魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

宮崎正弘『明智光秀五百年の孤独』其の参

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観光施設「安土城天主信長の館」において復元された安土城天主第六層(最上階)の内部。ウィキメディア・コモンズより。

表題の作品につきまして、一天一笑さんから引き続き紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


第四章 光秀の「文化防衛」は切支丹伴天連との戦い

宮崎正弘は、この章では、光秀はキリスト教徒の布教活動をどう見ていたのか、又信長のキリスト教受け入れをどう見ていたのか、何故ルイス・フロイスの光秀人物評は最悪なのかを軸に、光秀が朝廷に何を望んでいたのかを述べています。
西洋史をひもとくと、1494年、ポルトガルとスペインはトルデシャリス条約を結び、両国による世界分割を加速させていました(余談ですがフィリピンの国名はスペイン国王フェリペ2世に因んでいる)。
偶然種子島ポルトガル人が漂着して火縄銃が伝わった場合と異なり、イエズス会の宣教師たちは布教活動の名を借りた侵略という明確な目的、すなわち日本をキリスト教の価値観に染め上げ(一神教の価値観を強要)、文化的に支配する目的を持って来日しています。天皇親政を願う光秀は、キリスト教宣教師たちに、嫌悪感と危機感を抱きます。この嫌悪感が伝わったのか、ルイス・フロイスの『日本史』の光秀評は酷いです。「光秀は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目なく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み計略と策謀の達人であった」と著述されています。この密会とは茶会や句会の事を指しています。確かに茶室を密室と考えたら、茶会は密会ですね。
光秀の危惧通り、信長の庇護を受けたキリスト教徒はその影響力を拡大させます。
1581年、信長は京都馬揃えを挙行します。一説には躁鬱病を患っていた信長は、超絶躁の時期にド派手に馬揃え(軍事パレード)を行いました。信長の派手好みはいつもの事ですが、この馬揃えの注目すべき点は、列席者です。
列席者は、嫡子信忠、信勝、実弟信包や部下の明智光秀丹羽長秀等です。そしてまさかの公家、近衛前久。そして信長とは確執が噂されている正親町天皇です。あともう一人、賓客(珍客?)宣教師ヴァリニャーノ(イエスズ会インド管区巡察使)が正親町天皇と同席していました。これは何を示唆しているのでしょうか?
以前、伴天連追放令の綸旨を出した正親町天皇と、追放令を受けた異教の宣教師ヴァリニャーノが共に列席しているのです。これは即ち天皇の権威の失墜を公に表しています。
光秀には、キリスト教布教を推奨する信長その人が、日本の植民地化を許し、日本国の独立を危うくさせる存在に見えたのかもしれません(本能寺の変の動機の一つ?)。
又改宗ユダヤ人のルイス・ソテロ(フランチエスコ派の宣教師)は、伊達政宗を使嗾して、幕府転覆を狙っていた。ソテロは、支倉常長を団長とする「天正遺欧使節」の親書の中に、ある親書を紛れ込ませた。それは伊達政宗が日本国国王と署名した親書を偽造したもので、通商(造船技術・金銀)や宣教師の派遣要請等が記されていました。勿論ソテロひとりのスタンド・プレイです。キリスト教布教の縄張り争いなら他所の国でしてくださいよ、と筆者は思います。岩井三四二の『政宗の遺言』に出てきた、政宗が望んでフェリペ2世と組んで、幕府転覆を計ったとする従来の説とは逆になりますね。

第五章 敵は本能寺にあり

こうした状況下で“平安楽土”から命名した安土城の内覧に臨んだ光秀は、安土城を文化的整合性をもたない異形の城と感じます。八角形の第五層には朱塗りの柱が立ち並び、“釈迦説法図”や“阿鼻地獄図”などの仏教画によって飾られ、正方形の第六層は狩野永徳が描いた中国の三皇五帝孔門十哲の絵によって飾られています。一体ここは何処の国ですか?状態ですね。信長は家臣たちの岐阜からの強制移住も計画していたようです。余談ですが、安土城に興味のある方は、JR琵琶湖線安土城駅」下車約25分の所に「安土城天主信長の館」、また他にも安土城跡や考古学博物館がありますので、お立ち寄りください。光秀は、神になろうとしている覇王信長を打倒する意志を固めます。ただ莫逆の友、細川藤孝には打ち明けていません。公家の観修寺晴豊や近衛前久とも交流がありますが、頼りになるかどうかは未知数です。

第六章 日本を震撼させた十二日

愛宕神社に参詣した光秀は、何者かに憑依されたような状態になります。
何かに憑依された状態(一つの事しか考えられない状態)の光秀は、一万五千の軍勢をもって、一路本能寺に向かい、信長・信忠父子を討ちとります。
丹後・宮津城にいた細川藤孝は、なぜ明智光秀に味方をしなかったのでしょうか?それどころか、高松城攻めをしている秀吉に、本能寺の変勃発の速報を送っています。
細川藤孝自身に天下の大事に関わる気持ちがなかった、光秀が無名の頃は自分の家臣格だったのに、いつの間にか立場が逆転していた状況に嫌気がさした等が挙げられています。細川藤孝は、光秀からの合力を要請する使者に、自分の髷を持たせます。刎頸の友のあかしでしょうか。以後は出家して細川幽斎と名乗り、茶道、書道、歌道等に励みます。元首相で陶芸家の細川護熙氏は、細川幽斎(忠興)の子孫にあたります。そして『私の先祖・明智光秀』の著者細川珠生は、読者の皆様ご存知のように、明智光秀の女系の子孫となります。本能寺の変以降、袂を分かった細川家・明智家の血脈は、連綿と現在まで続いていますね。要するに本能寺の変は、天皇親政を願う明智光秀にとっては義挙であっても、貴種の血を誇る細川幽斎にとっては愚挙だったのかも知れません。
かくして光秀は『明智軍記』に伝えられている辞世の句、“順逆二門無し、大道心源に徹す、五十五年の夢、覚め来たりて一元に帰す”を遺して歴史の彼方に消えます。

後記

以前に書き足らなかった部分を補足しました。
戦国時代や戦国武将、人間明智光秀や秀吉の軍師黒田官兵衛キリスト教布教の様子、天皇に即位することなく病死した誠仁親王等に興味のある方にお薦めします。
天一

ゲームソフトMinecraftを用いて再現された安土城。2012年4月公開。
Minecraft 安土城再現普請絵巻 - Azuchi Castle, Japan