魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(日夏耿之介訳)エドガー・アラン・ポー「大鴉」

ドレ「黎明のせちに遅たれつ――逝んぬ黎梛亜を哀しびて」ウィキメディア・コモンズより。

エドガー・アラン・ポーの物語詩「大鴉ザ・レイヴン」の日夏耿之介による日本語訳詩を読む。
こちらの記事で指摘した通り、日夏耿之介の著作権はまだ活きております(2026年2月現在)ので、全文引用は避け、全18節のうち数節だけ引用してコメントします。例によって読みやすいよう、多少手を加えております。拙訳はこちら

第1節

むかし荒涼たる夜半󠄁よはなりけり いたづきみつれ默座しつも
忘却の古學の蠧巻ふみの奇古なるをしじひらきて
黃奶くわうねいのおろねぶりしつ交睫まどろめば 忽然こちねん叩叩こうこう欵門おとなひあり。
この房室へやをほとほとと ひとありて剝啄はくたくこゑあるごとく
われつぶやきぬ「賓客まれびとのこの房室へやをほとほとと叩けるのみぞ。
 さはのみ あだごとならじ」

第1行:いきなりですが、「夜半󠄁よはなりけり」とありますが、語り手自身の思い出話をしているわけですから「夜半󠄁よはなり」とするのが本当でしょう。それと「いたづき」はまだいいとして、「みつれ」などという日本語を知っている日本人がいるでしょうか?さらに「默座」と聞くと、何となく畳の部屋に正座している姿を想像するのは私だけでしょうか?
第2行:苦心の訳ですね。この「古學」という言葉、今ちょっと調べてみますと、通常は江戸時代におこった反朱子学運動を指すようで、原詩の意(原詩ではおそらく「占星術」とか「錬金術」とかいった、中世のインチキ科学を指している)とはかなりズレますが、かと言って、他にどんな訳語を当てればいいのか、私にもわかりません。「蠧巻ふみの奇古なるをしじひらきて」は、感じが出ていて、佳い訳だと思います。「奇古」は日夏の好きな言葉の一つです。
第3行:「黃奶くわうねいの」とは「憂鬱な」というほどの意味かと想像しますが、訳語の選択に、訳者の趣味性を強く感じます。黄眠先生は、とにかくこの「黃」の字が好きなのです。ちなみに「奶黄ナイファン」は、今の中国語ではカスタード・クリームを指すそうです。

第2節

おもひぞいづれけざやかに あはれ師走の嚴冬なり。
燼頭もえざし火影ほかげちろり・・・と 物影かげ>)床上ゆかに描きぬ。
黎明いなのめのせちにたれつ――んぬ黎梛亜リノアを哀しびて
その胸憂むなうさはらさばやと黃巻ふみにむかへどあだなれや。
嬋娟まぐはしの稀世きぜい姣女をとめ 天人てんにん黎梛亜リノアとよべど
 とことはに 我世ここの名むなし。

第1行:私が初めてこの訳詩を読んだとき(今から50年以上前ですが)、この「おもひぞづれ」の句を「おもひぞいづれ?」の意に誤読したことを覚えています。何で誤読するかというと、係り結びの形がおかしいからです。「ぞ」という係助詞が使いたいならば、「おもひぞ」と連体形にすべきだし、どうしても已然形が使いたいならば、「おもこそづれ」とすべきところです。この係り結びの話は後でも出てきます。
第5行:嬋娟まぐはしの稀世きぜい姣女をとめ」!「まぐはし」(「まぐわし」と読む)は「目に快い」「美しい」の意の古語で、やはり日夏の好きな言葉の一つです。ここでは字面の美しさよりも、むしろ音調美の素晴らしさに注目していただきたい。「黎梛亜リノア」という美しい漢字の当て方と言い、この辺はもはや日夏耿之介の超能力の世界で、われわれにはとても太刀打ちできません。

第8節

黑檀色のこのとりが世に嚴めしくきはきはしき行儀を見れば
こころ悲しき空想も微笑みせうに解けてわれただすらく
鳥幘てうさくは削がれてあれど よるくにみぎははるかに彷徨もとほいで
こころ怯懦おぢけ面高おもだかなる 老来おいらく大鴉おおがらすにはよもあらじ。
黃泉よもつくに 閻羅えんらきみの禁領にして 首長みおやの本名を何とかぶ?」
 からすいらへぬ「またとなけめ。」

第6行:「またとなけめ」とは「二度とない」という意味の「またとなし」に、推量の助動詞「けむ」がくっついた形で、「二度とないだろう」というほどの意味です。問題は、なぜこれが「またとなけむ」と終止形にならないで、「またとなけめ」と已然形になっているのかという点です。まあ、こうした変則的な活用は、上田秋成など、江戸時代の戯作者もよく用いておりましたから、それほど目くじらを立てることではないのかも知れませんが、これが森鷗外や上田敏だったら、「またとこそなけめ」と、正しい係り結びの形を整えていたに違いありません。

第16節

われは言ふ「預言者よげんじゃよ凶精よ しかはあれ預言者よげんじゃよ とりにまれ妖異にまれ
人界をたち蔽ふ上天に是を誓ひ われ等兩個ふたり是を崇拝する
 かの神位に祈誓うけひて是をまを
哀傷かなしみになへるこの魂は はるかなる埃田エデン神苑に於て
天人てんにん黎梛亜リノアと呼べる嬋娟まぐはしの稀世きぜい姣女をとめこれをべき
天人てんにん黎梛亜リノアと呼べる嬋娟まぐはしの稀世きぜい姣女をとめこれをべき。」
 大鴉からすいらへぬ「またとなけめ。」

第2行:「われ等兩個ふたり是を崇拝する」という句の「これ」という字が脱落している版が非常に多いですが、これがないと意味が取れません。

第17節

をどこゑ振りしぼりこのわれは「とりよ、その言葉をこそ袂別べいべつしるしともせよ。
大雨風おほあめかぜや夜の闇の閻羅えんらくに海涯うみぎしにとたち還れ、
の心のものがたりたる誑誕およづれごとしるしとして、かのかぐろはねをなまひなひそ。
が閑情をな攪乱かきみだしそ。扉口とぐちなる石像の上を郤退󠄁しりぞけ。
胸奥むなおくよりは鳥喙くちさきを去り、この扉口とぐちよりは姿相すがたを消せ。」
 大鴉からすいらへぬ「またとなけめ。」

第1行:「をどこゑ振りしぼりこのわれは」いいですねー。感じがよく出ています。
第3行:この「およづれごと」(「たわごと」「嘘偽り」の意)という言葉も日夏の好きな言葉の一つです。これに限らず、この訳詩には彼の愛用語がいっぱいちりばめられていて、あたかも彼の持ち駒を――彼のいわゆる「ゴシック・ローマン詩体」における得意技を、惜しみなく、バンバン駆使することで、この訳詩全体を自作の一つに加えんとするかのごとくです。
第4行:「閑情」という美しい日本語が、ここでは見事にハマっています。

第18節(最終節)

さればこそ大鴉おおがらす いかでかけらず恬然てんぜんとその座を占めつ、
房室へやの眞上なる巴剌斯パラス神像しんぞうにぞとまりたる。
その瞳こそげにげに魔神の夢みたるにも似たるかな。
灯影ほかげの姿を映し出で、ゆかの上に黑影かげ>)投げつ。
さればこそが心 そのゆかの上にただよへるかの黑影こくえい
 まぬがれむ便よすがだも、あなあはれ
 ――またとはなけめ。

最終行:この「あなあはれ――またとはなけめ」ですが、「黄眠先生、これはないよ」と私は言いたい。原文の、

Shall be lifted—nevermore!

という絶望の叫びが、純日本風の、しょぼくれた、感傷的な嘆息にすり替えられている。この点が、個人的に、私がこの訳詩について一番不満に感じるところです。