魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

伊東眞夏『ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

はじめに

伊東眞夏『ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―』(栄光出版社)を読了して。
敵は本能寺にあり”との大音声と共に、主君織田信長を弑逆し、所謂三日天下の後、京都伏見区の竹藪で土民(落ち武者狩りの農民)の竹槍に斃れた明智光秀について、皆さんはどの様なイメージを持っておられるでしょうか?金柑頭の逆賊でしょうか?それは真実でしょうか?
又第一部の巻頭に『完訳フロイス日本史』(中公文庫)の引用、第二部巻頭には
本能寺の変の報せについて、史書を基に考察が掲載されているのも興味深いですね。
天正10年(1582年)の5月15日の安土城で、徳川家康本能寺の変の後、伊賀越えをする)を待つ場面から始まり、6月15日、園城寺に陣を張った秀吉が、昼飯の湯漬をすすっている場面で終ります。
本能寺の変が起こった約一ヶ月間の明智光秀の行動や心持ちを、時間軸に沿って、あるいは前後しながら、丁寧に臨場感溢れる筆致で描いた歴史小説です。第一部と第二部から編成されています。歴史ミステリーの要素も含んでいますよ。
それでは参りましょう!

完訳フロイス日本史〈3〉安土城と本能寺の変―織田信長篇(3) (中公文庫)

完訳フロイス日本史〈3〉安土城と本能寺の変―織田信長篇(3) (中公文庫)

 

第一部:信長を討つ

光秀は、信長の命により、徳川家康穴山梅雪に対して、安土城と城下の案内饗応役を務めます。
セミナリオを見学し、オルガン演奏を聴き、十字架に架かったキリスト像を見た家康は、何となく不愉快になる一方で、楽市の活気のある様には興味を抱きます。明智光秀徳川家康は、苦労時代(家康は人質時代、光秀は浪人時代)が長かったせいか、近親者を事実上信長に殺された者同士だからか、ウマが合いお互い打ち解けます。信長への挨拶も無事に済んだ頃、もてなしの鯛が腐っていたと因縁?を付けられ、饗応役を解任されます。坂本城に戻った光秀に、信長からの書状が届きます。その内容は、丹波・篠山を召し上げ、岩見・出雲の領地を与えるということです。織田家の領地ではない岩見と出雲を切り取ろうとしたら、毛利家と争う事になります。さすが信長、滅茶苦茶ですね。光秀は何かに取りつかれたように京都の吉田謙和の屋敷を目指します。何か考えがあるのでしょうか?
光秀は、吉田謙和に訴えます。“信長公は帝を成敗されるおつもりです”と。吉田謙和は兎に角太政官近衛前久に連絡を取ります。光秀の根拠は信長が、作歴に言及したことです。当時は近代中国の清朝もですが、森羅万象・時間を司る為政者の名前が年号につきます。
光秀は、近衛前久に面会して、ズバリ詔勅(詔)を求めます。近衛前久は、前内大臣観修寺尹豊や、誠仁親王と計りますが、結局詔は出ません。
逸る心を押さえられない光秀は、愛宕権現に参詣し、鬼気迫る表情をもって、3度御神籤を引きます。そして主催者として発句し、百韻連歌を詠み合います。これには宗匠里村紹巴も参加します。この発句も後で問題視されます。
そうこうするうちに、信長主催の茶会が本能寺で開かれます。近衛前久も参加します。
前久の間者から、信長が茶会の終わった本能寺に宿泊するとの情報を得た光秀は、高揚したまま内藤内蔵助利三、藤田伝五、溝尾庄兵衛、明智光忠明智左馬之助秀満を招集します。
1万5千の明智勢で、総勢500に満たない信長と信忠の軍(供回り)を討つ。二手に分かれます。その首尾の程は、歴史が証明しています。二条城にいた誠仁親王は、命からがら脱出した所を、里村紹巴に助けられます。でも肝心の信長の遺骸が見つけられません。慎重派の明智左馬之助が隈なく捜索しても見つかりません。光秀は信長爆死を疑いますが、根拠が薄い上に、しなければならない事は山ほどあるので、それにばかり拘泥してはいられません。まずは、天皇への上奏文を書かねばなりません。有職故実の心得のある光秀にしては、もたついた筆運びをして、焦点の定まらない上奏文が出来上がります。光秀の興奮状態は未だ収まりません。6月2日京都妙心寺を出て安土城に向かいます。信長を弑逆した光秀の前途には何が待ち受けるのでしょうか?朝廷とのやり取りは表沙汰にはできません。
既に“天下人光秀”の迷走は始まっているように思いますが。

第二部:小栗栖の竹林で

光秀は呆然とします。先に使者を遣わして、瀬田城を開城し、明智軍に合流するよう呼びかけたのですが、何と瀬田城城主山岡景隆・影佐兄弟は、瀬田川に架かる大橋を燃やしてしまいます。これにより、明智軍の行軍は2日遅れます。仕方ないので坂本城で足踏み状態です。この時、織田一族の女人たちは安土城を出て、日野城(信長2女冬姫の嫁ぎ先蒲生家居城)に緊急避難をしています。この場面は、葉室麟『冬姫』に一層詳しく描かれています。この時山岡景隆は、何故か徳川家康の伊賀越えを助けます。家康一行が領地内を安全に通行出来る様に案内をします。伊東潤『峠越え』をご参照ください。
本能寺の変の報せ(第一報)を受け取った織田信長麾下の有力武将は、この時どうしていたのでしょうか?丹羽長秀織田信孝(信長3男)は、無意味に織田信澄を討った後、上洛して来る秀吉軍に合流します。北陸の柴田勝家は、上杉景勝との戦を収めて急遽上洛しようとしますが、光秀敗死の報が届いたので居城に戻るしかすることがありませんでした。
他の武将たち、前田利家佐々成政・佐久間盛政等も急遽各々の居城の防備を固める事しかできませんでした。天下の趨勢が流動的な時、京都が無政府状態になっているときに、我こそ右府様の弔い合戦をするなり、と気勢を上げて中国路を駆け戻ったのは秀吉でした。
秀吉は所謂”中国大返し”を敢行して、関白への道を自ら開きます。伊東潤『天下人の茶』には、別の視点から、何故”中国大返し“が可能だったのかが描かれています(与えられた条件や時代が違いますが、その行軍のスピ-ドは、佐々木蔵之介主演『超高速参勤交代』よりも速かった)。天が秀吉に味方をしたのか、光秀の密使は毛利軍に着く前に秀吉軍に捕らえられます。秀吉は知恵を振り絞って、軍師黒田官兵衛を使い、更には安国寺恵瓊を仲介に、水攻めをしている備中高松城城主、猛将清水宗治と和議を結びます。誰にも真似できない早業です(清水宗治切腹、城は開城)。
一方、妙心寺に帰り着いた光秀は、信長の生きている悪夢をよく見ます。打ち合わせ通り?朝廷から京都守護職に任命されますが、心身共に状態は、はかばかしくありません。もう一つ、加勢を求めた書状の返信にも、いい知らせはありません。細川藤孝は僧籍に入り名を幽斎と改めました(息子細川忠興は光秀の娘婿、光秀3女たまの嫁ぎ先です)。高山右近は、返信すら寄こしません。光秀が郡山城を攻撃しようとして洞ヶ峠に陣を張ると、病気と言い訳していた筒井順慶からの使者が口上を述べます。明智軍が筒井軍を攻めれば、もうすぐ到着する秀吉軍と一緒に明智軍と戦います。挟み撃ちに遭いますよ。今兵を退くなら背後(明智軍の)を襲いませんからとの事。
秀吉軍は姫路を抜けて、尼崎から富田・山崎まで進軍しています。正に万事休すです。
光秀は恥も外聞も投げ捨て、洞ヶ峠から下鳥羽の南殿寺まで兵を退きます。
明智軍と秀吉軍+αの対決は、もう明日。厳しい状況です。元々は織田家の武将同士ですから、お互いの手の内(戦術)は分かっているとも考えられます。光秀軍は長岡の勝龍寺城から出陣します。一方姫路を出発した時は1万5千程度だった秀吉軍は、3万5千に膨れ上がっています。その中には中川清秀池田恒興、加藤光康、木村隼人高山右近等の旗印も見えます。そして彼らは光秀に”謀反人“”裏切り者“等、言葉の石礫を浴びせます。光秀は、自分は帝を奉じて戦うのだと強い意志を持っている筈が、思考停止状態に陥ってしまいます。次の日、僅かに優勢に戦っていた明智軍は、突然撤退します。勝龍寺城から遁走します。まるで訳が分かりませんが、どうやら譫妄状態に陥ったようです(光秀の譫妄状態については、岩井三四二『光秀窯変』もお読みください)。そして小栗栖の竹林で落ち武者狩りに遭い落命します。
では何故、光秀は、これ以上ない危機の時に、小栗栖を目指したのでしょうか?小栗栖には勧修寺尹豊の屋敷があります。帝に勅命を下す進言を頼みに行ったのかもしれません。
昼なお暗き竹林の中で、光秀が最後に聞いたのは信長の声でした。
そして、主君明智光秀の最後の言葉を聞いた、溝尾庄兵衛の執った行動は。
鵺のような振舞いで、光秀を翻弄した勧修寺尹豊、近衛前久ら公家達の運命は。
お楽しみください。

終わりに

随分長い文章になってしまいましたが、明智光秀の最後の一ヶ月、お楽しみください。
豊臣秀吉の人となりや戦術、人間織田信長の不器用さ(躁鬱混合状態であったともいわれる)、戦国時代を生き残る細川幽斎の知恵など興味のある方、読みどころ満載です。
只筆者の拙い文章力では、狩野永徳の襖絵のあった、外観五層、内部は七階から成っている安土城の壮麗さをご紹介できないのが残念ですが、的確な描写になっています。お城に興味のある方にもお薦めします。
天一

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―