
アルフレッド・テニスン
アルフレッド・テニスンの作品からは、私は彼をこの世に生まれたもっとも高貴な詩人であると、心から見なしているにもかかわらず、今はごく短いサンプルをご紹介する時間しか残されておりません。私が彼をもっとも高貴な詩人と呼び、またそう考えるのは、彼の産み出す印象が常にもっとも深刻であるからではなく――彼が引き起こす詩的興奮が常にもっとも激越であるからでもなくて――それが常にもっとも非世俗的で、言い換えれば、もっとも高揚感に満ち、もっとも純粋だからであります。彼ほど通俗からかけ離れた詩人はいません。私がこれから読もうとするのは、彼の最新長編詩『王女』に挿入された一篇です。
涙よ わけもない涙よ…
結び
以上、はなはだ粗略かつ不完全ではございますが、「詩の原理」に関する私の考えを、皆さんにお伝えしようと努めてまいりました。私が申し上げたかったのは、この「原理」は厳密かつシンプルに申せば、天上の美に対する人間のあこがれに端を発するものである一方、その地上的顕現は、常に魂の高揚感をともなう興奮のうちに見出だされるのであって、それは心情の陶酔であるところの情熱とも、理性の満足であるところの真実ともまったく無関係なのだということです。情熱について申せば、悲しいかな、情熱は魂を高揚させるどころか、かえってこれの品位を下落させる傾向があるのであります。これに対して恋愛――真正にして神聖なるエロス――すなわちディオネのヴィーナスとは截然と区別されるところのウラニアのヴィーナス――これこそはあらゆる詩的テーマのうちで、もっとも純粋にして真実なものに間違いありません。そして真実について言えば、もし真実に到達することで、われわれがそれまで気づかなかった調和に気づくなら、われわれはそこから直接、詩的効果を体験するでありましょう。とはいえこの効果は調和にのみ由来するものであり、単にこの調和を闡明する上で役に立っただけの真実とは、何の関係もありません。
しかしながら、われわれは詩人のうちに詩的効果を引き起こすいくつかのシンプルな要素に言及するだけで、真の詩とは何かという明確な概念に、より直接に到達することができるでしょう。詩人は空に輝く天体から、渦巻き状の花から、群生する低木から、風にゆれる穀物畑から、東洋の樹木の屈曲から、青く霞むはるかな山並みから、群れ集う雲から、なかば隠れた小川のきらめきから、滔々と流れる大河の輝きから、人里離れた湖のやすらぎから、その水面に星影を宿す寂しい井戸の深みから、自身の詩魂を養う神的栄養の認識を得ます。彼は鳥のさえずりに、風神の竪琴に、夜風の音に、森のざわめきに、打ち寄せる波の音に、新緑の薫りに、菫の花の薫りに、ヒアシンスの肉感的な薫りに――そしてまた、たそがれどき、果てしない海を越えて、はるかなる未知の島々から彼を訪れる不思議な薫りのうちに、詩を感じます。彼はあらゆる高貴な思想に、あらゆる非世俗的な動機に、あらゆる聖なる衝動に、あらゆる騎士道的な、無私無欲の、自己犠牲的な行為のうちに、詩を感じます。彼は女性の美に、その優雅な足取りに、その目の輝きに、その美声に、その優しい笑い声やその溜息に、その上着の衣ずれの音に、詩を感じます。彼は女性の愛情表現に、その熱狂に、その慈しみに、その健気で献身的な忍耐に、詩を感じます。そして何よりも女性の愛の誠実、純粋、力強さ、またその聖なる荘厳に、彼は詩を深く感じ、これに跪座礼拝するものであります。
もう一篇だけ短い詩を読んでおしまいにしたいと思いますが、これはこれまでご紹介した詩とはまったく趣きを異にするもので、マザーウェルの「騎士の歌(The Song of the Cavalier)」と申すものです。戦争は不信心であるとか馬鹿げているとかいった当世風の、とはいえ理に適った考え方は、ここでは暫く措かないと、われわれはこの詩に共感し、この詩の素晴らしさを理解する上で、適切な状態にあるとは言えません。これを充分に鑑賞するには、われわれは心の中で、古の騎士の魂に、みずからを一致合体させなければなりません。
馬に乗れ 馬にまたがれ すべての勇敢な騎士たちよ
そして急いで兜を着けよ
「死」の使いなる「名誉」と「栄光」とが
われらをふたたび戦場へと呼んでいる
剣の柄に手をかけたなら
もはや目に涙は浮かぶまい
われらは潔く出陣する わが国一の美女に対する
一切の未練を断ち切って
おしゃべりな人間や臆病な人間は
泣くがいい 女々しい奴は泣くがいい
われらの務めは男らしく戦い
英雄らしく死ぬことだ!