魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルソン(William Wilson)」(前編)

オムニバス映画『世にも怪奇な物語』(1968年、仏伊合作)第二話「影を殺した男」より、マルコ・ステファネッリ(中央)。www.imdb.cあomより。

もう一人の自分」との不穏な関係。これを扱ったエドガー・アラン・ポーの名作を三回に分けて訳出します。原文はこちら


「何であろう、わが生における恐ろしき幻、
自意識コンシャスとは」――チェンバレン『ファロニダ』

宿命性のオアシス

わが名はウィリアム・ウィルソン、とでもしておこう。実名を記すことで、僕の目の前にあるこの白紙を汚す必要もあるまい。僕は家名に泥を塗り、辱しめ、貶めた。わが悪名は、憤怒の風に乗って、この世の果てまで轟いている。僕はもう死んだも同然だ。もう名を上げることも、恋の花を咲かせることも、財を成すことも叶わない。それどころか、死後も救われる見込みがない。
許されるなら、今日この場では、わが近年における畜生にも劣る振舞いと、極刑を免れぬ所業とについては、一切語りたくない。僕の悪行がエスカレートしたのはごく最近のことで、今書きたいのはここまで落ちぶれるに到ったきっかけのみだ。通常、人は段階を踏んで堕落する。だが僕にあっては、たががはずれたように、あらゆる歯止めが急に効かなくなった。比較的ケチなチンピラから、一足飛びに暴君エラ・ガバルス並みの鬼畜にまで堕落したわけだ。どんなわけで、どんなめぐり合わせで、こんなことになったのか、これから書くことを我慢して読んで欲しい。死は迫っており、その暗い予感のおかげで、僕の心境はむしろ落ち着いている。この絶望のどん底において、僕は人々の共感(今「憐憫」と書きかけた)を切に求める。僕としては、自分がある程度までは、自制心ヒューマン・コントロールによって何とかできる範囲を超えた苦境にあって、何もかも仕方なかったのだと思ってもらえれば、それでいい。今まさに書き記さんとする詳細ディテールのうちに、わが迷妄の砂漠における宿命性のオアシスを見出して欲しい。僕が人々に認めて欲しいのは、人々が認めざるを得ないであろう点、すなわち同様の誘惑はこれまでにもあったとしても、少なくともこのように誘惑された人間はかつてなく、このように破滅した人間は決してなかっただろうという点だ。このような苦悩を経験した人間は、僕だけなのか。僕は生涯を通じて夢を見ていたのか。僕はあらゆる浮世の夢ブルーナリー・ヴィジョンのうち、もっとも狂気じみたものの犠牲者として死んでゆくのか。

運命の最初の警告

僕は思い込みが激しく、激情に駆られやすいことで知られた、とある家系の末裔として生まれた。そうして幼少の頃から、そのような特質を存分に受け継いでいる証拠エビデンスを示した。長じるにつれて、この傾向は増大した。それは周囲の人たちとの軋轢あつれきの原因ともなり、また僕自身が深刻ポジティヴに傷つく原因ともなった。僕は思いやりのない、気まぐれでわがままな子どもとなり、もっとも制御しがたい喜怒哀楽の餌食となった。低能で、僕同様、遺伝的精神疾患に悩まされていた両親は、僕の性根の悪さに対してほとんど為すすべがなかった。手ぬるい、誤った方針によるしつけの結果は、両親の側の完敗、すなわち僕の側の完勝に終わった。以後、家庭内で僕に逆らう者はなくなった。そうして他の子どもたちがまだ一人歩きもままならない年ごろから、僕は人の言いなりにならず、本名を名乗ること以外、ほしいままなる行動が許されるようになった。
わが学生時代の最初期の記憶は、イングランド狭霧さぎりの村の、とあるエリザベス朝時代の宏壮で乱脈な全寮制校舎へとつながっている。それは数限りない節くれ立った大樹と、すべて年古りた家々との村であった。事実、その古色ゆかしい村は心癒される場所だった。今、僕は朝の巷のすがすがしい空気を感じ、生い茂る潅木の香りを吸い込み、教会の鐘のひびきにふたたび胸を震わせる。鍾声は時が到れば、にわかに陰気な轟きをもって明け方の空に現れ、その空の下にはゴシック風の菱文様ひしもんように飾られた尖塔が眠っていた。
こうした学生時代の追憶にふけることは、今の僕に、せめてものよろこびを与えてくれる。あまりにもリアルなこの絶望の淵にある僕なればこそ、二、三の脈絡のない思い出を書き散らすことで、いかにささやかな、束の間のものだとしても、心の安らぎを求めることは許されよう。それにこれらはそれ自体としては極めて些細で、馬鹿々々しくさえあっても、僕の考えでは、その後長年にわたって僕を苦しめることになる運命の最初のあいまいな警告を、僕が初めて認識した時間と場所に関係しているのだ。しばらく回想を続ける。

ブランズビー先生の学校

トーク・ニューイントンの旧セント・メアリー教会。ブランズビー校長はここの牧師だった。ウィキメディア・コモンズより。

先に触れた校舎は古くて不規則だった。校庭は広く、そうして全周を取り巻く高くて頑丈な煉瓦塀は、てっぺんにモルタルが塗られ、ガラスの破片が植えつけられていた。この監獄の壁みたいなものが僕らにとってのこの世の果てで、その向こうの世界が見られるのは週に三回だけだった。毎週土曜日に一回、僕らは二人の先生に付き添われ、近所の野原へ短時間の散歩をした。それから毎週日曜日、朝夕二回、村の教会でお祈りを上げるため、制服を着てパレードを行なった。その教会の牧師は僕らの学校の校長が務めていた。彼がゆっくりと、厳粛な足取りで、説教壇プルピットへの階段を上がる姿を、遠く離れた信者席のベンチから、僕は何たる驚きと戸惑いの目で眺めていたことだろう。かくも温顔の、かくも聖職者然と着飾った、かくも大きく、かくも堅苦しく、かくも髪白粉パウダーだらけのかつらをつけたこのご立派な牧師様が、ついさっきまで、煙草くさい服を着て、怖い顔をして、鞭を片手に、厳格な校則を執行していた教官と同じ人物だとは。それはまったく解きがたいパラドックスであった。
厳重な塀の一角に、さらに厳重な門があった。それはおびただしい鉄のボルトで固定され、上に鉄製の忍び返しがついていた。それは何とも恐ろしい印象を与えるものであった。それはすでに述べた週に三度の集団行動の時以外、決して開くことがなかった。その頑丈な蝶番ちょうつがいがきしむたびに、僕らは無限の神秘を見出した。それは厳粛な物言いと、さらに厳粛な物思いのための世界だ。
校内の広い敷地は不規則な形をしていて、ところどころに奥へ突き出した空き地があった。そんな空き地のうちの広いものを幾つか繋ぎ合わせたものが運動場になっていた。そこは平らにならされ、砂利が敷き詰められていた。植木やベンチの類は一切なかった。運動場はもちろん、校舎の裏にあって、校舎の前にはツゲなどの灌木が植わった花壇があった。だがこの聖域を僕らが通るのは極めて稀な機会に限られていた。それはたとえば学校に入る時、学校を去る時、それとおそらく夏休みやクリスマスに保護者が訪ねてきてくれて、僕らが大喜びで家路に就く時であった。
それにしてもこの校舎。それは何と奇妙な建物だったことだろう。それは僕にとってはまさに迷宮だった。その紆余曲折と不可解な細分化サブディビジョンには際限がなかった。人はいかなる時でも、その二階建ての建物のうち、どちらの階に自分がいるのか、確言するのが困難だった。一つの部屋から他の部屋へと向かうのに、垂直方向に移動するステップが必ず三つか四つはあった。水平方向の分岐は無数にして支離滅裂で、しかもめぐりめぐって元の場所へと戻ってくるので、その建物全体について僕らが持っていた正確な観念は、僕らが無限の宇宙について持っていた観念とそれほどかけ離れてはいなかった。この施設に滞在していた五年の間、僕自身と他の十八名ないし二十名の生徒に割り当てられた狭い寝室が、この建物のいったいどの辺にあるのか、僕は決して確信を持つことができなかった。
教室は建物の中で一番大きな部屋で、当時の僕は、これを世界一大きな部屋と考えざるを得なかった。それは縦に長くて幅が狭く、ゴシック風の窓は菱形、オーク材の天井は低くて気詰まりだった。この部屋の遠い一角に、縦横三メートルほどの四角い囲いがあって、それは尊師ブランズビー校長の「おこもり」のための聖域だった。それは堅牢な一室で、大きなドアがついていて、そこを「先生ドミニエ」の不在時に開けたりしようものなら、僕らはいっそ石責めの刑ペーヌ・フォルト・エ・デュールでぺしゃんこにされた方がましだと思うほどのひどい目に会わされた。他の二つの隅にも似たような小部屋ボックスがあって、校長のほどおそれ多くはなかったが、恐怖の対象には違いなかった。その一つは「古典」の、もう一つは「国語と数学」の教師の講壇プルピットだった。無限の不規則性を有する方角に、無数のベンチと机とがばらまかれ、その机は古く、黒く、すり減っていて、手垢だらけの本が滅茶苦茶に積み上げられていたのみならず、イニシャルや、フルネームや、グロテスクな絵や、その他無数のナイフ傷が刻み込まれ、その表面の原型の片鱗すらうの昔に失われていた。部屋の一端いったんには水の入った大きなバケツ、他端たたんには馬鹿げたサイズの柱時計があった。

セイラム魔女裁判(1692年-1693年)で「ペーヌ・フォルト・エ・デュール」の拷問を受けるジャイルズ・コーリー容疑者。西洋の「石責め」は日本の「石抱き」と少し違って、仰向けに寝かせた容疑者の上に板を敷き、その上に石を積んで圧迫するのだそうです。ジャイルズはこの拷問を三日間受けたのち、死亡しました。ウィキメディア・コモンズより。

この古い学校の厚い塀の中で、僕は十代前半の五年間を、それでも結構楽しく過ごした。感性豊かな少年の心とは、これを楽しませ、夢中にするのに、何ら異変だらけの外界を必要としない。そうして一見悲惨なほど単調な学校生活は、僕が青年期に遊興から得た興奮や、壮年期に犯罪から得た興奮よりも、もっと刺激的な興奮に満ちていた。だが僕の知能の発達には、最初から何か普通でないもの――何か異常ウトレと言っていいものがあったに違いない。少年期の出来事など、大人になると、覚えていないのが普通である。すべては暗い影であり、はかなく、不規則な記憶であり、微弱な快感とお化け屋敷的ファンタスマゴリックな苦痛との朦朧たる再集合に過ぎないものだ。僕にあっては違う。少年時代、僕は成人の知力をもってこれを感受したに違いなく、だからこそ、その記憶はカルタゴの貨幣の銘のように、細部にわたって鮮明で、深刻で、耐摩耗性を持っているのだ。
だが書こうとすると、書けるほどの思い出は実に少ない。起床、そして就寝。復唱、そして暗唱。定期的な半休と定期的な散策。運動場での遊びや喧嘩や陰謀。これらは少年時代の心理的魔術によって、感性の原野を、冒険の世界を、もっとも心躍らせる興奮と多様な感動との宇宙をはらんだものとなった。「おお鉄の時代よ、それは何とよい時代であろう」*1

同姓同名のライバル

事実、他人ひとの下で大人しくしていられない僕の気質は、同級生たちの間で、たちまち僕を目立った存在とした。そうして徐々に、とはいえ自然の成り行きに従って、それほど年の離れていない上級生たちも、ことごとく僕に一目置くようになった。ただ一つだけ例外があった。この例外とは一人の生徒の存在で、いかなる血縁関係もないにもかかわらず、僕と同姓同名を名乗っていた。これ自体は別に特記するほどのことではない。なぜなら高貴の血筋であるにもかかわらず、僕の氏名は、慣習的権利によって、遠い昔から庶民と共有されているあのありふれた氏名のうちの一つだからだ。この手記で、僕はウィリアム・ウィルソンなる仮名を使っているが、僕の実名も似たり寄ったりのものなのである。生徒たちが「僕らみんな」と呼ぶ集団の中で、この同名異人だけが、学業においても、自由時間の遊びや喧嘩においても、僕と敢えて張り合い――僕の言うことを盲目的に信じたり、僕の意のままに動いたりすることを拒み――いつでもどこでも、僕の一方的な指図に敢えて干渉するのだった。もしこの世に絶対的かつ完全無欠な専制があるとすれば、それは一人の気の強い子どもが他の気の弱い子どもたちに対して専制である。
ウィルソンの反抗は、僕には最大の癪の種だった。それも人前では、僕は必ず彼と彼のかっこつけに対して、空威張りをもって対応していたにもかかわらず、心の底では彼を恐れており、彼が僕に対してかくもやすやすと主張し得る対等性を、実は彼の優越性を証するものだと考えざるを得なかったので、彼に負けないためには常に頑張っていなければならず、だからこそよけいに癪に障った。とはいえこの優越性もしくは対等性を認めているのは、実は僕自身だけだった。学友たちの目は、あたかも節穴のごとく、僕の優位を信じて疑わないらしかった。事実、彼の対立や反抗、とりわけ彼の厚かましく小うるさい干渉は、決して内々のもの以上ではなかった。彼はどうやら、僕を焚きつけて、僕に抜きん出るすべを与えようとする野心にも元気にも欠けているらしかった。僕と張り合う上で、彼はただ単に僕を邪魔したい、驚かせたい、悔しがらせたいという気まぐれな欲求にのみ突き動かされているように見えた。もっとも時として、僕は彼の無礼や、侮辱や、反駁の中に、極めて不適切な、そうして間違いなく極めて有難迷惑な優しさを、驚きと、恥辱と、腹立ちとをもって認めざるを得ないこともあった。僕にはこの奇妙な振舞いが、何か途方もない思い上がりから来る、人を馬鹿にした保護者気取りとしか思えなかった。
おそらくこのウィルソンの奇妙な優しさと、氏名の同一性アイデンティティ、および僕らが同じ日に入学したという単なる偶然が、上級生たちの間に、僕らが兄弟だという見方を流布させたのだろう。もちろん、これには何の根拠もなかった。前にも言ったが、あるいは言ったはずだが、ウィルソンはわが一族とは縁もゆかりもなかった。だがもし僕らが兄弟だったならば、僕らは双子だったに違いない。というのはこの学校を去ったのち、僕はたまたまウィルソンが一八一三年の一月十九日生まれであることを知った。そうしてこれはいささか注目に値する偶然の一致コインシデンスだった。なぜならそれは僕の誕生日でもあったから。
奇妙に思われるかも知れないが、ウィルソンの反目が僕にかけた不断の心配にもかかわらず、また彼のやり切れない対決姿勢にもかかわらず、僕は彼をまったく嫌いにはなれなかった。僕らは確かにほとんど毎日口論をしていて、彼は表向きは勝利を譲ると見せかけながら、何らかの手段で、本当に勝ったのは彼の方だと僕に感じさせるように仕向けていた。ただ僕のプライドと、彼の掛け値なしの品位とが、僕らを常に「言葉を交わす」程度の間柄には保っていた。それとは別に、僕らには相性のいい点がたくさんあって、おそらく立場が違えば、僕らは友情を育んでいただろうという気持ちを、僕に起こさせた。実際、僕が彼に対して抱いていた本音の気持ちは、定義することも、描写することさえ難しい。それは雑多で、異質な感情の混合物であった。すなわち幾らかの、まだ憎悪にまでは到らない程度の敵意。幾らかの敬意。多くの重視。もっと多くの恐怖。そうして大量の落ち着かない好奇心。心理学者モラリストには、僕らが切っても切れない仲であったことは自明であろう。
僕の彼に対する(陰日向かげひなたを問わない数多くの)攻撃のすべてを、より喧嘩腰のものとせず、お笑いや有効なジョークの流れ(単なる戯れを装いながらも苦痛を与える)とさせたものは、上に述べたような僕らの異常な関係だったに違いない。ただこうした僕の攻撃は、いかに頭を使ってひねり出したものであっても、決してすんなりとうまく行くことはなかった。なぜならウィルソンは、性格上、控えめで静かな威厳を多く身に帯びていて、ジョーク自体の毒は楽しみながらも、決して急所をさらさず、物笑いの種となることをきっぱりと拒んだからだ。ただ僕は彼の弱点を一つだけ見つけた。それはおそらく遺伝的な病気から来る、ある個人的特性に属するもので、僕ほど万策尽きた者でなければ、どんな敵でも見逃していたものであった。ウィルソンは口峡こうきょうもしくは咽頭いんとうぶに障害があり、いつも極めて低いささやき声しか出すことができなかった。この弱点を突こうとして、僕は事あるごとに大声を張り上げた。
ウィルソンの反撃も頻繁だった。そのような彼の有効な機知のうち、僕をとことん苦しめたものが一つあった。彼がどのような洞察力をもって僕のこのささいな弱点を見破ったのか、僕にはどうしてもわからなかったが、ただこれに一度目をつけると、彼は日常的にこの嫌がらせを行なうようになった。僕はいつも自分の非貴族的な名字と、平民専用とまでは言わなくとも、この実に平々凡々たる名前が大嫌いだった。そのひびきは僕の耳には猛毒だった。そうして僕の入学の日に、ウィリアム・ウィルソンがもう一人入学したと聞いて、僕はそいつに対して腹が立ち、また赤の他人が名乗っているというだけで、この名前がよけいに嫌になった。なぜならそいつのせいでその名は二度呼ばれるであろうし、そいつはいつも僕の面前プレゼンスにいるであろうし、学業の日課におけるそいつの興味は、このいまいましい偶然の一致コインシデンスのせいで、僕の興味としばしば混同されるだろうからだ。
こうして芽生えた嫌悪感は、僕らの心身両面での類似を示すあらゆる機会に、より強いものとなった。その頃はまだ自分たちが同い年であるという驚くべき事実に気づいていなかった。ただ同じ背丈であることはわかっていたし、おおまかな体つきや、顔の輪郭が、奇妙に似ていることにも気がついていた。僕はまた、級が上がるにつれて風聞カレントとなった僕らの血縁に関する噂にも悩まされた。要するに、僕らの心身や境遇の類似について言及されることほど、僕に深刻な苦痛(そのような苦痛を、僕は周到に隠蔽していたのだが)を与えるものはなかった。ところが実際には(僕らの血縁の件や、ウィルソン自身は別として)僕らの類似は学友たちの間で話題になるどころか、気づかれもしないのだった。彼自身はあらゆる点で、僕と同じほどひしひしと、これを痛感していることは明らかだった。ただ彼がこうした条件下に、僕を苦しめる多くの手段を見出すことができた理由は、前にも言ったように、彼の非凡な洞察力に帰す他はない。
彼は発言と行動の両面にわたって、僕の真似をしているというキューを示した。彼の演技は実に見事だった。僕と同じ服を着るのは造作なかった。僕の歩きぶりや日頃の態度を真似るのも簡単だった。その遺伝的障害にもかかわらず、僕の声すら彼は巧みに模倣してみせた。僕の大声は、もちろん、彼には出せなかったが、音程キーは一致させたのである。それで彼の奇妙なささやき声は、僕の声のまさに反響エコーと化した。
この生き写しの似せ絵ポートレーチャー戯画カリカチュアと呼ぶのは当たらない)がどんなに僕を苦しめたか、それは筆舌に尽くしがたい。僕にとっての唯一の慰めは、見たところ、このイミテーションに気がついているのは僕だけで、僕としては、ウィルソンの心得顔と奇妙な冷笑だけをこらえていればいいという事実だった。彼は僕の心中に意図した効果を生み出しただけで満足して、人をこっそり傷つけておいてクスクス笑っているらしく、頭をひねったご褒美として、いともやすやすと手に入ったであろう学友たちの拍手喝采などまるで眼中にないのは、いかにも彼らしいと言えた。学友たちが彼の企みに気づかず、彼の成功を認識せず、彼の嘲笑に加わらなかったことは、長く不安な日々にわたって、僕の解けない謎であった。おそらく彼の猿真似の漸進が、これをすぐには気づきにくいものとしたのであろう。でなければ、もっとありそうなこととしては、僕の身の安全セキュリティは彼の贋作の達人としての心意気に守られていたので、彼は(絵画においては馬鹿でもわかる)署名を真似ることなど意に介さず、僕一人を内面的に苦しめるために、ひたすら原画オリジナルの本質の再現のみを目指したのであった。
僕はすでにウィルソンの人を馬鹿にした保護者気取りや、僕の意志に対する頻繁でお節介な干渉について、一再ならず語った。この干渉はしばしば冷淡なアドバイスの性質を帯びた。それも露骨なものではなくて、暗示的な、さりげないアドバイスだった。僕はこれを反感をもって受け取り、この反感は年とともに募った。ただ今となっては、彼の助言が、彼の未熟な年齢や外見上の未経験にありがちな過誤や愚劣に染まったことが一度もなかったこと、彼の学才や世間知はともかくとして、少なくとも彼の道徳観念モラル・センスは、僕のよりもよほどしっかりしたものだったことは認めざるを得ない。当時あれほど嫌悪し、あれほどないがしろにした彼のささやき声のうちに秘められていたまごころを、ほんの少しでも受け容れていれば、今の僕はもっと善良で、もっと幸福だったかも知れない。
とはいえそうするうちに、僕はいよいよ彼の不愉快な監視下にいることがたまらなくなり、彼の我慢ならない思い上がりであると僕が考えていたものに対して、日に日に怒りをあらわにするようになった。前にも書いたとおり、僕らの学友としての関係が始まったころには、僕らは友だちになれるかも知れない気がしていた。だが僕がこの学校にいた最後のころになると、彼の日常的な闖入ちんにゅうは、疑いもなく、ある程度は収まったいたにもかかわらず、僕の胸中には、ほとんど同じ比率で、積極的ポジティヴな憎悪が募ってゆくのだった。ある日、彼はこれに気がついて、それ以降は僕を避けるか、避けるふりをした。
僕の記憶に間違いがなければ、同じころ、僕と喧嘩になった彼は、いつもより無防備になり、彼らしからぬ、オープンな言動を取った。その時、僕は彼の口調、彼の態度、彼のおおよその外見のうちに、最初は僕を驚かせ、次いで僕の関心を強く惹きつけた何かを見たか、見たような気がした。それに伴ってわが幼少期のかすかな記憶――記憶力自体がまだ無いころの、狂おしく乱れた、数限りない記憶――が蘇ってきた。その時の僕の気持ちは、強いて言えば、遠い昔から――無限に遠い過去の時点から、僕は彼を知っている気がした、とでも言う他はない。とはいえこの気の迷いはすみやかに来て、すみやかに去った。そうして僕はただ、これがウィルソンと言葉を交わした最後の日だったとだけ言いたいがために、これに触れた。

学校を去る

その大きな古い校舎は、無数の細分化サブディビジョンを伴うとともに、互いにつながった幾つかの大部屋があって、そこにより多くの学生が眠っていた。とはいえそこには(拙劣に設計された建築にはよくあるように)小さな凹所ヌック空隙リセス、すなわち構造的に半端な箇所がたくさんあった。そうしてブランズビー先生の経済的創意によって、そのような場所にも宿泊設備が備わっていた。とはいえそれはほんの押入れクローゼット程度の空間に過ぎず、一個人を収容できる広さしかなかった。こうした狭い一区画がウィルソンの個室だった。
それは僕がこの学校に来て五年目の末のある夜、上に述べた喧嘩のすぐあとだった。皆が寝静まると、僕はベッドから起き上がり、ランプを手にして、足音を忍ばせながら、僕自身の寝室からウィルソンが眠っている一角へと続く狭く寂しい道をたどった。僕はそれまではうまく行かなかった、あの有効な機知の底意地の悪い一撃で、彼に犠牲を払わせることを、長い間思い描いてきた。これを実行に移すことがその時の僕の心づもりで、僕がどんなに悪意に染まっているかを思い知らせてやろうと、僕ははらを決めたのだった。彼の個室クローゼットに着くと、僕はランプにシェードをかぶせて外に置き、一歩踏み込んで、彼の静かな寝息に聞き耳を立てた。そうして彼が眠っていることを確かめると、あかりをたずさえ、ふたたびベッドに近づいた。閉ざされたカーテンがこれを取り巻いていた。僕は計画に基づいて、これを静かにゆっくりと引き開いた。明るい光線がウィルソンに落ち、同時に僕の目が彼の顔に落ちた。僕は見た。すると僕の心境が一変した。胸は高鳴り、ひざは震え、僕の心は対象のない、それでいて耐え難い恐怖の念に取り憑かれた。息を呑みながら、僕はその顔にランプをもっと近づけてみた。これが――これがウィリアム・ウィルソンの顔なのか。確かに、僕はそれが彼の顔だと知っていた。だが違う気がして、あたかもおこりの発作にでも見舞われたかのように、がたがた震えた。何が僕をこのように混乱させたのだろう。見ていると、様々な矛盾した考えが浮かんで、僕の頭はふらついた。彼が目覚めて活動している時には、確かにこんな風には見えなかった。同じ名を名乗り、同じ体格を持ち、同じ日に学校に入った。そうして彼は僕の歩き方を、僕の声を、僕の習慣を、僕の物腰を、執拗に意味もなく模倣したのだった。僕が今見ているものは、そのような冷笑的模倣を日常的に実践した結果に過ぎないのか。それは本当に人間業にんげんわざとして可能なのか。恐怖に打たれ、忍び寄る戦慄に苦しみながら、僕はを消し、音もなく室外へ出て、ただちにその古い校舎を離れ、二度と戻ることはなかった。

*1:訳注:ヴォルテール『俗人(ル・モンダン)』(1736年)より。