表題の歴史小説について、一天一笑さんから紹介記事をいただいておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
プロローグ
吉川永青著『龍の右目“伊達成実伝”』(角川春樹事務所)を読了して。
これは、戦国時代にやや遅れて現れた武将伊達藤次郎政宗を、支え続けた亘理伊達家初代伊達藤五郎成実の人生譚です。伊達政宗より一歳年下、一門衆の出で、幼馴染でありながら、政宗を主家の殿様と仰ぐ主従の関係です。政宗とは曾祖父伊達稙宗を同じくし、烏帽子親は伊達輝宗(政宗の父)。生まれながらにして政宗の補佐役の運命を担っています。幼い頃から、実父伊達実元から「政宗の力になれ」と繰り返し言い聞かされています。
西暦1567年~1646年の東日本がこの歴史小説の舞台です。戦国時代を平定したかのように見えた織田信長が斃れた本能寺の変は、1582年(天正10年)に起こりましたから、政宗・成実は14~15歳です。徳川家康・豊臣秀頼・織田信勝・柴田勝家等の名立たる武将たちと覇権争いをするには幼すぎますね。乱世の尻尾に生まれ、戦の無い、安寧な世の中を堂々と生きてゆくには、何が必要なのでしょうか?
片倉景綱、政宗の右目を抉り出す
疱瘡に罹り、辛くも回復した政宗は、自ら己の右目を抉りだそうとするが、痛さに負けて、中途半端になっている所を家臣片倉小十郎景綱が小刀で抉り出す。
生母の義姫(最上義光の妹)は、何故か政宗を嫌い次男の小次郎正道を溺愛します。
理由は不明ですが、政宗の激しい気性がいやだったとか?その伝で言えば、織田信長の生母(織田信秀正室・土田御前)も弟勘十郎信行の方を溺愛したとか。そして正道も信行も実兄に殺されています。家中の分裂を防ぐためと思いますが、いやはや、一筋縄ではいかない母子関係ですね。でも生母義姫は伊達家の中でも一定の力(根回しをして戦を停戦させる力)を持っています。のち実家へ出奔します。
それはともかく、成実は右目を失った政宗に“俺がお前の右目になってやる”と誓います。
その心意気は見上げたものですが、大名同士・家中同士、幾世代にも渡る婚姻関係を築いてきた複雑で固定的な人間関係の中では、生半可にはできませんね。当時の東北地方は、群雄割拠の状態です。互いに背かない保証の為に、婚姻したり、人質を差し出したりしています。
しかし、伊達政宗と最上義光は伯父・甥の間柄ではありましたが、疎遠で、反目しあう間柄でした。
政宗、拉致られた実父を撃たせる
政宗は隠居した実父伊達輝宗が、二本松義継に拉致された折には、実父の願いどおりに、発砲の下知を出す。儂に構わず、奥州平定を成し遂げよとの言葉に応えるように、実父ごと二本松義継を狙撃させます(この下知は政宗以外誰にも出せません)。親子の情よりも、家の繁栄が大事です。成実もこれには震撼しますが、兵士の前では泣けなくても、俺の前では泣いていいぞと声を掛けます。
これを皮切りに、政宗と成実と伊達家家臣団・足軽たちは転戦していきます。1585年、人取橋の戦では窮地の政宗を助けます。その戦のあと城から火事を出してしまい、その時成実の右手は火傷により変形してしまいます。右目を失った者、右手が思うように動かない者同士、闘志を燃やします。1588年郡山の戦、1589年摺上原の合戦で、伊達家に成実あり、後ろに引かない毛虫(成実の兜の前立てを指す)ありと戦場で恐れられるまでになります。
秀吉に引っ掻き回される伊達家
合戦の甲斐があり、謀略・調略の甲斐があって、奥州平定はほぼ実現するが、子供の頃からの天下取りの野望は、秀吉の台頭で絶望的になります。それどころか、文禄の役(1592年)に伊達政宗と成実に朝鮮出陣の命令がくだります。朝鮮では武将たちはかなり苦労をします。しかも不味い事に、成実一人で秀吉に拝謁した時に、気に入られたのか伏見に屋敷を授けられます。政宗以上に秀吉に気に入られては、逆心があるように思われて不味いのです。しかも秀吉に改名させられた有力家臣茂庭綱元は、秀吉の愛妾を下げ渡す騒動に巻き込まれて、嫌気がさしたのか伊達家から出奔してしまいます。これ以後、伊達家としては、秀吉と秀次の間を、ほぼ等距離感覚で付き合わないと、疑心暗鬼に陥った秀吉にどんな仕打ちを受けるかわかりません。伊達家分断工作でも図られているのでしょうか?
成実の出奔
もうひとつ、伊達家臣団も大所帯になり、以前ほど意志疎通もできません。家臣たちの中に、政宗に成実が謀反を企んでいると讒言する者さえ出てきます(屋代勘解由)。武力で戦うのは得意でも、肚を探り合う権謀術数は不得手の成実は、謀反を企んでいるのを疑われた自分が、政宗の側にいても役には立たないと悩み、夜も自然に眠れなくなり、家臣たちと高野山へ出奔します(ちょっとした心身症ですかね、正室が病没した脱力感からか)。
1595年は秀次が切腹した年です。この秀次切腹の際、最上義光の娘駒姫が秀次の愛妾になるために上洛しますが、巻き込まれて刑死してしまいます。駒姫は僅か14歳位です。自分で人生を選べないまま刑死します。何とか助けられなかったものでしょうか?
その2年後、ほぼ世捨て人に近い生活を送っていた成実の下に、徳川家康の使者が来ます。
抜け目のない家康は、井伊直親の家臣を使者として、自分に士官する気はないか問います。
序にとばかりに、最近の世の中の状況を聞かせていきます。
しかしこの士官の話は、伊達政宗からの奉公構が出ているから無理だとの返事が来ます。
主君の不興を買って出奔した者を、他の武家は雇ってはいけないとの申し合わせ事項です。
家康は成実主従を高野山から逗子へ移して面倒を見ます。これを目立たないように実行させる家康は流石です。政宗の奉公構があっても、成実を悪いようには扱わないと説得する。諜報網を操り心を砕きます。
その後、出奔する際に領地の角田の城の後始末を任せた傅役羽田右馬之介が、屋代勘解由と白根沢重綱に何の備えのないまま謀殺された件を、羽田実景(成実が烏帽子親)から直接知らされる。
右馬之介の訃報のあと、夢うつつに暮らしていた成実の下に、片倉小十郎が訪ねてくる。
奉公構は成実を何処の家中にも渡したくない一心からだと言う。
その上、関ヶ原の戦いが近い。就いては内府(家康)から、もし政宗が出陣したら、百万石の切り取り勝手の沙汰が出ていると説得する。最近奇行の目立つ政宗を救ってやってくれと言う(「伊達者」と言われる姿でのし歩く等)。
更に、政宗の右目は、私ではなく、あなただとさえ言っている。確かに右目は成実だが、方法が間違っていたとの思いに至る。政宗のような偏屈で頑固な人には、叱咤激励ではなく、そこにいることが自然であるかのように寄り添うのだ。平時と有事のときに備えて。
成実の帰参
成実は黒糸縅の仏胴具足、毛虫の前立て、右手に縛った馬上槍、黒鹿毛の乗馬姿で、伊達家陣営に帰参する。そし政宗に5年ぶりに面会する(小十郎は政宗が臍を曲げないように手回しをしている。案内役は政宗の実弟石川昭光が務める)。
「ずいぶん長くかかったな、どこまで買いにでておった。亡くなられた奥方のために、線香を買い求めにいったと聞いているが、手に入ったか」
「亡き輝宗公の分をお分けいだだければ、幸いです」
この会話で、出奔はなかったことになる(お互いの頑固さが受け入れられたか)。
これは、亡き右馬之助が、政宗からの出仕を促す伝令に、成実は亡き正室(伊達家重臣亘理重宗の娘)に供える線香を買いに行くと返事をしていることに由来します。
成実は白石城攻略で、手柄を立てます。羽田実景・石川昭光も“毛虫殿が帰参したぞ”と
触れ回り、成実を盛り立てます。白石城は程なく落城します。
エピローグ
これ以後、伊達家も内府に付け込まれないよう、苦難の道をあゆみますが、何故か復帰以後の方が、心安き仲になり、時には政宗自ら、格別の用は無いが、暫く顔をみていないとて、成実を訪ねて行くことが度々あったようです。
これは1636年、伊達政宗が病没するまで続きます。政宗病没後は伊達家の重鎮としての責任を果たします。伊達家一門衆の使命を成し遂げます。
血族の縁で結ばれた関係を、大人になり、自分達の意志で、肝胆相照らす仲へと成長させていった2人の戦国武将の物語です。
伊達政宗のバサラに興味のある方、戦国時代終盤に興味のある方、仙台伊達家に興味のある方等にお薦めします。
一天一笑