
遠い日のある夜更け ぐったりと倦み疲れ
古科学の稀有で珍奇な諸資料を吟味しながら
転寝をしかけていると わたくしの部屋のドアから
剝啄のごとき微かな物音が 不意に響いた
「客が来てドアを叩いているのだ」と小声で言った
「それだけだ 他にあるまい」
それは侘しい十二月 燻っているばらばらの
炭のかけらが床の上に その分身をこしらえていた
明け方の待ち遠しさよ わたくしはその夜 読書に
天使らがレノアと呼んだ絶世の美貌の処女を
喪った悲しみからの慰めを 空しく求めた
その名さえ 今は空しい
紫の絹のカーテン さらさらと鳴る物音を
耳にして 未知の恐怖に満たされたこのわたくしは
みずからの胸の鼓動を鎮めんとして起立した
「入室を求める客がこのドアの外にいるのだ
このような時間に 客が入室を乞うているのだ
それだけだ 他にあるまい」
わたくしの心はやがて強くなり もはや躊躇うこともなくなり
「殿様 または奥様か 深くお詫びを申し上げます
ただわたくしは転寝を そこへあなたは訪いを
それは優しく 大人しく 訪いをされましたゆえ
わたくし およそ気づきませんで」ここで扉を広く開くと
真っ暗闇で 何もなかった
真っ暗闇を前にして ただ呆然と立っていた
夢みた者もないような不思議な夢を夢みつつ
だが沈黙は破られず また手がかりも見つからず
折しも「レノア」と呼ぶ声がたった一声 それはただ
このわたくしの独語 これに「レノア」と答えた者は
木霊で 他に何もなかった
部屋に戻るや 全身に火が点いたかと思われた
今度は少し大きめのノックの音を聞いたから
「何か知らぬが 必ずや何かが窓のかげにいる
みずからの目で確かめて この謎を解明しよう
みすからの心を鎮め この謎を解明しよう
風のいたずら 他にあるまい」

鎧戸を開けるや否や ばたばたと鼓翼きながら
やってきたのは そのかみの聖なる御代の大鴉
おおよそ遠慮会釈なく またひとときも留まらず
勿体ぶった物腰で 部屋の扉の上に来た
部屋の扉の上にある 女神パラスの胸像の
上にとまった それだけだった
黒装束のこの鳥の 真面目くさった堅物らしい
渋面を見て 気が紛れ つい微笑んだわたくしは
「頭は剃っているものの 名だたる猛者に違いあるまい
『夜』の国から訪れた 昔ながらの大鴉よ
『夜』の世界の三途の川辺における名を何と言う」
大鴉は答えた「もう二度とない」
驚いたのは この鳥がはっきり物を言ったから
無意味で筋の通らない返事のような気もしたが
おおよそ鳥でも獣でも「二度とない」氏というような
変な名前の生き物を 自分の部屋のドアの上
像の真上に見たという世に有り難き幸せ者は
たぶんわたくしだけだから
とはいえ彼はじっとして 吐いたのはその一語のみ
あたかもそれが入魂の一語であったかのごとく
ただそれからは物も言わず ただの一度も鼓翼かず
わたくしはふと呟いた「友人たちは皆去った
彼も明日には去るだろう 去りて帰らぬ『希望』のごとく」
そのとき鳥は言ったのだ「二度とない」と
この沈黙を打ち破る 妥当至極なお返事に
驚かされたわたくしは「これこそ前の主人から
聞かされた語の復唱だ その気の毒なご主人は
目も当てられぬ災難が いやが上にも重なって
遂に一つの言い回しがその口癖となったのだ
絶望の挽歌は『もう二度と 二度とない』という
リフレインを負わされたのだ」
とはいえ やはり気が紛れ つい微笑んだわたくしは
鳥ととびらと胸像の手前に 椅子を廻らして
そのクッションに身を委ね 不吉な鳥の鳴き声が
この真っ黒で見苦しい 昔ながらの不吉な鳥の
「二度とない」との鳴き声が 何を意味しているのかと
妄想を連鎖させていった
この怪鳥を前にして なお一言も発し得ず
その眼光を みずからの心の芯に焼き付けて
洋灯光を反射する 菫色のビロードの
クッションカバーに ゆったりと頭を乗せて思うわたくし
菫色のビロードの光るクッションカバーの上に
彼女が凭れることは 二度とないのだと!
時に天使ら舞い降りて その足音も玲瓏と
手に手に提げし香炉より薫る気 いよよ濃さを増す
「馬鹿者よ」とみずから言った「神は天使を遣わして
恋を忘れる妙薬を 忘れ薬を下さったのだ
飲まんかな 心優しき忘れ薬 飲んで女を忘れんものを」
大鴉が言った「もう二度とない」
「預言者よ 邪悪な者よ 鳥か魔物か なお預言者よ
『悪』の手先か 暴風に無理強いされて来た者か
魔に魅入られたこの土地で 『恐怖』に憑かれたこの家で
孤寥無頼の大鴉よ 本当のことを教えてくれ
ギリアデに乳香ありや お願いだから教えてくれ」
大鴉は答えた「もう二度とない」
「預言者よ 邪悪な者よ 鳥か魔物か なお預言者よ
我らの頭上なる『天』にかけて 我らがともに崇める『神』にかけて問う
手傷を負ったこの魂は せめて彼岸の浄土において
聖少女レノアの霊を 天使らがレノアと呼んだ
絶世の美貌の処女の魂を 抱くであろうか」
大鴉は答えた「もう二度とない」
「その言葉を捨て台詞とせよ」わたくしは躍り上がった
「帰れ 『夜』の領土なる三途の川のほとりへと
法螺吹きの置き土産とて 一枚の黒い羽根をも残すな
このわたくしをそっとしておけ その胸像の上を立ち去れ
わが胸の急所よりその嘴を抜き わが部屋の扉よりその醜貌を消せ」
大鴉は答えた「もう二度とない」
そうして鳥は鼓翼かず わたくしの部屋のドアの上
パラスの白い胸像の上に 今なお留まっている
夢を見ている魔神の目のような目を光らせて
灯に照らされたその影は床を漂い 今もなお
床を漂うその暗い影の中から このわたくしの
魂の再起せんこと もう二度とない!
