魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(抄訳)エドガー・アラン・ポー「詩の原理(The Poetic Principle)」(2/4)

トマス・ムーア著『アイリッシュ・メロディ』。トマス・ムーアは19世紀アイルランドの詩人。ウィキメディア・コモンズより。

「教訓詩」の邪説

叙事詩エピック・マニア、すなわち価値のある詩は長くなければならないという考え方は、すでに申し上げた通り、それ自体が矛盾をはらんでいるところから、ここ数年のうちに、巷間における勢いを失ってきたかのごとくですが、これと入れ替わるかたちで、長く許容されるにはあまりにも馬鹿馬鹿しい邪説が現れて、これがすでに経過した短期間のうちに、他の天敵がことごとく一丸となった以上の魔力をもって、わが国の詩壇を破壊してしまいました。私は教訓詩の邪説のことを申すのであります。すべてのの究極の目的は真実であるとの説が、かげ日向ひなたに、直接あるいは間接に、当然のごとく主張されております。いわく、あらゆる詩はすべからく社会倫理に寄与するものでなければならず、この倫理性が、詩を判断する上での基準となるのだ。われわれアメリカ人はこのおめでたい説にとりわけ肩入れしており、分けてもわれわれボストン人は、これを最大限に流布させた、まさに張本人です。われわれの頭脳はこのような偏見にあまりにも汚染されてしまったので、詩を書くのはもっぱら詩のためであり、それのみがわれわれの意図するところなのだと認めることは、あたかも真の詩人としての品位も力量もまったく持ち合わせておりませんと告白するかのごとくであります。だが事実は違います。もしわれわれが虚心坦懐にみずからの魂を顧みるならば、本来のそのもの、以外の何ものでもない、もっぱらのためにだけ書かれた以上に品位ある、気高い詩などこの世には存在しないし、存在するわけもないことが直ちに了解されるのであります。

「天上の美」の探求

なるものについて、私はこれを万人に劣らず深く尊重しながらも、これを広める様態モードをある程度にまで制限いたしましょう。私はこれを強化するために制限するのであって、乱用によって減衰させたくないのです。「真実」の要求には厳格シビアなものがあります。「真実」は快楽に対して何の親和性シンパシーもありません。「ソング」において必要なもののすべては、まさに「真実」のあずかり知らぬものばかりです。「真実」を花や宝石で飾り立てることは、「真実」を見苦しいさらし者とするだけです。「真実」を述べるにあたって、われわれに求められるのは、美しい言葉ではなくて、厳密な用語です。われわれは単純で、正確で、簡潔でなければなりません。冷静で、沈着で、無感情でなければなりません。一言いちごんにして申せば、可能な限り、詩的状態ムードとは正反対状態ムードになければならないのです。この真なるものの教化と、詩的なものの感化との間の極端な、断絶的な差異が認識できない人はいないでしょう。このような差異にもかかわらず、この「詩」「真実」という、水と油とを混ぜ合わせるような行為を試みる人は、度し難い空想家だと私は思います。
精神の世界を、截然せつぜんと区別できる三つの領域に分けるとすれば、それは「純粋知性」「美意識テイスト」「倫理観」となります。「美意識テイスト」が中央に来るのは。これが精神の世界において、まさに中央に位置しているからであります。「美意識テイスト」は「純粋知性」とも「倫理観」とも密接な関係を有しております。特に「倫理観」との区分はあいまいなので、ためにアリストテレスは「美意識テイスト」の作用のうちのいくつかを、美徳のうちに数えるのに躊躇ちゅうちょしなかったほどであります。とはいえ、この三人組トリオの仕事にはそれぞれ明確な区別があります。すなわち「知性」は「真理」にかかわり、「美意識テイスト」は「美」をわれわれに告げ、「倫理観」はわれわれに「義務」を教えます。「徳」について言えば、「良心」は恩義を、「理性」は便宜を、それぞれ説くのに対して、「美意識テイスト」は「徳行」の美的側面をわれわれに提示します。「美意識テイスト」が「悪徳」に対して戦いを挑むのは、もっぱらそのフィット感、適切性、調和性――ひと言で言えば「美」――と対立する違和感、不釣り合い、不整合のゆえであります。
われわれの精神のうちに深くひそんでいる不死の魂の本性が、この美意識テイストであることは自ずと明らかです。美意識テイストは人を取り巻くさまざまな形態や、音響や、香気や、情緒センチメントを通して、人によろこびを与えます。そして湖水に映る白百合のごとく、あるいは鏡に映るアマリリスのごとく、単なる話し言葉や書き言葉によるこれらの形態や、音響や、色彩や、香気や、情緒センチメントの再現再生もまた、よろこびの二重化された源には違いありません。とはいえ単なる再現「詩」ではありません。ただ単に歌をうたう者――それはいかなる熱狂をもって、いかに真に迫った描写力をもって、誰にでもひとしく魅力的な景色や、音や、香りや、色や、情緒センチメントといったものを歌い上げようとも――ただ単に歌うだけでは、彼はまだ「詩人」という神聖なる称号には値しないのであります。そこには彼がまだ到達することのできていない何ものかが、はるかかなたに存在します。われわれはいまだ癒やしがたい渇きを覚えており、彼はまだこれを癒やすべき泉を提示してくれてはおりませぬ。この渇きは人間の不死性に属するものです。これこそ人間の不死の命の帰結であり、指標なのです。それは星影にあこがれる蛾の欲望であります。それはただ単にわれわれの目の前にある美の知覚ではなくして、天上の美に達せんとする狂おしい悪足掻わるあがきなのであります。死後の世界の栄光を、エクスタシーとともに予見しながら、われわれは時間の中にあるもろもろの事物や思想のさまざまな組み合わせによって、その構成要素エレメントはまさに永遠にのみ属するがごときの一端に到達せんとして、悪戦苦闘するのであります。そうしてによって、あるいはもっとも恍惚たる詩的状態ムードであるところの音楽によって、われわれが不覚の涙を流す時、それは決してグラヴィナ先生が言うように「よろこびの過剰」からではなくて*1、われわれが、あるいは音楽を通して、束の間の、不確かな一瞥いちべつにしか達し得ないあの聖なるエクスタシーを、この下界においては、直ちにわがものとすることができないばかりか、永遠に手に入れることができない、そのたまらないれったさから、われわれは涙を流すのであります。この天上の美を捕えようとする戦いは、それにふさわしく熟練した魂たちの戦いですが、この戦いが、世界に対して、万人が直ちに詩的であると感じ、理解するすべてのものを付与してきたのです。

「詩」は韻律による「美」の創造

詩的情緒センチメントと申すものは、言うまでもなく、さまざまな様態モードを取ることができます。絵画や、彫刻や、建築や、舞踊や――とりわけ音楽ですが、視野を広げれば、きわめて特異な例として、造園術にもそれは展開され得ます。とはいえわれわれの目下のテーマは、もっぱらこれの言葉による実現マニフェステーションですね。ここでひと言だけ、韻律リズムについて述べさせて下さい。歩格ミーターや、韻律リズムや、脚韻ライムなど、さまざまな様態モードをまとった音楽は、詩において、これをしりぞけることは無謀と思われるほど重要だと確信するこの私――これが死活に関わるほど重要な装飾であるがゆえに、これの助力を仰がない詩人は駄目だと確信するこの私は、詩には音楽性が絶対に必要不可欠だと、ためらうことなく主張します。詩的情緒センチメントに触発された魂が、天上の美の創造という偉大なゴールにもっとも近づくのは、おそらく音楽を通じてだからです。この荘厳なるゴールは、時として、本当に達成されることがあります。われわれはしばしば、下界の竪琴から発せられる天界の調べに、感激をもって聴き入るのです。このように、普通の意味での詩と音楽との融合のうちに、詩の発展のもっとも広大な領域が見出されるであろうことは、疑いの余地がありません。昔の吟遊詩人バードたちや騎士歌人ミンネジンガーたちは、今のわれわれが持ち合わせていない強みを持っていたわけです。とはいえ現代においても、たとえばトマス・ムーアは、自作の詩を歌謡化することによって、もっとも正統的な方法で詩を完成させております。
まとめと致しまして、私は詩というものを、簡潔に、韻律リズムによる美の創造と定義したいと思います。その唯一の審判者は美意識テイストです。知性とも良心とも付随的な関係しか持っておりません。何か偶発的な事情がない限り、義務とも真実とも、一切関係がありません。

「詩」の本分は「美」

ここで少し補足します。もっとも純粋で、もっとも高揚的で、もっとも激越な詩的快感は、美しいものを静かに思うことからじかに得られます。美の観照によってのみ、われわれは詩的情緒センチメントとはっきり感得できるところのあの魂の快い興奮、もしくは高揚感に達することができるので、それは理性の満足であるところの真実や、心情の興奮であるところの情熱とは本質的に異なるものです。それゆえ私はを――ここでは「荘厳なるもの」をも含めてと呼びます――私はこのというものを詩の本分と致します。これは原因と結果エフェクトとは可能な限り直結していなければならないという、芸術の自明な掟に従ったまでで、なぜならくだんの特異な高揚感が、少なくとももっとも容易に達成されるのはによってであり、さすがにこれを否定するほど愚かな者はいまだ世に現れてはいないからであります。だからといって、情熱の鼓舞や、義務の戒めや、真実の教訓さえも、詩のうちに導入して何の益もないと言うのではない。それらは時と場合によっては、さまざまな面から、の主たる目的に貢献してくれるかも知れないからです。とはいえ真の芸術家は、詩の雰囲気であり、詩の本当の精髄エッセンスであるところのに対して適切に従属するよう、これらをいつも巧みにトーンダウンさせるものなのです。

*1:ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・グラヴィナ『詩的理性について』第一巻。