔に1764年に設置され、1960年代に取り外されて、今は塔の中ほどのガラス張りの部屋に保管されているという大時計。今なお正確な時を刻み続けているそうな。www.eportbic.comより。

「別に。私は実話には興味が無いの」ヴァリーはふくれっ面をして見せた。「『現実』から出来るだけ遠ざかること。そこにこそ『芸術』の真の目的があるのだわ」
「それもそうね」とサン・ジョヴァンニは答えた。「現実を模写する者は、現実の粗悪な複製を作っているに過ぎない。創造する者だけが真の芸術家と言える。私は絵画では、心象風景や、夢の花々や、この世では決して見ることの出来ない顔しか愛さない。創造とは革新であり、人間が『自然』の中では見たことも聞いたこともないようなものを産み出すことよ。『自然』は模倣を絶し、『芸術』は想像を絶する」
「サン・ジョヴァンニ、私にあなたが理解できればいいのだけれど」私は激しい関心を覚えながら言った。「あなたは未知の樹液によって育まれた妖花なのだわ。あなたという逆説的な結果が生まれた不可思議な原因を解き明かすために、あなたの思い出話がどうしても聞きたい」
サン・ジョヴァンニは過ぎ越し方にみずからの姿を探し求めた。その目は、その深さ測り知られぬ泉の中にみずからの影を遠く追い求めている者の目のように、あてどなくさまよった。
「私の奇妙な少女時代は私自身の目から見ても不思議だらけ」彼女は振り返った。「私は幼い世捨て人で、いつも孤立して、ほとんど人間社会の外にいた。通りすがりの者から愚かしい優しさでほめられると、私は幾重にも重なり合った影の奥底へと身をひそめる者のように、本能的な侮蔑感の奥処へとしりぞいた。親しい女の子たちが調子に乗って人におべっかや、なでなでを求める時、このような闖入者たちを見る私の目は底意地が悪く、既に小さな憎しみで輝いていた」
彼女はここで自分の言葉にもっと真実味を持たせようとして、言葉を切った。
「幼い頃、私は誰をも愛さなかった。私の無意識の反感を前にすれば、どんなにしつこくて勘の鈍い同情者でも、戸惑ったものよ」
「まだ読み書きも知らない頃、私は自分の手の指の複雑な個性を楽しんだ。十本の指はそれぞれ人格を、性格を、ほとんど魂を持っていた。断定的で喧嘩好きな親指は、おのずから堂々と孤立していた。人差し指は預言者の叡智のうちに瞑想していた。中指はその帝国の限られた領土の上に、裕福な父親のブルジョワ専制を拡張していた。薬指は人差し指よりも背が高く、女らしい痩身で抜きん出ていた。小指はと言えば、これは子供の気まぐれと変幻きわなりない暴動とを体現していた。指と指とは長々とお話をした。私は彼らに山あり谷ありの道を大英断で乗り越えてゆく人生を割り当てていた」
「イオーネの指は」と私は口を挟んだ。「白くて細長い教会のキャンドルに似ているの」

サン・ジョヴァンニは続けた。
「ほとんどすべての子供たちと同じように、私も嘘つきで残酷だった。私はあり得ないこと、あってはならないことへの欲求に駆られて嘘をついた。私の不様につぎはぎされた作り話の中には、何年にもわたって貯め込んできたあらゆる夢想が織り込まれていた。
「身の毛もよだつような怪談を聞かせてやることで、年下の女の子たちをいたぶるのは楽しかった。彼女たちが怖がるのを見ていると、子供心にいい気味だった。とは言えこの悪魔のような想像力を一番恐れていたのは私だった。
「このように殻に閉じこもって孤立しながら、変態性欲者めいたことを考えたことは一度もなかった。
「十三歳の頃、私はある女友だちに対するとても純粋な情熱に捕えられた。その子の悲しげな眉はとても美しく、いとおしかった」
「私はね」とヴァリーが不意に言った。「やっと八歳になったばかりの頃、自分のあどけないくちびるを使って、悩ましい、ほとんど大人のような口づけをしてやることで、小さな男の子たちをメロメロにして喜んでいた。彼らのことは別に何とも思っていなかったけれど、彼らのおませな恋わずらいを見て、得意だったわ」
サン・ジョヴァンニはふたたびその目を過ぎ去った日々に向けた。
「その眉毛の美しい女の子のために、私は生まれて初めて詩を書いて、彼女はその純情をこころよく私に捧げてくれた。私は後日、二人が成年に達し、晴れて自由の身となった際、彼女を連れて逃げようと心に決めていた。夢の中で私は男装していて、それは彼女との結婚を可能にするためだった。とは言えこの一つに結ばれるという妄想に、性的なイメージは混じっていなかった。私はただ相性のいい色と色とが溶け合うように、お互いが溶け合った平和な時間を夢想していた。
「長い間、私は熱心に神を信じていた。長い間、イオーネと同じように、『不可知』なるものを恐れていた。今の私は『不確実性』の悲しい偉大さを楽しんでいる…
「私は恐らく伝道のために生まれてきたのよ」彼女は少し間を置いて、残念そうに言った。「私は新しい宗教を興すか、大昔の難解な叡智に満ちた信仰を再興したかった。それはかつて『空間』の概念を抱懐し、『永遠』の観念に生を与えた、『母なる女神』に対する原始的な信仰よ。私の詩には激しい情欲を歌ったものが多いけれども、私は本当は恋する女の魂を持ってはいない。私が持っているのは、聖域のうちに安らぎを見出せず、ヴェールを取って、香煙の中でみずからが赤裸であることに涙する、そんなある修道女の魂なのよ」
悲しみで声が途切れた。
「話が逸れて迷宮に入ってしまった」彼女は続けた。「十四になるまで、私は怠け者の、いたずら好きな小動物に過ぎなかった」
「すべての子供たちと同じように、ね」私は彼女に代わって付け加えた。
「そう」とサン・ジョヴァンニは答えた。「とは言え私のまだ目を覚まさない魂のうちに、ひとつの夢がじわじわと入り込んで来ていて、私がイタリアを旅したのはそんな頃だった。私はそこから美に関する混乱した概念を持ち帰った。私の無自覚な魂は十歳の頃から旧約聖書ギリシャ神話に驚嘆していた。とは言え宇宙の美しさが初めて私に明かされたのは、あの輝かしい芳香に包まれた風景を前にした時だった。私が愛というものを一番はっきりと見た気がしたのはそこでだった」
「あなたは恋する女ではないと言わなかったかしら、サン・ジョヴァンニ」私は少し驚いて彼女を遮った。「愛と肉体的快楽に関するあなたの考え方を教えて」
サン・ジョヴァンニはいつもの「半微笑」を見せた。
「私の少女時代が破廉恥な夢想からどんなに遠いものであったかはもう話したわね。事実私が受けたアングロ・サクソン式の放任教育では、何でも好きな本が読めたにもかかわらず、私は十七になるまで醜い性の営みについて何にも知らなかった。そのころ私よりはるかに厳しい教育を受けたあるフランスの女の子が、私に動物的な雌雄の交わりのことを教えてくれたの。私はそれを聞いてもう茫然自失、というより全然信じられなかった。本能的に、私は盛りがついた男女のグロテスクな乱行を受け入れまいとした。
「後から冷静に考え直してみても、やっぱり吐き気がした。
「とは言え、やがてそれほど不快ではない考えに夢中になった。正義への大きな渇望が夢のように身を焦がした。横暴で知恵の足りない男の奴隷となって、不当に評価されている女のことを思うと頭に血が上った。男はその卑劣で野蛮な掟と道徳的不純の故に憎むべきものとなった。私は男の業績を検討し、無価値であるとの裁決を下した。その頃の私はそれほど抑圧に対する誇り高い反抗心に燃えていたのよ。
「『ワシュティ』という詩を書いたのはそんな頃で、その詩の中で私が讃えたのは女性による最初の反逆のうちの一つだった。アハシュエロス王の最初の妃ワシュティは、小心者のエステルよりもはるかに美しくて気位が高く、かつて私は子供心に彼女を思って惚れぼれした。その太陽のように輝かしい素顔を、王が酔っ払った追従者たちに披露するよう命じた時に、彼女が気高く拒絶したのはあっぱれだった…彼女はその神秘的で美しい素顔を、暴君たちの淫らな視線にさらして辱められるよりは、惨めな追放者として死ぬことを選んだのよ。
「その高潔な魂ゆえに、私は彼女が好きで、崇拝している」
一瞬、サン・ジョヴァンニは口をつぐんだ。
私は彼女の愛の人生の秘められた部分について更に知りたくて、急いでたずねた。
「おお邪教の聖女よ、あの眉毛の美しいお友だちとはどうなったの」
サン・ジョヴァンニは話をあいまいにはぐらかしながら、逃げを打った。
「あなたはあの幼い恋または友情の、どちらとも言えない性質について思い違いをしているわ…私たちはあんまり無知で無邪気だったから、一度の口づけも交わさないで終わったのよ。
「二十歳を過ぎてから、私は女同士のとても美しい愛があることを知り、その純白の快楽と無邪気な誘惑とがわかりかけてきた。『メフィストフェラ』*1を読んだことで、目の前に思いがけない花園が現われ、未知の星くずへの道が開けた。私はあの本が大好きだった。もっともその本の中のいくつかの章は悪趣味で、ブルジョアのモラルが俗悪なメロドラマと本当に結婚していたけれどね。その小説の中ではある経験のない女の子が、少し経験があってそれほど恥ずかしがっていない別の女の子と、何の嫌悪感も持たずにキスをしていた。後悔も良心の呵責も知らない天使の接吻が、この地上において開花していた。それからの私は期待と不安を胸に、『初恋の人』の訪れを待ち受けていた…」
「その人のことを話して、サン・ジョヴァンニ…」
ところがミチレーネの女詩人はエフェベのごとく、不器用にはにかみながら面を背け、興奮した手つきでピアノの低音部の鍵盤に触れた。軽く、しかし力強く触れる官能的な指の下で、音はふるえた。
「私にとって永遠に残念なのは、自分が音楽家ではないということなの」彼女は溜息をついた。「私にとって音楽とは記憶の喚起に過ぎない。とは言えそれは海のように無限なのよ…音楽、それは暗示。それで思い出すのはある散文詩のことで、ショパンのある病的なノクターンを聴きながら書いたの」
彼女は弾き語りを始めたが、そのメロディは痛々しく、熱を病む者の脈にも似た乱れた拍動を持っていた。

あなたは秋に似ている、夕陽に似ている、だから私はあなたが好きだ。あなたが病気だから好きだ。死にかけているから好きだ。
あなたはまた髪の毛が赤くて目が緑色だから、そうしてかぼそくて悲しげだから、私は好きだ。あなたは瀕死の花のように身を折り曲げている。あなたの声は枯葉舞う十月の風のように悲しい。
私はあなたが死にかけているから好きだ。
私はあなたが病み疲れているのが嬉しく、痩せ衰えているのが楽しい…誰かがお墓の中であなたを待っているに違いない。
なぜならあなたは、私同様、死者がお墓の中で休みながら、愛する人たちを待っていることを知っているから。彼らはじっと、恐ろしいほどじっとしながら、心安らかに辛抱強く待ち受けている…
誰かがお墓の中であなたを待っているに違いない…
死者たちは地下で指を組み合わせて、友や仲間たちがやってくるのを待ち受けている。そうして彼らは時おり目を閉じたまま、年を数える…
私はあなたが死にかけているから好きだ。
もしもあなたが死んだら、おおわが秋の日の女よ、あなたもまた蝕まれた大理石のタイルの上に横たわって、私を待つことでしょう。あなたは黒くはびこっているかびに微笑みかけて、それは思いがけないものに見え、不思議な輪郭を描き、そうして時として浮雲のように、現し世の人の顔の形を取ることでしょう…もしもあなたが死んだら、すでに私を待っている彼女のように、あなたもまた私を待つことでしょう。そうして目を閉じたまま、年を数えるでしょう。
わが影への歌を歌う時、私はあなたの思想が冷たい息吹きのように、私の周囲を漂っているのを感じるでしょう。霰が降ると、あなたの指が窓を小突いている音を聴くでしょう。冬の日の風のひびきは通り過ぎてゆくあなたの死に装束の衣ずれの音でしょう…私はあなたが歳月を指折り数えながら、私を待っていることを知るでしょう。
日時計の上に落ちた影は、あなたの人差し指の影でしょう。すでに私を待っている彼女のように、あなたもまた霧や霧雨を通して、みずからの存在をほのめかすでしょう…
私はあなたが死にかけているから好きだ。
私があなたのくちびるの上に見るものは、かげろうのように薄命な美しさの、たちどころに燃え尽きる快楽。あなたに口づける時、私はあなたの失われてゆく生気をほんの少しばかり吸い取っているのだわ。あなたのからだから繊細な骨格が透けて見える。私はあなたの熱を帯びたこめかみが好きで、そこには青い静脈が浮かび上がり、冷たい汗の粒が輝いている。そのように青ざめたあなたが好きだ…
ああ、そのように青ざめてやつれたあなたは何と美しいことでしょう…
誰かが必ずやお墓の中であなたを待っているに違いない…

サン・ジョヴァンニは目を閉じて、消えた和音のそこはかとない反響に耳を澄ましていた。
「音楽の中で最も美しいものは」と彼女は言った。「それはリズムの最中に出来る『間』、そうして最後の音の余韻のあとに来る沈黙…」
彼女はキーボードのキーを、謎めいたものを見るように見つめていた。
「メロディのあらゆる美しさは左手の戯れのうちにある。ああ、低音の魅力、ヘ音記号の名状しがたいすすり泣きよ」
「サン・ジョヴァンニ、あなたは本当に音楽が好きなのね」と私は言った。
彼女はうなずいた。
「来世の至福を『永遠の音楽』であると説く宗教的なヴィジョンが、私は大好き。私もまた『選ばれた人たち』と同じように、宇宙へと解き放たれた歌声以外の何物でもなければいい」
彼女は官能的な口調で続けた。
「音楽…何という魅力、何という魔法…私はこの感情を'The Sin of Music'(『音楽の罪』)と題した小話で表現しようとしたことがある。それは砂漠で誘惑と戦っているある聖者の物語なの。あらゆる蜃気楼やオアシスが彼の冷やかな目の前でちらついているが空しい。彼の心は視覚に惑わされない。もっとも美しい裸婦たちの画像や彫像は、あたかも砂地を照らす月光のごとく、彼の目の前で無意味に光り輝いている。手が届かない故にひとしお慕わしい女神たちが、みずからその肉の白い炎を垣間見せても、彼の暗い目から欲情の輝きがほとばしり出ることは更に無い…
「圧倒的な芳香、無敵の芳香、人を絶命させるような芳香が彼に向かって立ち昇ってきても、世捨て人たる彼の肉体の深い平安を掻き乱すことは出来ない。太陽がより豊かに染み込んだ果実、人跡未踏の地の稀有なる果実、あるいは金色と紫色の葡萄酒でさえ、味覚のよろこびを呼びさますに足りない。そうして物好きな指が夢中になる動物の毛並みの心地よさも、おずおずとした愛撫にも似た薄織物の繊維の人肌のような悩ましさも、触覚というものが五感のうちでもっとも繊細かつ心惑わすものであることを、彼に思い知らせてやることは出来なかった。
「けれど『聴覚』が彼を倒したの。情婦のように熱烈で嘘つきの『音楽』、思い出を呼びさまし、後悔の念を刺激する『音楽』、水のように人を捕え、押し流す『音楽』が、彼をして一つの和音のすすり泣きに酔わしめた…聴くよろこびはあまりにも強く、ために彼は天国の栄光を見失った。
「こうしてそれまで堅忍不抜だった『世捨て人』は、罪作りな『音楽』のせいで地獄に落ちた、というわけなのよ」
サン・ジョヴァンニの指は、巧みにスピードを加減しながら、楽音たちを執拗にもてあそんでいた。(第4章終わり)

*1:訳者注:『メフィストフェラ(Méphistophéla, 1890)』はカチュール・マンデス(Catulle Mendès, 1841 - 1909)作のレズビアン小説。