
エドガー・アラン・ポーの物語詩「大鴉」の日夏耿之介による日本語訳詩を読む。
こちらの記事で指摘した通り、日夏耿之介の著作権はまだ活きております(2026年2月現在)ので、全文引用は避け、全18節のうち数節だけ引用してコメントします。例によって読みやすいよう、多少手を加えております。拙訳はこちら。
第1節
むかし荒涼たる夜半󠄁なりけり いたづき羸れ默座しつも
忘却の古學の蠧巻の奇古なるを繁に披きて
黃奶のおろねぶりしつ交睫めば 忽然と叩叩の欵門あり。
この房室の扉をほとほとと ひとありて剝啄の聲あるごとく
儂呟きぬ「賓客のこの房室の扉をほとほとと叩けるのみぞ。
さは然のみ あだごとならじ」
第1行:いきなりですが、「夜半󠄁なりけり」とありますが、語り手自身の思い出話をしているわけですから「夜半󠄁なりき」とするのが本当でしょう。それと「いたづき」はまだいいとして、「羸れ」などという日本語を知っている日本人がいるでしょうか?さらに「默座」と聞くと、何となく畳の部屋に正座している姿を想像するのは私だけでしょうか?
第2行:苦心の訳ですね。この「古學」という言葉、今ちょっと調べてみますと、通常は江戸時代に興った反朱子学運動を指すようで、原詩の意(原詩ではおそらく「占星術」とか「錬金術」とかいった、中世のインチキ科学を指している)とはかなりズレますが、かと言って、他にどんな訳語を当てればいいのか、私にもわかりません。「蠧巻の奇古なるを繁に披きて」は、感じが出ていて、佳い訳だと思います。「奇古」は日夏の好きな言葉の一つです。
第3行:「黃奶の」とは「憂鬱な」というほどの意味かと想像しますが、訳語の選択に、訳者の趣味性を強く感じます。黄眠先生は、とにかくこの「黃」の字が好きなのです。ちなみに「奶黄」は、今の中国語ではカスタード・クリームを指すそうです。
第2節
憶ひぞいづれ鮮やかに あはれ師走の嚴冬なり。
燼頭の火影ちろりと 怪の物影を床上に描きぬ。
黎明のせちに遅たれつ――逝んぬ黎梛亜を哀しびて
その胸憂を排さばやと黃巻にむかへどあだなれや。
嬋娟しの稀世の姣女 天人は黎梛亜とよべど
とことはに 我世の名むなし。
第1行:私が初めてこの訳詩を読んだとき(今から50年以上前ですが)、この「憶ひぞ出づれ」の句を「憶ひぞ何れ?」の意に誤読したことを覚えています。何で誤読するかというと、係り結びの形がおかしいからです。「ぞ」という係助詞が使いたいならば、「憶ひぞ出づる」と連体形にすべきだし、どうしても已然形が使いたいならば、「憶ひこそ出づれ」とすべきところです。この係り結びの話は後でも出てきます。
第5行:「嬋娟しの稀世の姣女」!「まぐはし」(「まぐわし」と読む)は「目に快い」「美しい」の意の古語で、やはり日夏の好きな言葉の一つです。ここでは字面の美しさよりも、むしろ音調美の素晴らしさに注目していただきたい。「黎梛亜」という美しい漢字の当て方と言い、この辺はもはや日夏耿之介の超能力の世界で、われわれにはとても太刀打ちできません。
第8節
黑檀色のこの禽が世に嚴めしくきはきはしき行儀を見れば
こころ悲しき空想も微笑に解けて儂糺すらく
「鳥幘は削がれてあれど 夜の領の汀杳かに彷徨り出し
こころ怯懦て面高なる 老来の大鴉にはよもあらじ。
黃泉 閻羅の王の禁領にして 首長の本名を何とか稱ぶ?」
鴉いらへぬ「またとなけめ。」
第6行:「またとなけめ」とは「二度とない」という意味の「またとなし」に、推量の助動詞「けむ」がくっついた形で、「二度とないだろう」というほどの意味です。問題は、なぜこれが「またとなけむ」と終止形にならないで、「またとなけめ」と已然形になっているのかという点です。まあ、こうした変則的な活用は、上田秋成など、江戸時代の戯作者もよく用いておりましたから、それほど目くじらを立てることではないのかも知れませんが、これが森鷗外や上田敏だったら、「またとこそなけめ」と、正しい係り結びの形を整えていたに違いありません。
第16節
儂は言ふ「預言者よ凶精よ しかはあれ儂が預言者よ 禽にまれ妖異にまれ
人界をたち蔽ふ上天に是を誓ひ われ等兩個是を崇拝する
かの神位に祈誓ひて是を申す
哀傷を荷へるこの魂は 杳かなる埃田神苑に於て
天人の黎梛亜と呼べる嬋娟しの稀世の姣女これを獲べき歟、
天人が黎梛亜と呼べる嬋娟しの稀世の姣女これを擇べき歟。」
大鴉いらへぬ「またとなけめ。」
第2行:「われ等兩個是を崇拝する」という句の「是」という字が脱落している版が非常に多いですが、これがないと意味が取れません。
第17節
跳り起ち聲振りしぼりこの儂は「禽よ、その言葉をこそ袂別の符ともせよ。
大雨風や夜の闇の閻羅の界の海涯にとたち還れ、
爾の心の譚りたる誑誕の印として、かの黝き羽をな賂ひそ。
儂が閑情をな攪乱しそ。扉口なる石像の上を郤退󠄁け。
儂が胸奥よりは爾の鳥喙を去り、この扉口よりは爾の姿相を消せ。」
大鴉いらへぬ「またとなけめ。」
第1行:「跳り起ち聲振りしぼりこの儂は」いいですねー。感じがよく出ています。
第3行:この「およづれごと」(「たわごと」「嘘偽り」の意)という言葉も日夏の好きな言葉の一つです。これに限らず、この訳詩には彼の愛用語がいっぱい鏤められていて、あたかも彼の持ち駒を――彼のいわゆる「ゴシック・ローマン詩体」における得意技を、惜しみなく、バンバン駆使することで、この訳詩全体を自作の一つに加えんとするかのごとくです。
第4行:「閑情」という美しい日本語が、ここでは見事にハマっています。
第18節(最終節)
さればこそ大鴉 いかで翔らず恬然とその座を占めつ、
儂が房室の扉の眞上なる巴剌斯神像にぞ棲りたる。
その瞳こそげにげに魔神の夢みたるにも似たるかな。
灯影は禽の姿を映し出で、床の上に黑影投げつ。
さればこそ儂が心 その床の上にただよへるかの黑影を
得免れむ便だも、あなあはれ
――またとはなけめ。
最終行:この「あなあはれ――またとはなけめ」ですが、「黄眠先生、これはないよ」と私は言いたい。原文の、
Shall be lifted—nevermore!
という絶望の叫びが、純日本風の、しょぼくれた、感傷的な嘆息にすり替えられている。この点が、個人的に、私がこの訳詩について一番不満に感じるところです。
