魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

ルネ・ヴィヴィアン作『一人の女が私の前に現れた』第21章

一年後、クレマティスの花薫るある夏の夕暮れ、イギリスのアンティーク家具に飾られた図書室で、私はエヴァとともにいた。私が安らぎを見出したこのエヴァの屋敷においては、すべてが飾り気がなく、嘘がなかった。すべてが人を暖かく迎え入れてくれた。壁にはビロードのような手触りの厚くて黒っぽい壁紙が貼りめぐらされ、内緒話が外に漏れる気遣いはなかった。肘掛け椅子は考えごとに持って来いだった。敷居をまたぐと同時に、人はほっとするのだった。古い木材とドライフラワーの香りが心地よかった。暖炉の上、イオーネの肖像のかたわらには、白いすみれの花が数輪枯れかけていた。

*訳者注:「肘掛け椅子は…持って来いだった」の一文、ジャネット・フォスターの英訳では欠落しております。

「驚くべきお知らせがあります」そう言ったエヴァの声はとても低く、秘密めいていた。「あなたが食堂に持ち込んだあの古いノルマンディー産の振り子時計だけれど、あの子はうちのアン女王様式の家具たちの間にすっかり溶け込んでしまったみたい。だって私はつい今しがた、あの子がこんな風にはっきり発音するのを聴いたのだもの。

『ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックス、セブン、エイト』

英語を覚えるのがずいぶん早かったのね」
「家具は心を持っているのだわ」と私は答えた。「私の友だちが言うことに、彼女の家にはあらゆるお客様をはねつける椅子があるんだって。彼女以外のどんな人間もそこに10分と座っていられないの。一途な恋心がそこから発散していて、それが知らず知らずのうちによそ者を遠ざけるのね」
「その話はたぶん本当ね。私が少し残念に思うのは、私たちが愛した家具たち、私たちの一部にまでなってしまった家具たちが、いつしか私たちと縁が切れ、他の誰かの手に落ちて、いま完全に私たちのものであるのと同じように、完全にその人たちのものとなってしまうだろうということよ」
彼女は口をつぐんだ。そうしてその言葉の悲しい内容にもかかわらず、二人を支配している沈黙はなごやかなものであった。
急にエヴァの唇がゆがみ、その端がかすかに引きつった。
「まだヴァリーのことが好きなのね」
私がかつて愛した人の名を口にする時、彼女の声は少し震えていた。
それまでひたっていた甘美な信頼感とは裏腹に、その名を耳にして、私は蒼ざめた。私はエヴァの目をまっすぐに見つめ、彼女が考えていることに対して返事をした。
「私は幸せよ、エヴァ、でも私には忘れられない。私が彼女を愛したように人を愛した者は、到底相手のことを忘れられるものではないわ。あれほどひどい目に会わせてくれた人のことを、どうして忘れられるものですか」
「ごもっとも」エヴァは大きな溜息をついた。
彼女は少しためらっていたが、やがて先を続けた。
「厳粛なる時が来ました。開け放たれた窓辺から、虫の知らせのように、何かしら未知なるものが流れ込んでまいります…」
突如として、私は花々の香りよりもより強く、より霊妙なる香りを嗅いだ。それは庭から立ちのぼり、この身に向かって否応なしに押し寄せてくるのだった。正体不明の危険を前にした者のように、私は身ぶるいした。
「今こそ教えてあげましょう、なぜならそうしなければならない時が来たのだから。まだ完治したとは言えないあなたの心の傷に障ることを恐れて、今日まで隠してきたことがあるのよ。ヴァリーと『売春夫』との縁談は破談になったの。『売春夫』はヴァリーの持参金よりももっと魅力的な持参金にみずからを売り渡したのね」
彼女は言葉を切った。そうして次の言葉をゆっくりとささやいた時、そのまぶたは神々しいまでに悲しかった。
「ヴァリーは帰ってきたのよ」
彼女は目を閉じたまま待っていた。私はこの単純きわまる数語の意味するところの深甚厖大なる内容を理解した。ヴァリーはあの下らない茶番に嫌気がさしたのだ。彼女は彼女自身に戻ったのだ、今は忘れられたいにしえの宗教の女司祭に、かつて私がその前に跪いた背徳の聖女に。あの汚らわしい男の影はもはや私たちの間に立ちはだかってはいない。私は彼女を取り戻すだろう。彼女のもとへ馳せつけて、その足もとにすがりつき、彼女ゆえに傷だらけとなった私、彼女ゆえに自分自身を傷だらけにした私を許してくれるよう、涙ながらに訴えることだろう。私はふたたびあの愛の苦しみと憎しみのよろこびの日々を体験するだろう。そうして全身に開花した無惨な傷口を、癒やそうとするどころか、後生大事にいつくしんでゆくことだろう。
…このような想いをたどるうち、私はかつてこの身を黒焦げにしたあの恋情の炎の中をふたたび生きているような気がした。その炎は恐ろしくもまた壮麗に、はりつけにされた私を取り巻いて燃えさかり、ために私はこのような華々しい死に様に身ぶるいが出るほどの高揚感を覚えるのだった。私にはあの痛烈にしてはかない愛のよろこびよりも、悶々として過ごした日々の苦しみの方がなつかしかった。
「ヴァリー」私は言葉にならない声で言った。「ヴァリー…」
気がつけば、私の目はふたたびエヴァの神秘的な灰色の瞳とめぐり会った。その目に浮かぶ悲しみは、その足もとに跪く人々の苦痛を和らげるすべを知らない聖母像の目の悲しみだった。
「ごめんなさい、エヴァ。ぼんやりしてしまって」
彼女は立ち上がった。その姿は半透明で、黄昏時のうすらあかりが透けて見えた。
「私はあなたをその昔からの相談相手、『沈黙』と『孤独』の手にゆだねます」
「あなたは私の『沈黙』でしょう、エヴァ。あなたは私の『孤独』でしょう。あなたは私の考えていることが私自身よりもよくわかるのだから」
彼女はその非物質の手を、懸命に握りしめた私の手から、ゆっくりと、優しく取り戻しながら言った。
「いいえ。あなたは他の誰の道とも交わることのないその道を、みずから切り拓いていかなければならないの。孤独とは一人ぼっちで生まれ、一人ぼっちで苦しみ、一人ぼっちで死んでゆく人間の、持って生まれた定めにほかなりません。どのような同情心も、いかに篤くいかに深いものであっても、この聖なる掟を破ることはできないのです」
そう言い残して、彼女は夕闇の中へ溶け入るように消えていった…

長い間、暗い夢を見ていた。エヴァの面影は、定かならぬ光の中で、超自然的なガラス張りの大屋根の夢となった。
暗闇の中から、少しずつ、性別不詳の微笑みが浮かび上がった…それはヴァリーだった。それは月光の華、オンディーヌ、ロアリーの面影だった。彼女は誘惑者の永遠の化身だった。両性具有神の非人間性が、そのまなざしの冷たい輝きを研ぎ澄ましていた。私はこの二人の女性こそ最良と最凶の両極を統べる二人の大天使であると信じた。ヴァリー、すなわち背徳の天使。エヴァ、すなわち贖罪の天使…ヴァリー、緑を帯びた月の光、毒草の花薫るヴァリー、トリカブトベラドンナに飾られたヴァリー…エヴァ、殉教者の赤い円光をいただいたエヴァ、その足もとに贖罪の白百合を踏み散らしゆくエヴァ
私は自分の周囲を取り巻いた目に見えぬ霊たちの加護を求めながら、口に出して言った。
「選ばなきゃ…」
「選んでは駄目」とその時コントラルトの声がさえぎった。ためらう私に答えたのは、あのなつかしい『中性人』の声であった。「選んだ者は、選んだことを必ず後悔するのだから」
「優しいサン・ジョヴァンニ、この運命の分かれ道で、あなたのアドバイスを聞かせて」
「私のアドバイスはこうよ」と彼女は答えた。「ヴァリーのもとへ帰りなさい」
「いつもは賢明なあなたが、どうしてそんな世迷い言を」
彼女は薄気味悪い笑みを浮かべた、水面に映るみずからの影に微笑みかける『夜』のように。
「どんなに賢明な忠告も、狂人のたわごとに比べれば無価値なのよ」と彼女は言い切った。「私は思う、と言うよりも私は知っているの。もしもあなたが在りし日のように彼女の膝もとへその身を投げ出したならば、彼女もまたみずからの非を詫びずにはいないであろうことを」
「もう遅いのよ、サン・ジョヴァンニ。私たちは取り返しのつかない言葉を交わしてしまった。それ以来、私と彼女との間には、いつも別の女性の影があるの」
もう我慢ならない、といった身振りを彼女がして見せたので、私は肝をつぶした。
「私はいつだって優しさよりも暴力を、愛よりも欲望の方を選んできたわ」彼女は一語一語に区切りをつけながら、尊大な口調で言った。「だからこそ私は輝かしい苦悩よりも、平凡な幸せとやらの方をよしとしたあなたの卑劣さを責めずにはいられないのよ」

*訳者注:「もう我慢ならない、云々」の一行、ジャネット・フォスターの英訳では欠落しております。

「サン・ジョヴァンニ、私はサラマンダーでもなければフェニックスでもない。私を破壊し、すり減らす存在のもとでは暮らしていけないの」
「そんなことを言っているかぎり、あなたは詩人にはなれっこないわ。幸せな詩人など存在しないのよ。私自身のことは言うに及ばず」と彼女は少し悲しげに付け加えた。「私は本当は詩人と呼ばれる資格が無いことを知っているから、この聖なる称号を僭称しようとは思わない。それに、人は死んではじめて詩人や聖人になれるのよ。けれどあなたは死んだって詩人になれそうもない、人を愛するすべさえ知らないのだから」
「私は命の限り愛したわ」私は自己弁護した。「超人になることを要求する権利など、誰にもない。イプセンのあの恐ろしい『一切か無か』、私はそれをよろこんで受け容れたのよ…のちになって、私は疲れ果て、空しい戦闘を放棄した。そうしてダンテのように、雷雨の夜をさまよい、安らぎを求めてとある修道院の扉を叩いたの。一人の修道女が聖域へと続く扉をひらき、そこで私の魂は聖なる慰めを得たのだわ…」
サン・ジョヴァンニは私の話を上の空でしか聞いていなかった。
「先日ダグマーと会った時、あの子はあのお決まりの下らない『新婚旅行』とやらの帰りだった」と彼女は言った。「あの子はあなたが自分を恨んではいるのではないかと気にしていた。あなたという人は、あの子があなたの求めるような恐ろしい愛であなたを癒してくれなかったからと言って、どうしてあの子を恨むわけ?」
「私は決して女の人を恨まない」と私は答えた。「たとえその人が私にかけた、あるいはかけようとした迷惑が、どれほど大きなものであろうとも。私にとって女性の不正や腹立ちは、神々の不正や腹立ちに等しい。人はそれを甘んじて受け容れなければならないし、愛情をもって受け止めなければならない。そうして人が誰かを愛さないからと言って、その人を罪に問うことは出来ない。ヴァリーが私を好きになってくれないからと言って、それは彼女の落ち度でも何でもないのだわ」
サン・ジョヴァンニの私を見る目が少し優しくなった。
「音楽の忠告に耳を傾けなさい」と彼女は言った。「花々の忠告に耳を傾けなさい。太古の昔から伝えられた神託のうち、今も残っているのは『歌』と『香り』しかないのだから。音楽は幻想の魔力をもって、あなたをあの異教の女司祭のもとへと連れ戻すでしょう。花々は追憶の威信にかけて、あなたをロアリーのもとへと導くでしょう…」
彼女は深紅色のとばりをかかげ、私は彼女のドレスの衣ずれの音が少しずつ遠ざかるのを聴いていた…私は心乱れたまま、ただ一人取り残された…大空の深みで星が歌っていた…

真っ青な顔をしたエヴァが現れて、私に一枚の紙片を手渡した。そうして枯葉舞う暗闇の中へと消えていった…
私は星あかりをたよりに読んだ。

『庭で待つ』

かつてなく強烈な、知らない花の香りが、はるか彼方からの呼びかけのように私の心を惑わした。私は立ち上がり、暗い繁みの中へと分け入った。(第21章終わり)