魔性の血

拙訳『吸血鬼カーミラ』は公開を終了しました。

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「しゃべる心臓(The Tell-Tale Heart)」

オディロン・ルドン「しゃべる心臓」。ウィキメディア・コモンズより。

いかにも、俺の五感はもともと過敏ではあるが、だからといって狂人呼ばわりされなければならないいわれはない。病気は俺の五感を研ぎ澄ましたのであって、劣化させたわけでも、破壊したわけでもない。とりわけ聴覚が鋭敏で、俺には天上地上の物音がすべて聞こえる。地獄の物音もよく聞こえる。この俺のどこが狂人だと言うのか。まあ聞け。そうして俺がどれほど冷静に、理路整然と、一部始終を物語るか、見るがいい。
どのようにしてその考えが頭に浮かんだのか、それはわからない。ただ一度頭に浮かぶと、俺は寝ても覚めてもそのことばかり考えているようになった。目的はなかった。憎悪も怨恨もなかった。俺はあの爺さんが好きだった。迷惑をかけられた覚えはない。おとしいれられた覚えもない。爺さんは金持ちだったが、俺は別に金に困ってもいなかった。強いて言えば、あの目かも知れない。きっとそうだ。あの爺さんの片方の目は、禿鷹の目に似ていた――薄膜のかかった、淡い碧眼ペール・ブルー・アイだ。あの目で見つめられると、全身の血が凍る気がした。それで少しずつ、実に少しずつ、あの爺さんをぶっ殺して、あの目から永久に解放されたいと考えるようになった。
さて、ここがポイントだ。あんたは俺を狂人だと思っている。狂人に何がわかるか。あんたに見せてやりたかった。俺がどんなに賢く事を運んだか、見せてやりたかったよ。俺がいかに用心深く、いかに先を見越して、いかに猫をかぶりながら、事を進めたかをね。事に及ぶ前の週を通して、俺はかつてないほど爺さんに優しくしてやった。そうして毎晩、十二時頃になると、爺さんの部屋のドアの掛け金をはずして、静かにドアを開いた。それで首が突っ込めるほどの隙間が出来ると、俺はまず光線が漏れないよう、シャッターを閉ざしたダーク・ランタンを差し込んで、それから首を突っ込んだ。首を突っ込む際の俺のずる賢いやり方をはたで見ていたら、あんただって腹を抱えて大笑いしたことだろうよ。爺さんが目を覚まさないよう、俺はゆっくりと、実にゆっくりと首を突っ込んだのだ。爺さんの寝息をうかがおうと、俺が頭部をドアの隙間からすっぽりと中へ突っ込むまでに、まる一時間を要した。ハ!狂人がこんなに賢いわけがない。
そうして俺の頭部がそっくり部屋に入ってしまうと、蝶番ヒンジの音がしないよう充分に注意しながら、ランタンのシャッターを少しだけひらいた。ちょうどあの禿鷹の目のあたりにだけ、ひと筋の微光が当たる程度の、ごくごくわずかな隙間を作ったのだ。俺はこれを一週間の間、来る日も来る日も、夜の十二時きっかりに実行した。だがあの目はいつも閉じていたので、事に及ぶ気にはならなかった。なぜなら俺を困らせていたのは爺さんではなくて、爺さんの邪眼イービル・アイだったからだ。

ジョン・フィリップ(John Phillip)「邪眼」。自分をスケッチする画家の視線に、「邪視」の気配を感じて憤るジプシー女の図。ウィキメディア・コモンズより。

そうして毎朝、夜が明けると、爺さんの部屋にずけずけと入っていって、明朗快活に話しかけ、なれなれしく爺さんの名を呼びながら、「昨夜はよく眠れましたか」などと尋ねた。だから、あんたにもわかると思うが、爺さんがよほど思慮深い人物でもない限り、俺が毎晩十二時きっかりに、その寝息をうかがっているなどとは思いも寄らなかったろう。
八日目の夜、俺はいつもよりももっと用心深くドアを開いた。俺の腕の動きは時計の分針の動きよりも緩慢だった。俺はその夜ほど俺の能力の凄さを――俺の叡智の凄さを実感したことはなかった。俺は得意で仕方なかった。思えば俺はここにいて、少しずつドアを開けているのに、爺さんは俺の内緒の考えや行動にまるで気づいていないのだ。そう考えると俺は笑いをこらえきれず、たぶんそれが爺さんの耳に入った。なぜなら爺さんは、あたかもびっくりしたかのように、ベッドの上で突然動いたからだ。あんたはここで俺がドアを閉めて逃げたと思うかも知れないが、それは違う。室内は(泥棒を警戒して鎧戸が閉め切られていたから)分厚い暗闇で瀝青ピッチのように黒く、爺さんの目にはドアが開きつつあるのが見えるはずもなかった。それで俺はドアをじりじりと押しひらき続けた。
俺が首を突っ込んで、ランタンのシャッターを開けようとすると、親指がシャッターの留め金の上をすべった。爺さんはがばと起き上がって、「誰だ」と叫んだ。
俺はじっとしたまま、黙っていた。まる一時間の間、俺はぴくりとも動かず、その一方で爺さんが横になる気配もなかった。爺さんはベッドの上に起き上がって、まんじりともせず、ちょうど俺が夜ごと壁の中の死番虫シバンムシの鳴き声に耳を澄ましていたのと同じように、聞き耳を立てていたのだ。

ヨーロッパオオシバンムシウィキメディア・コモンズより。

次に俺は小さなうめき声を聞いて、それは恐怖のうめき声だった。それは苦痛のうめき声でも、悲しみのうめき声でもなかった。違うんだ。それは紛れもなく恐怖に圧倒された心の底から湧き起こる、低い、押し殺されたうめき声だった。俺には聞き慣れた声だった。来る夜も来る夜も、世間が寝静まる深夜十二時、その声は俺自身の胸の底から湧き上がり、それが部屋の四壁にこだますることで、狂わんばかりの恐怖心がさらに高じたものだった。聞き慣れていた。だから俺には爺さんの気持ちがよくわかって、それで可哀そうにと思う反面、心の底では笑っていた。最初に小さな物音を聞きつけて寝返りを打って以来、爺さんはずっと目を覚ましていた。それ以来、恐怖は募る一方だ。爺さんは気のせいだと思おうとしたが、無駄だった。爺さんは自分自身に言い聞かせていた。たとえば「煙突の中の風の音だ」「ネズミがゆかを走ったのだ」さもなくば「こおろぎがひと声鳴いただけだ」なんてね。爺さんはそんな当て推量で、気を鎮めようとしていた。だが無駄だった。何もかも無駄だった。なぜなら迫り来る「死」が黒い翼をひろげ、その影の中に、爺さんをすっぽりと包み込んでしまったからだ。室内における俺の頭部の存在プレゼンスを――何も見ず、何も聞こえないにもかかわらず――爺さんにひしひしと感じさせていたものは、この影の不吉な威力インフルエンスだったのである。
待てど暮らせど、爺さんが横になる気配がないので、俺は意を決して、ランタンのシャッターをひらき、ごくごく小さな裂け目クレヴィスを作ることにした。俺はあんたが想像も及ばないほど、それはひそやかに、忍びやかに、シャッターをひらいた。するととうとう蜘蛛の糸のように細くかすかなひと筋の光が、裂け目クレヴィスから漏れ出して、禿鷹の目に当たった。
その目がくわっと見ひらいているのを見て、俺は逆上した。おぞましいヴェールのかかった、淡いブルーの瞳が、俺の視界にくっきりと浮かび上がり、俺の背筋は骨の髄まで凍りついた。爺さんの顔やからだの他の部分は見えなかった。なぜなら俺はランタンの光を、あたかも本能によるかのごとく、あの呪われた一点スポットにぴたりと当てていたからである。
それで今――俺はあんたが狂気と錯覚しているものが、実は単なる五感の過敏に過ぎないと言ったはずだ――俺の耳には、ちょうど綿にくるんだ懐中時計が立てるような、低く、小刻みな、陰にこもった音が聞こえてきた。俺はその音のこともよく知っていた。それは爺さんの心臓の鼓動の音だった。それは軍鼓のひびきが兵士の士気をかきたてるように、俺の怒りをかきたてた。

ミリタリードラムの画像

行進する過激派組織「女性社会政治連合(WSPU)」の鼓笛隊。1909年。ウィキメディア・コモンズより。

それでも俺は手を出さず、じっとしていた。ほとんど息もしなかった。俺はランタンを一定の位置に保持していた。どれだけ長時間、光を目にぴたりと当てていられるか、試していたのだ。一方で、爺さんの胸はいよいよ高鳴っていた。鼓動はいよいよ小刻みに、その音量はいよいよ大きなものとなっていった。爺さんの恐怖は頂点に達しているに違いない。音は刻一刻と大きくなっていった。俺の言葉を記憶しているか。俺の耳は聞こえすぎるといったはずだ。この深夜、この静まり返った古い家の中で、この怪音は俺を恐怖におとしいれた。それでももうしばらくの間、俺は手を出さないで、じっとしていた。だが音は大きく、大きくなっていった。爺さんの心臓は破裂するに違いないと俺は思った。そこで新たな心配が生じた――この音が隣近所にまで聞こえたらどうしよう。運命の時が来たのだ。俺はランタンを全開にすると、大声を上げながら室内へと突入した。爺さんは一度だけ、たった一度だけ悲鳴を上げた。次の瞬間、俺は爺さんを寝台から引きずり下ろし、くそ重たい寝台の下敷きにした。そこまではうまく行ったので、俺は会心の笑みを浮かべた。とはいえ、それから何分間も、心臓は陰にこもったひびきを立て続けた。だが俺は困らなかった。壁を隔てて、家の外まで音が漏れることはあるまい。やがて音は止んだ。爺さんは死んだ。俺は寝台をどけて死体をあらためた。爺さんは死んでいた。完全に死んでいた。俺は爺さんの胸のあたりに手を当てて、何分間もそのままにしていた。脈はなかった。完全にくたばったのだ。これでもうあの嫌な目つきに悩まされることもあるまい。
たとえあんたがまだ俺の正気を疑っているとしても、俺がどんなに巧妙に死体を処理したかを聞いたら、考えを改めることだろう。夜明けが近かったので、俺は急いで、とはいえ物音を立てずに、事を運んだ。まず死体をばらばらにした。首をはね、両手両足を切り落とした。
それから床板を三枚はがし、一切を床組みの隙間に入れた。それからいかなる人間の目といえども――たとえあの爺さんの目であろうとも――見破ることの出来ないほどずる賢く、俺は床板を元通りにした。拭き取らなければならないものは何もなかった。いかなる汚点も、いかなる血痕もなかった。その辺は抜かりなかった。全部たらいに受けていたからね。ハ!ハ!
何もかも片付いたのは朝の四時で、まだ外は真っ暗だった。呼び鈴が鳴って、玄関のドアにノックの音がした。行ってドアを開いた俺の心は晴れやかだった。なぜならもはや何の心配もなかったからだ。三人の男が入ってきて、非常な低姿勢で、警官だと名乗った。何でも近所の者が夜中に悲鳴を聞いて、殺人事件ファウル・プレイが起きた可能性がある由、警察に通報があり、それで奴ら(警官たち)がめいを帯びて来たので、「申し訳ありませんが、お住まいを調べさせていただいてもよろしいでしょうか」と言うのであった。
俺はにっこりと微笑んだ。なぜなら何の心配もなかったからだ。俺は「どうぞお入り下さい」と言った。悲鳴は俺自身の声で、夢でうなされたのだと言った。爺さんは国に帰って留守だと言った。俺は奴らに家中を案内しながら「どうぞ心ゆくまでお調べになって下さい」と言った。最後に、俺は奴らを爺さんの部屋へと連れて行った。爺さんの貴重品は厳重に保管され、手がつけられたあとはなかった。俺は得意になって、その部屋に椅子を運び込み、「お疲れでしょうから、ここでゆっくりしていって下さい」と言った。あまつさえ、勝利の美酒にすっかり酔い痴れて、爺さんの死体が埋まっている一角スポットのちょうど真上に、自分の椅子を置いた。
警官たちは満足していた。俺の態度で納得したのだ。俺は奇妙なほど落ち着いていた。奴らは腰を下ろして、下世話なおしゃべりに打ち興じ、俺は愛想よく相槌を打ってやった。だがほどなく、俺は頭から血の気が引いて、奴らがさっさと帰ってくれないかと思うようになった。頭痛とともに何か耳鳴りがして、それでも奴らは居座っていた。耳鳴りは収まる気配がなかった。ひどくなる一方だった。俺はそれから解放されようとして、もっと奔放におしゃべりをした。だが耳鳴りはひどくなる一方だった。――そしてとうとう、それが耳鳴りなどではないことに、俺は気がついた。
俺は真っ青な顔をしていた間違いない。それでも俺は声高に、ペラペラとしゃべり続けた。だが音は大きくなる一方で、なすすべがなかった。ちょうど綿にくるんだ懐中時計が立てるような、低く、小刻みな、陰にこもった音だ。まさかと思って、俺は息を呑んだ。だが警官たちには何も聞こえていなかった。俺はもっと早口でしゃべった。もっと猛烈にまくし立てた。だが音は大きくなる一方だった。俺は椅子から立ち上がった。甲高い声を張り上げ、激しい身振り手振りをまじえながら、どうでもいいことについて暴論をぶち上げた。だが音は大きくなる一方だった。どうして奴らはいつまでも居座っているのだろう。あたかも奴らの目にさらされることで極度に興奮しているかのごとく、俺は室内をドカドカと大股で歩き回った。だが音は大きくなる一方だった。なすすべがない。俺は口角泡を飛ばした。声を荒げて放言した。俺がそれまで座っていた椅子を乱暴にゆさぶったので、椅子の足が床にこすれてキイキイと音を立てた。だが音はあらゆる物音にかかわらず、大きくなる一方だった。それは大きく、大きく、大きくなるのだった。そうして奴らはなおも笑顔でおしゃべりに打ち興じていた。この音が奴らの耳に聞こえていないなどということがあるだろうか。違う、違うんだ。奴らには聞こえていて、それで怪しんでいるだけでなく、本当は何もかも知っていて、俺がこの音に怯えているのをあざ笑っているのだ。俺はそう思ったし、今でもそう思っている。だがこの苦しみに比べれば何でもましだった。この冷笑以外なら何でも耐えられた。もうこれ以上この偽善的な笑いには我慢ならない。俺は大声を出さなければ死ぬと思った。そして今、ほら、またあの音が、大きく、大きく、大きく、大きく!
悪漢どもヴィラン」俺は叫んだ。「しらばっくれるのもいい加減にしないか。俺は犯行を認める。床板をはがしてみろ。ここだ、ここだ。音は、俺が殺した男の心臓の鼓動なのだ」