魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

宮崎正弘『明智光秀五百年の孤独』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

はじめに

宮崎正弘明智光秀百年の孤独』(徳間書店)を読了して。
チャイナ・ウオッチャーの第一人者宮崎正弘が、丹念な現地調査と文献狩猟を基に、敗者明智光秀本能寺の変を義挙として歴史的再評価を試みた秀作です。
ジャンルを分けると、歴史小説ではなく、虚説を剥がし真相を描くことを目的とした学術的な史論です。
光秀の享年を57歳と仮定して、1582年の敗死から平成31年(2019年)に到るまで、496年間(約500年間)にわたって日本史の中では“孤独な謀反人”との位置付けをされている光秀を、正親町天皇の正統性を守る為の義挙の人だと論じています。本書は、以下の構成になっています。

  • 序章 なぜ光秀は主殺しの謀反人にされたのか?
  • 第1章 歴史伝統と正統の守護
  • 第2章 戦上手の武将として
  • 第3章 文武両道の達人
  • 第4章 光秀の「文化防衛」は切支丹伴天連との戦い
  • 第5章 「敵は本能寺にあり
  • 第6章 日本を震撼させた十二日間
  • 終章 歴史修正主義の真実

筆者の乏しい筆力により勝手乍ら、第5章「敵は本能寺にあり」と第6章「日本を震撼させた十二日間」を主に本書を紹介します。

序章 なぜ光秀は主殺しの謀反人にされたのか?

第一次資料を最重要視する宮崎正弘は、『太閤記』や『豊鑑』は謀反人光秀を強調するために“みっともない死に方”をさせた創作だと説いている。又それを広める広報宣伝活動をしているとも説いています。徳川家康本能寺の変に関しては、光秀敗死を容認している(天下人になった後も修正せず)。又、織田信長は焼死したので、遺骨は文字通り遺灰となったので、遺体が見つからなくても不思議ではないと論じています。

第5章 「敵は本能寺にあり

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愛宕神社京都市)入り口。ウィキメディア・コモンズより。

宮崎正弘は、海抜924メ―トルにある愛宕神社に参詣する。光秀が歌会を開いたであろう社務所で、神社の由来書を求めるも光秀との関係は一切記されていない。余談ですが、この愛宕神社は「日よけ御札」が有名らしいです。参詣というよりは、登山・登攀になるので日帰り旅行では無理、遭難者もあり。
この愛宕神社において、光秀は信長を討つ前に宿泊(お籠り)&瞑想し、その後思い詰めた表情で、御神籤を3回引く。そして里村紹巴らを招いて”愛宕百韻“の歌会を主催する。峻厳な山道を昇り降りする準備の大変さも一通りではなかったと推察されますが、宮崎正弘は、丹念にこの歌会で何があったのか、歌会の前後で光秀にどの様な変化が生じたのかを描いています。光秀の有名な発句“ときは今天が下しる五月哉”をはじめとして99句全てを一覧している。曰く百韻の全体のト-ンはまるで生前葬のように陰鬱でありながら、打倒平家(信長は平家を名乗った)の旗揚げの示唆に満ちているとの考証を導きだしている。何かが光秀に憑依して、信長を屠るのは今だと後押ししたとも述べている。
又1573年頃、信長は正親町天皇改元を迫り、1574年には正倉院御物の蘭奢待を切り取る。1578年安土城天守閣が完成し、神父オルガンチノが協会を設立する。
これらの暴挙(朝廷に対する侮辱)とも言える行動を取る信長を、光秀はどの様な目で見ていたのだろうか?光秀は1573年頃から、数十回の茶会を主催し「古今伝授」を解する細川藤孝や後に豊国神社の宮司になる吉田神社宮司吉田謙和(細川藤孝とは従兄弟にあたる)と交流関係を築き、娘の玉を細川忠興に嫁がせ姻戚関係を作る事に成功する。吉田謙和は、公家で勅使も務め、神祇大福の官職も持つ。『兼見卿記』を残している。この『兼見卿記』は光秀との関わりを抹殺した改竄版と改竄されていない版があるのだが、朝廷には改竄版が提出されたようです。
当時朝廷は、近衛前久と反目する?観修寺晴豊が牛耳っていました。
このような背景を基に、『川角太閤記』に記されているように、明智勢は志を持って本能寺に進軍します。

第6章 日本を震撼させた十二日間

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石碑「山崎合戦の地」(京都府大山崎町)。ウィキメディア・コモンズより。

明智光秀はよく「三日天下」と言われますが、実は明智政権は(あったとすればですが)本能寺の変勃発の6月2日から山崎の合戦の6月13日迄の正味12日間存在していたわけです。
時間的推移で見ていくと、光秀の本能寺攻撃開始時刻は、午前4時過ぎ。信長の長男信忠のいる二条御所への攻撃は午前8時頃から開始されたことととなっている(東宮誠仁親王が安全なところへ避難し終えたのを見届けるのに時間が掛かった。光秀が真実謀反人であったらば、東宮も一緒に始末していたことでしょう)。信忠は1000人の兵をもって奮戦しますが、自刃します。
此処までは、軍事クーデター大成功です。信長・信忠を討ち取った後は、安土城へ向かいます(政権を握った後の構想が見られません)。伊東眞夏『ざわめく竹の森―明智光秀の最期』にも描かれていますが、瀬田の大橋が山岡景隆によって落とされているので、3日間空転します。思わぬ誤算です。武器、弾薬、機材、食料等所謂「荷駄」を運ぶには橋が架かっていなければ運べません。安土城に入り、金銀財宝を手に入れます。それから各武将たち、池田恒興細川藤孝筒井順慶キリシタン大名高山右近中川清秀等に自分に合力するよう書状を送るのですが、返事はさっぱりです。剰え娘婿の織田信澄(信長の実弟織田信行の息子)は織田信孝によって殺害されてしまいます(父方の従兄弟同士、とばっちりですね)。頭脳明晰と言われた光秀とは思えないスローモーな動きですね。結束を誇る明智勢もいいところがありません。では堺に居た家康は何をしていたのでしょうか?茶屋四郎次郎の注進により、困難な伊賀越えに挑み、多羅尾氏率いる甲賀衆に守られて伊勢迄辿り着きます。勿論徳川四天王酒井忠次井伊直政本多忠勝榊原康政が誰一人欠ける事無くです。伊東潤『峠越え』をお読みくださると嬉しいです。
では秀吉は、何処で何をしていたのでしょうか?軍師黒田官兵衛により、6月2日深夜には本能寺の変の第一報が入っていました。いやはや、秀吉家康共に早耳ですね。
武功夜話』は光秀を謀反人扱いせず、情報伝達の驚異的な速さを淡々と述べています。
秀吉は”中国大返し“を敢行し、備中高松城から姫路へ体一つで、一昼夜約80キロメートル駆け抜けます。又伊東眞夏『ざわめく竹の森―明智光秀の最期』をお読み頂ければ幸いです。
中国大返し”が真実可能かは兎に角、秀吉は、馬を幾度か変えて疾風怒濤の勢い!の雰囲気を作り、姫路では金銀を惜しまずばらまき、上様仇討の人員を募ります。その上各大名に書簡を送ります。“人誑しの秀吉”全開で、その勢いのまま乾坤一擲?の山崎の合戦に挑みます。
軍師黒田官兵衛の作戦通りに進行します。片や迷走する明智勢(何をしたいのか判らない)。
山崎の合戦は、事実上の総大将となった秀吉が、本陣を天王山の南側の平地に決めた時、明智勢が勝龍寺の前に本陣を決めた時から、勝敗が明らかだったわけです。
そして光秀は、勝龍寺から敗走し、小栗栖の竹藪で方向感覚を失ってさまよう。
後日の首実検では、明智光秀本人の確認は取れないので、秀吉側は高札をあげ、高さ?メ―トルの位置に光秀の首をさらし、天下人は秀吉に決まったと世の中に向かって宣伝、世論操作をするしかありませんでした。

終りに

宮崎正弘は現地調査を丹念にして、地元自治体にも問い合わせて、小栗栖の竹藪にも行き、”中国大返し“のル-トを鉄道・バスを乗り継いで検証しています。
歴史はフェイクを含んでいるとの信念に基いての渾身の力作です。

従来通りの明智光秀像に納得のいかない方、歴史が怒涛の勢いで動く時に興味のある方、豊臣秀吉の人間像、黒田官兵衛に興味のある方、キリスト教の布教の様子や安土城に興味のある方、悲運の美女細川ガラシャに興味のある方等にお薦めします。
天一