魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(抄訳)エドガー・アラン・ポー「詩の原理(The Poetic Principle)」(1/4)

フランソワ・アドルフ・ブルノー・オーディブラン「獄中のド・ベランジェ」。ド・ベランジェは19世紀前半に活躍したフランスの詩人。ウィキメディア・コモンズより。

この「詩の原理」と題されたエッセイ風の文章は、エドガー・アラン・ポーが最晩年の1848年12月から1849年9月にかけて、アメリカ合衆国東部の数ヶ所で行なった講演の原稿とおぼしきもので、ポーの死後、遺稿が発見され、公表されました。1848年2月に行なわれた宇宙論ユリイカ」の講演では、聴衆の数も少なく、世評もさんざんで、ポーはさぞかし無念だったでしょうが、この「詩の原理」の講演では、比較的多くの人が集まり、反応も概して好意的だったようで、(最期の時が刻々と近づいていた)詩人はいささか溜飲を下げたことであろうと察せられます。四回に分けて訳出します。原文はこちら

詩の長さについて

「詩の原理」についてお話しするにあたって、私は綿密であろうとも、深遠であろうとも意図してはおりませぬ。われわれが「詩」と呼ぶものの本質について、思いつくままにお話ししながら、私の主たる目的は、私自身の好みにぴったりと合った、あるいは私自身の心にきわめて強い印象を残した、そんな英米の小詩篇のいくつかを、ご参考までにご紹介することであります。今「小詩篇」と申しましたが、これは言うまでもなく、短い詩のことです。ここで、まだお話は始まったばかりですが、私自身が詩を評価する上で、正しいにせよ正しくないにせよ、常に影響を与えてきたある特異な原則について、ひと言述べさせて下さい。私は「長い詩」というものは存在しないと思います。「長い詩」という言い回しには、言葉の使い方自体に矛盾が含まれているように思うのです。
一篇の詩が「詩」の名に値するのは、それが魂を興奮させ、高揚させる限りにおいてであることは、申すまでもありますまい。詩の価値はこの高揚感に比例するのであります。だがすべての興奮は、心理的必然により、一時的なものです。一篇の詩を「詩」たらしめる興奮の程度は、長時間にわたる読書を通じて、とても維持できるものではありません。三十分も経って、興奮が絶頂を過ぎてしまえば、あとは下り坂で、やがて反動が生じますので、その時点でこの詩篇なるものは効果の点でも、事実としても、「詩」とは呼べないものとなります。
たとえばミルトンの『失楽園』について、これが最初から最後まで絶賛されるべきだとする定説と、この定説が要求するような熱狂の総量を、これを読んでいる間じゅう維持することのまったくの不可能性。この二つの折り合いをつけるにはどうしたらいいか、疑問に感じた人は少なくないでしょう。この大作は、実を言えば、あらゆる芸術作品における死活に関わる必須要素、すなわち首尾一貫性というものを度外視して、ただ単に小詩篇の一連作シリーズと解した場合にのみ、「詩」と見なし得るものなのであります。もしこの首尾一貫性――作品の効果あるいは印象における統一性――を保持すべく、この作品を(要求どおり)一気に読み終えたとするならば、その結果は気分の高まりと落ち込みとの絶え間ない入れ替わりに過ぎなくなります。われわれが真の「詩」を感じる一節の後には、必然的に、「定説」が何を前もって吹き込もうと、われわれにはとても感心できない平板な一節が続くのであります。ところが、一度全巻を読み終えてから、これを第一巻を飛ばして、第二巻から再読してごらんなさい。われわれは、前につまらないと思った箇所に感動し、前に感動した箇所に何ら心動かされないことで、びっくりさせられるでありましょう。ここから以下のことが結論できます。すなわち、この世における最大の叙事詩といえども、その詩的効果を合算した総合計は、突き詰めて言えば、ゼロに等しい。これが紛れもない事実なのです。
イリアス』に関しては、われわれはこれを叙事詩ではなく、抒情歌リリック>)連作シリーズとして創作されたと信ずべき確たる証拠、とまではいかなくとも、少なくとも充分な根拠があります。とはいえ、そこに叙事詩的意図を認めるなら、これは芸術に対する未熟な考え方を基礎ベースとした作品だと言わざるを得ません。近代の叙事詩はといえば、こちらは想像上の古代の叙事詩をモデルにしたもので、うわつらだけの、浅はかな模造品イミテーションに過ぎません。しかしこのような芸術的変則の時代は終わりました。もしもかつて、いつの世にか、本当に長い詩が流行した時代があったとしても(それは疑わしいが)、少なくとも、そんな時代がもう二度と来ないことは明らかです。
その反面、詩が短すぎてもいけないことは当然ですね。不当に短い詩は単なるエピグラムに堕してしまう。あまりにも短い詩は、時として強烈で衝撃的な効果を上げることもあるけれども、深刻かつ持続的な効果を産み出すことは決してない。蝋印はしっかりとさなければなりません。ド・ベランジェは、刺激的で気の利いた短詩を数多く物しましたが、それらは概して読者の心に深く残るには軽すぎて、あたかも空想ファンシーのおびただしい羽毛のごとく、流れる風に舞い上がり、吹き飛ばされてしまったのであります。
これから読む美しい小夜曲は、不当な短さが、いかに詩の価値を下げ、これを一般の評価外とするかの著しい例を提供してくれるものです。

私はあなたの夢から目覚める…

この詩をご存じの方は少ないだろうと思いますが、作者は誰あろう、あのシェリーなのであります。ここに表現された熱烈にして繊細な恍惚感は、万人に理解可能でしょうが、これを完全に鑑賞できるのは、やはり実際に恋人の夢から覚めて、南国のかぐわしい夜気の中を歩いた経験のある方だけでしょうね。