魔性の血

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宮崎正弘『明智光秀五百年の孤独』其の弐

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ラバウルゼロ戦の墓場で(2019年07月)」宮崎正弘氏の公式ホームページより。

表題の作品につきまして、一天一笑さんから更に紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


第1章 歴史伝統と正統の守護

明智光秀は何故本能寺の変を起こしたのか?宮崎正弘は従来の“怨念説”“黒幕説”“陰謀説”等を否定して、“蹶起説”を唱えます。
その根拠を1582年5月28日の愛宕百韻の会の雰囲気と光秀の発句に求めます。ここで光秀の発句の「とき」を土岐氏と解釈する“謀反説”を否定し、蹶起の動機を光秀の教養をもって愛宕百韻に織り込んだと仮定して探し求めます(決別の歌を詠んだ)。
光秀は長男十五郎を伴い、百韻を詠む会の前日に愛宕神社に参詣し、顔面蒼白、思い詰めた表情で三度御神籤を引きます。そして潔斎をして宿坊に泊まります。
愛宕百韻の会の参加者は、明智光秀、里村紹巴・昌叱親子、威徳院行祐等6人です。会の雰囲気はこれ以上はないと言う位陰鬱だったそうです(既に叛旗を翻す志があったのか?)。
連歌百韻の発句の「とき」は土岐氏ではなく、天をさし示していると説いています。
当時の朝廷は、信長の専制に誰も逆らえない状態でした(信長は正親町天皇に退位を迫り、誠仁親王を自ら建設した二条御所に招き、実質的に人質としている)。
それ以前にも、正倉院御物の蘭奢待を切り取る(征夷大将軍以外は許可されない)等突出した、自分の武力を背景にやりたい放題の信長でした(公家の権威の否定)。しかしながら、毛利家外交僧の安国寺恵瓊の1573年12月児玉三右衛門宛の書状には「信長は、公家に昇進して後、高転びに転ぶだろう」と記されています(もっともこの予言的中がかえって恵瓊に災いして、関ヶ原合戦後、敗者として刑死の運命を辿ります)。
宮崎正弘は、1571年9月30日の比叡山延暦寺焼き討ちは、政教分離を徹底するために行なったとも解釈している。つまり、僧兵等は寺の自衛組織ではなく、宗教を口実に積極的にテロ活動を行う武装勢力と考えて、非戦闘員であっても殲滅すべしと実行しました。

第2章 戦上手の武将として

光秀の前半生は、出自と共に謎に包まれています。織田信長に仕えるまでは不確定要素ばかりです。光秀の出生地については特定されておらず、四つの候補地が挙げられています。①岐阜県恵那市明知町②岐阜県可児市瀬田③岐阜県山形市美山地区④岐阜県大垣市関ヶ原合戦の重要拠点)です。記録に残る最初の光秀は長期間流浪の後、朝倉義景に仕え、そこで“古今伝授”の担い手、細川藤孝と知り合い、教養の釣り合う相手として肝胆相照らす仲となります。そして、1569年の本圀寺の変で、約15倍の三好三人衆の軍勢を、南蛮渡りの砲術を駆使して打ち破って足利義昭を守り、織田信長に見いだされます。これがきっかけとなり、光秀は出世の階段を駆け上がります。いち早く城持ち、城主になります。暫くの間光秀は、義昭と信長の二人の主人に仕えますが、信長が義昭と袂を分かつに当たっては、信長に仕える事を選び、筆まめな陰謀家の義昭に引導を渡したと言われています。そして、何故か1570年の金ヶ崎の退き陣での光秀の活躍は、『信長公記』では羽柴秀吉の手柄とされています。その後は、琵琶湖湖畔に坂本城を築き、軍事目的ではありながら(水上交通の要所)、離れに茶室を設け、大広間には狩野派の屏風絵を配し、書院には名物茶器を置き、茶会・連歌会等が開催できる造りを施しました。誰が来ても充分な「おもてなし」ができます。文化人光秀の面目躍如ですね。もっともこの坂本城は、山崎の合戦後、明智秀満(=三宅弥平次、長女“とも”の結婚相手)によって打ち棄てられ、1586年に廃城の憂き目に遭います。縄張りの名人光秀は他にも福知山城を修築し、敷地内に50メ―トルの深さを持つ井戸を掘らせます。1581年には明智家の「家中軍法」を定めます。光秀の几帳面さがよく表れた軍法です。又信玄堤ならぬ明智藪を造り、治水に務めます(後年山崎の合戦で光秀が討たれたことになっている小栗栖の竹藪ではありません)。
第一次丹波平定の失敗後、1577年、第二次丹波平定の準備として亀岡城の本格工事を始めます。狙いは有岡城荒木村重。ここは長女“とも”の最初の嫁ぎ先(荒木村次室だった)なので、辛抱強く自ら交渉に行くのですが、結局武力鎮圧します。この時点で黒井城は既に落ち、八上城(いずれも峻厳な山城)も日干し作戦によって落としています。光秀は八上城主の助命を願い出るのですが、魔王信長は聞き入れず磔にしてしまいます。そうして後味の悪い(筆者の推測ですが)第二次丹波平定作戦は勝利して終わりました。
現地調査を行なった宮崎正弘は、400年経過した現在でも、丹波では光秀が裏切り者や侵略者として嫌われているのを実感します。
ここで、宮崎正弘は、光秀の享年に触れています。光秀の正確な享年はわかりません。67歳説もしくは75歳説があります(岩井三四二の『光秀窯変』では75歳説?)。宮崎正弘は『明智軍紀』に則り、享年55歳説を採用しています。いやはや、歴史ファンにとって光秀はミステリーの宝庫ですね。

第3章 文武両道の達人

この章では、宮崎正弘は“黒幕説”と延暦寺焼き討ちに注目します。
沢山ある本能寺の変の“黒幕説”の中で、『等伯』を書いた歴史作家、安部龍太郎の“朝廷と切支丹大名との共謀説”に注目しています。
世界史の観点から見れば、大航海時代の強国ポルトガルとスペインとは、世界分割支配を実行中だった。日本ではポルトガル人が種子島へと漂着し、先鞭をつけた形となった。信長は、鉄砲と火薬を入手する見返りに、イエスズ会に布教活動を許可する。あわよくば石山本願寺顕如延暦寺への対抗勢力として使えるかもしれないと、この取引に満足していたのかも知れません。
しかしながら、この説は、ザビエルらの本国への報告書が、大変大袈裟に書かれていた(フェイク文書)。それによって、キリスト教布教の実績が過大評価されてしまった。また朝廷側の近衛前久が陰謀家であるのは確かだが、当時丹波平定を成し遂げた織田家の無双の武将明智光秀を過小評価しすぎてはいないかと、宮崎正弘は問いかけています。
1571年、延暦寺焼き討ちは本当にあったのか?当時光秀は坂本で“降伏しなければ焼き尽くす”と最後通牒を送っている。この延暦寺焼き討ちの手柄によって、光秀は坂本城城主となりました。宮崎正弘は1968年の滋賀県教育委員会が行なった発掘調査の結果を引いて、“焼土層・焼け跡が全く見つからず、つまり紅蓮の炎はなく、山火事程度だったのではないか”と述べています。またここで、山科言継の『言継卿記』や『お湯殿の上の日記』『日吉社兵乱記』等の資料を読み込み、直接の目撃情報はないとして、二次情報の恐ろしさ、伝播しやすさを述べている(山科卿は当時奈良にいた)。
現地調査に拘る宮崎正弘は、光秀は丹波篠山では嫌われていても、亀岡や福知山では居住年数は短いが、人気があるという。それは1581年の十八条からなる「明智家中軍法」により、統制のとれた武装集団を作り上げたことに起因するのかもしれません。
一年後、衝動的に本能寺の変を起こすとはイメージしにくい程、細かく徹底した軍法です。
光秀は400年の間、延暦寺焼き討ちの先鋒を担ったと誤解されてしまった訳です。

以上、前回端折ってしまった第一章から第三章までをご紹介しました。
光秀の知られざる一面の発見や、歴史ミステリーとしてもお楽しみいいただれれば幸いです。
天一