表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
はじめに
武内涼『源氏の白旗 落人たちの戦』(実業之日本社)を読了して。
平氏追討の綸旨を出した以仁王、保元・平治の乱で活躍した源義朝とその末子・九郎判官義経、その従兄弟にあたる源(木曾)義仲。彼等は皆権力闘争に敗れ、逃亡します。本編はその逃亡の道中記です(見開きに地図も添えられています)。そして、心ならずも別離し、生きていかなければならなかった女人たち(常盤御前、巴御前、静御前)の物語でもあります。
日本史でいうならば、平安末期から保元・平治の乱を経て鎌倉幕府が建立されるころまでに焦点を当てています。本格的な武家政権が確立される前に、何が起こったのか。そもそもは、朝廷の内紛に武家が乗じる形で、血族、親子兄弟、広義の源氏一門が敵味方に分かれて戦います。その先にあるものは、まず逃げる源氏です。朝敵となり、絶望的で悲惨な逃避行・敗走を強いられます。源氏の血脈で、追討されずに往生できたのは、源頼朝ぐらいでしょうか。しかし頼朝の次男・実朝で源氏の血脈は断絶します。
「奔る義朝・源義朝」「雪の坂・常盤御前」「歌う老将・源頼政」「落日の木曾殿・木曾義仲」「しずのおだまき・静御前」の5つの章から3つの章を紹介します。
奔る義朝・源義朝
保元の乱で権謀術数の人・平清盛が、何故一時的に義朝と組んだのかが明かされます。その目的は、源氏の棟梁を使嗾して源氏を内部から毀す。そりの合わない父親を憎み、大勢いる兄弟の中で「お前が一番出来が良い」と褒められ、晴れがましさを味わいたい等の無意識に付け込まれたのかもしれません。
かくて、保元の乱の敗将となった父・為朝と5人の弟を斬首させた。これによって、人心は義朝から離れていきます。平清盛も叔父の平忠正を斬首させますが、義朝の父親殺しの汚名は雪ぐことはできず、斬首の人数でも、1:6。バランスが悪いですね。
勝利の一番手柄であるはずの、義朝への朝廷の論功行賞も、さほどではなかった。
結局、源氏は一つにまとまる事がなく、二条天皇と後白河上皇も平清盛の館に駆け込みます。
愛妾・常盤御前に自分の敗北を知らせるべく、渋谷金王丸を走らせる。
僅か80人となった義朝主従。人数を減らしながら、近江・竜華越から不破の関を超えて、尾張知多の長田屋敷で起こった出来事とは?後に頼朝をして「天網恢恢、疎にして漏らさず」となります。
雪の坂・常盤御前
「頭殿(義朝)は・・・清盛勢に敗れ申した」
金王丸の報せから始まった、常盤御前と今若・乙若・牛若たちの逃避行を描きます。義朝に置き去りにされた形になりました。常盤御前に仕えていた屋敷の者たちは、手のひら返しで逃げます。逃亡ルートは京から大和(奈良)です。
常盤御前は美々しい絹衣を脱ぎ捨て、自ら牛若に授乳する(乳母にも逃げられた)。
雑仕女のする仕事をしました。金王丸から第二報が入ります。
「頭殿は尾張国野間にて、御家人・長田四郎忠致の手に掛かりて、討たれさせたまう」
常盤御前は金王丸を頼りますが、金王丸は精根尽き果てたと言って、出家します。
伯父は匿ってくれますが、逃げ隠れするほど状況は悪くなります。常盤御前は六波羅探題に出頭することにしました。その前に、以前仕えた女院・藤原呈子に暇乞いをします。この時、女院自ら常盤御前に化粧を施し、長持ちの中からより豪奢なものを選び、着替えさせます。
勿論、子供たちの装束も念入りに整えさせます。同時に女院は常盤御前に生き延びる知恵を授けます。
「もし、清盛殿が三人の子供の斬るつもりだと思ったら、その命が出る一息前に、こう申せ」
清盛の論理の矛盾を衝く言葉とは何か?
果たして清盛と常盤御前との対決は、どちらに軍配が挙がるか?
常盤御前は衆人環視の六波羅探題で、如何にふるまうか?
清盛が常盤御前に望んだものは何か?常盤御前にとってはこれ以上ない屈辱ですが。
しずのおだまき・静御前
この章では、かつて義為・義朝父子に仕え、義朝敗死後、出家した渋谷金王丸こと土佐坊昌俊が出現する。土佐坊昌俊は石橋山の戦いで挙兵した頼朝に合流し、武名を上げた。
源九郎義経は1184年、近江で木曾義仲を討ち取り、更に一の谷合戦で平家を破って武名を上げ、華やかに凱旋将軍として帰洛。その頃、人を介して白拍子・静御前は、義経の前で舞を披露した。頼朝と義経の仲が軋み始めたころです。
さらに、義経は独断で後白河法皇から検非違使・左衛門尉の任官を受けてしまいます。
これは“家来は己(頼朝)の許しなく任官してはならぬ”との頼朝の命に反します。
義経が屋島・壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしても、頼朝は義経に会おうともしません。
異母兄弟の拗れ切った関係は抜き差しならぬ事態となりました。
静御前は単なる愛妾ではなく、自ら3~4人の密偵を使う諜報員の側面も持っています。静御前の諜報網に、土佐坊昌俊が義経を暗殺する目的で、数十騎の兵士を連れて入洛しているとの情報が入ります。実は、武蔵坊弁慶が旧知の土佐坊昌俊を呼んだのでした。
やがて土佐坊昌俊は帰っていきます。彼は熊野詣に来たのだと、そして起請文を義経に見せます。この起請文は「義経には反逆しません、この言葉が嘘ならば、私は数多くの神仏の罰を受けるだろう」という意味です。しかし、義経は土佐坊昌俊を信じません。
異母兄・頼朝は土佐坊昌俊を使って、この義経を殺そうとしていると考えます。
静御前は、頼朝の側近・梶原景時を唆し操る北条時政が、一番の敵だと言う。
義経は思う。自分は戦上手だが、政治の権謀術数では北条時政や頼朝には敵わない。
その夜、案の定、土佐坊昌俊一味が、義経の館に押し入ります。注進を受けた義経は撃退し、六条河原で土佐坊昌俊を斬ります。これで、義経と頼朝の武力衝突は避けられない状態になりました。平氏という共通した最大の敵がいなくなれば、いずれは来る事態でした。
義経は、叔父・新宮行家と計らい、後白河院から頼朝追討の院宣を得る。
しかし、軍事力のパワー・バランスは圧倒的に頼朝に傾いています。頼朝の監視の網をかいくぐり、都落ちします。逃避行の始まりです。緒方三郎惟義の助けを借り、海路奥州・藤原秀衡のもとを目指そうとするが、海が荒れていて頓挫した(平家の祟り?)。
義経と静御前は天王寺に宿泊し、義経は先に出発します。その後、吉野の里、金峯山寺の僧房・吉水神社で再会を果たしますが、頼朝の追っ手が来ます。義経は、赤子の頃と同じように雪の中を逃げます。武蔵坊弁慶をはじめ僅かな供回りと奥州を目指します。
やがて、静御前は自ら金峯山寺・蔵王堂に出向き、捕縛されます。
北条時政の尋問を受けたうえで、母・磯禅師とともに護送されます。
頼朝は、鶴ケ岡八幡宮に参詣の折、静御前に歌舞を命じる。
「八幡大菩薩の御心に適うべく、舞を披露するがよい」
逡巡の後、舞をひとさし舞ったのち「吉野山みねのしら雪踏み分けて」「しずやしず、しずのおだまき」と吟じ、北条政子を感動させる。
頼朝は怒るが、政子のとりなしが効き、その場で衣を下賜される。
大姫と政子の嘆願にも係わらず、義経と静御前の生まれたばかりの子供は助からなかった。
頼朝とて大姫の願いは聞いてやりたいが、問題は家族関係のことではなく、国の運営に密接した問題なのだ。
こののち、静御前と磯禅師の消息は途絶えた。政子は充分な路銀を与えている。
吉野で母の幻影を見た義経は、春には加賀に辿り着く。
静御前との合流を諦め、俊章ら山法師たちの支援を受けて、山伏に姿を替え、北國街道をゆく。
義経は思う。自分を押し殺して生きることはできない。無様に逃げていても、自分には選択肢はこれしかなかったのだ。義経主従は、北國街道の安宅の関まで辿り着いた。俊章によれば、関を守るのは知恵者と評判の富樫左衛門尉です。迂回は不可能。
武蔵坊弁慶は大声を上げた。
「よっしゃ、わしに策がある」
義経も頷いた。
果たして、その策とは?無事に安宅の関を超えられるのか?
長くなってしまいましたが、丁寧に文献を読み込み、鎧兜の武者姿や女性陣の装束も視覚的に描いている。
武内涼ならではの“逃げる源氏”の宿命に立ち向かった武士たちと武家の女人たちの物語をお楽しみください。
一天一笑
「巴」という女武者は、平家物語の「義仲の最期」の章にわずか数行出てくるだけの100%伝説上の人物ですが、いろいろと想像力をかき立てられるキャラクターではあります。
- 彼女が義仲の最後の戦いの際、そばを離れず、勇敢に戦っていたこと。
- 義仲が彼女にかける言葉の中に、彼の深い愛情が感じられること。
義仲が彼女に落ち延びるよう指示したのは、もちろん彼女の身を案じてのことで、「俺に恥をかかせる気か?」などと言っているのはただ単に虚勢を張っているのです。
以上の点から、この「巴」という女性は、ただ単に怪力の持ち主だっただけではなく、美人だったのではないかという伝説が生まれてくる。こうして尾ひれがついた伝説が、更に海外に渡るとこうなるという例が以下の動画です。