魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

岩井三四二『とまどい本能寺の変』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


岩井三四二『とまどい本能寺の変』(PHP研究所)を読了して。
先ずは表紙をご覧ください。覇王信長が一番大きく描かれています。その他は、恵瓊らしい書き物をする僧侶姿の男、戦装束で槍を構える武士、裸足で逃げ、助けを求めているような女。彼らは全て織田信長に翻弄された人々でしょうか
本書は、8編の短編からできています。“南の山に雲が起これば”“最後の忠臣”“久々よ、怒れる武神、勝家を鎮めよ”“関東か小なすびか”“本能寺の変に黒幕はいたか”“カタリナおかつの受難”“北方城の悲惨な戦い”“信長を送る”の8編から構成されています。何れも信長に近しい関係、或いは敵対関係にあったりしましたが、本能寺の変(信長死す)を契機に人生が暗転したり、人生を見つめ直す等変革期を迎えた人々の物語です。
そして“本能寺の変に黒幕はいたか”はタイトル通り、著者岩井三四二が、第一次資料を丁寧に読み込んで、何故明智光秀本能寺の変を起こしたのか?について、新しく意外な真相に辿り着きます。
これらの中から3編を選んでご紹介していきましょう。

 

“最後の忠臣”

本能寺の変後(信長・信忠父子自刃)、天下人の子息から、約一年の間に領地や仕える家臣を失い、それどころか自分の命までをも失う(異母兄信雄に切腹を命じられる)羽目に陥った三七信孝の物語です。
余談ながら、信長亡き後の信孝と信雄の関係や織田家家督相続については、映画『清州会議』(三谷幸喜監督)をご覧いただけたら解り易いと思います(勿論筆者も見ました)。
死に装束を身に着け、目の前の三方には短刀が置かれている。最早、切腹の刻限を待つばかりの身の上の信孝。彼は納得がいかない。かつて1万5千の軍勢を率い、次期天下人に収まる筈だった自分が、何故切腹で人生を終えるのか。信孝は、本能寺の変の報せ到着後の右往左往を回想します。肥大した自尊心を持ち、血統しか誇るものがない自分を顧みず、周囲の家臣達を責めます。秀吉を恨んだ辞世の句を詠みます。結局住吉に張った陣を散らさず、家臣達が何と言おうと、一挙に迷わず京都へと馳せ参じればよかったのだ。切腹直前に、最後まで自分と行動を共にした近習上田六太夫に初めて、尽くしてもらうのが当たり前で、家臣の身の上の心配などしたことがなかったと詫びます。信孝の目頭は熱くなり、六太夫も泣いていますが、実は介錯人でした。信孝の首を信雄に届けて出世の手掛かりとするのでした。信雄の背後には秀吉がいます。信孝は、土壇場で何を思ったのでしょうか?
大坂城に城代として詰めていただけで、明智光秀の娘婿というだけで、討たれた従兄弟の織田信澄の無念さが理解できたでしょうか?人生の運不運は紙一重と思い至ったでしょうか?
かくして、織田信長嫡流の血脈は、歴史の波間に消えてゆくのでした。

“久々よ、怒れる武神、勝家を鎮めよ”

これは、信長の小姓として仕えた堀久太郎秀政が、秀吉・秀長や前田利家と共に、清州会議の後、賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家を、北ノ庄城にまで追い詰め、屠るまでの心情を描いています。
時は、1583年6月14日です。上様御生害から一年も経過していないのに、光秀はこの世に居ず、信長麾下で横並びの筈だった羽柴秀吉が事実上の信長の後継者となっている状況です。かつて秀吉の羽柴の苗字由来は、丹羽長秀(信孝を見限った惟住五郎左)と柴田勝家から一文字ずつとって、あやかろうとしたのです。その秀吉が勝家と主筋のお市の方(信長実妹)を討つのです。久太郎は勝家の助命を願い、秀長にも談判しますが、進展しません。織田家を主筋と仰ぐならば、勝家の言動の方に道理がありますが(五箇条の文が示している)、秀吉は、自分を相手にしなかったお市の方への歪んだ想いなのか、清州会議で、三法師(織田信忠嫡子)を織田家家督相続人と決め、天下を狙う秀吉の勢いは止まりません。何故岐阜城ではなく清州城で会議を開いたのかも含め、清須会議は秀吉の謀略戦勝利ですね。そんな折、北ノ庄城から浅井3姉妹が、書状をもった家臣と共に出てきます。そこにお市の方はいません。落城目前です。別れの宴の音曲が聞こえます。久太郎は天守閣最上階に向かって叫びます。
修理亮しゅりのすけどの、死んではならぬ、生きてこそ、武門の道も歩める」
しかし、返答は「勝家ただいまより切腹いたす」でした。勝家から見れば、2歳の三法師(後の織田信秀?)の守り役となった久太郎は、いの一番に秀吉に尻尾を振った人物です。勝家の返答後、天守閣は跡かたもなく焼け落ちます。久太郎は武辺者として人生を全うした勝家を羨ましく思い、秀吉は、勝家が許さないのは知っていましたが、お市の方が夫勝家の命乞いをし、勝家自身が秀吉にみっともなく命乞いをして、結果高野山に逼塞した方が自分は気が楽だったと溜息をつくのでした。勝家は信孝の後見人でしたから、信孝の運命を見れば、勝家の運命も言うに及ばず。

本能寺の変に黒幕はいたか”

著者岩井三四二が『とまどい本能寺』を上梓するに当たって、題名に本能寺とあれば、読者は何故起きたかの真相・謎解きを期待して購入するであろう、その期待に応えた短編です。
その前に、この「日本史最大の謎」に関するこれまでの研究を紹介します。
『惟任謀叛記』によると、光秀には“年来の逆意”があったとしるされている。更にルイス・フロイスの本国ポルトガル宛の報告書には「光秀は野心旺盛な男で、日本の主になることをのぞんだ」となっています。ただ筆者は、光秀がキリスト教を警戒していたことを考えれば、フロイスの光秀評は幾分か割り引いた方が良いかと考えます。これらが野望説ですね。即ち光秀自身が天下人になる野望を持って信長を討った。
次は、怨恨説ですね。信長が余りにも苛烈な主君で、心身共に長年虐待され、耐え切れずに挙兵したとの説です。約400年間はこの2説でした。
そして、1990年代になり、“黒幕説”または“陰謀説”が起こります。黒幕と目された人物は、沢山います。イエスズ会士、前将軍足利義昭、名前ばかりの同盟者徳川家康、それに近衛前久をはじめとする朝廷側等です。
岩井三四二は近衞前久に注目しています。山崎の合戦の直後、京都を出奔します。信孝に疑いを掛けられたからです。公家社会の頂点、近衞家第十七代目当主です。この人は武士となり、関東を従えたかったのか、何をしたかったのか本当はよくわからないのですが、只の関白では終わりたくなかったのでしょう。まず24歳で上杉謙信の与力となり、関東の覇者を望むのですが、後には信長と親交を結び、京都御馬揃えにも騎馬で参加します。本能寺の変後、秀吉に疑われ、徳川家康を頼って遠州・浜松まで逃げます。秀吉に許されて京都に戻ります。公家の人たちに讒言されたようです。
結局、秀吉は前久の猶子(藤原秀吉)となることで、関白の地位を得ます。秀吉に利用されてしまいましたね。
岩井三四二は、近衛前久は家柄と自尊心からくる理想論?を振りかざして、あちこち首を突っ込むが、絶望的に問題解決能力がなく、行動力はあるが黒幕になりうる筈がないと言っています。
そして残ったのが、光秀認知症説です。光秀の年齢については、『当代記』に論拠して67歳説をとっています。その他の第一次資料、『川角太閤記』によれば、魚が腐った悪臭に気が付かなかった。又本能寺の変の前夜、午後6時頃、亀山城で馬を乗り回し、1万3千の兵を三段に分け、重臣5人に対し、信長を討つことに同意しなければ、自分一人で本能寺へ突入し、腹を切ると迫った。
『林鍾談』には愛宕山百韻後、寺僧が出した粽を笹の葉を剥かずに口にした。
『信長公記』(巻十五)によると、愛宕山参詣のとき、御神籤を2、3回引いた。これらを基に、岩井三四二は仮説を建てます。それが光秀認知症説です。年齢と共に感覚が鈍くなる、嗅覚が鈍くなる、異物食いをする。悪臭に気が付かない。直近の記憶を覚えていられなくなったから、御神籤を3回ひいた。しかし昔覚えた和歌は詠めた。
見当識障害が出てくるので、夕方になると不安になり、じっと出来なくなる。亀山城で馬を乗り回す。小栗栖の竹藪での最期は、勝龍寺を抜け出したが、坂本城へ帰る道がわからず、農民に助けをもとめたのではないか。徘徊していたのではないか。
1万5千前後の軍勢を持った、認知症の初期症状の出始めていた明智光秀が、数十人の供回りのみを連れた信長が本能寺に宿泊する情報を得て、被害妄想(信長を殺さないと自分が殺される)が膨らみ、感情の抑制が外れた状態で、本能寺の変を起こしたとしています。

本能寺の変や戦国武将高山右近、丹羽秀長、堀久太郎、安国寺恵瓊柴田勝家等や、信長亡き後の秀吉とその周囲の態度の変わり様等に興味のある方にお薦めします。
本書は2014年の出版ですので、本能寺の変については、より新しい宮崎正弘『明智光秀五百年の孤独』等もお読みいただければ幸甚に存じます。
天一

三谷幸喜監督『清州会議』の予告編。2013年10月公開。
『清須会議』映画オリジナル予告編

とまどい本能寺の変

とまどい本能寺の変