以下に訳出したのはポーが遺したエッセイの中でも特に有名なものです。テキストは『グラハムズ・マガジン』1846年4月号に掲載されたヴァージョンに拠っております。読みやすいよう、英詩の韻律法に関するいささか専門的なパラグラフを割愛しております。(2022年1月)
- うしろから書く
- 自作の制作過程を語る
- 長い詩は不可
- 詩の本領は「美」
- 哀調は詩のもっとも正統的なトーン
- リフレインについて
- もっとも詩的な話題は「美しい女性の死」
- クライマックスを先に書く
- 場所の設定
- 「大鴉」の登場
- 「決して癒されることのない悲しみの記憶」の象徴
うしろから書く
チャールズ・ディケンズは、いま私の目の前にある私信の中で、私がかつて彼の『バーナビー・ラッジ』のからくりについて行なった分析に触れて、こう書いている。「ところで貴殿はウィリアム・ゴドウィンが『ケイレブ・ウィリアムズ』をうしろから書いたことをご存じかな?彼はまず第二巻を書いて、主人公をもろもろの困難に陥れ、それから第一巻を書いて、のちに起こったことの説明がつくようなある状態を彼に振ったのですよ」
私にはこれがゴドウィンの段取りの正確な様態だったとは思われない。また事実、ゴドウィン自身が書き遺していることは、ディケンズ氏の考えとは必ずしも一致していない。とはいえ『ケイレブ・ウィリアムズ』の著者は優れたアーティストだったので、それに幾分なりとも似た過程から得られる利点には充分気がついていた。あらゆる筋書きは、それが筋書きの名に値するものなら、まず執筆が緒に就く以前に、結末に向かって千磨百煉されていなければならない。常に結末を視野に入れていればこそ、われわれはあらゆるポイントにおいて事件や、特に語り口を作意の展開に貢献させながら、筋書きに対して結果的、あるいは因果律的に必然だという印象を与えることができるのである。
自作の制作過程を語る
私見では、人が小説を書く通常の様態には、根本的な誤りがある。題材を歴史に仰ぐか、日常の出来事から採るか、でなければ作家はせいぜい人目を惹きそうな事件を組み合わせることで自分の物語の基礎だけを作り、全ページで事実や行為の間に姿を現わすあらゆる裂け目を、描写や、会話文や、自分の考えをコメントすることで埋めてゆくつもりでいる。
私ならます効果を考える。独創性を常に視野に入れながら――なぜならこれほど自明で簡単に手に入る関心の源について、なしで済ませてやろうなどと考える者は自分に正直ではないのだから――私はまず自分に問う。「心や、知性や、あるいは(もっと一般的に)魂にとって、感受可能な無数の効果や印象の中で、今の場合、どれを選ぶべきか?」第一に斬新な、第二に鮮烈な効果を選びながら、私はそれがどのような事件と語り口によって一番上手に創作し得るか――通常の事件と異常な語り口か、異常な事件と通常の語り口か、それとも異常な事件と異常な語り口か――を考え、それからさような効果を構築する上で一番役に立ってくれそうな事件と語り口との組み合わせを自分の周囲に(というよりも、自分の内部に)探し求める。
私は、誰でもいいが、誰か作家が、彼のどの作品でも、それが完成に至るまでの過程を逐一詳述したら、というか、詳述できたとしたら、どんなに面白い雑誌記事ができるだろうか、と考えることがよくある。そんな記事がまだ世に現れたためしがないのは何故なのか、説明に困るが、おそらく多く関係しているのは他の原因よりも作家の虚栄心だろう。ほとんどのライター、特に詩人は、何か美しい狂気というか、忘我的な直観に駆られて書いたと思われたがるので、一般の読者が楽屋裏をのぞき込んで、推敲を重ねてもまとまらない考えや、最後の瞬間にしか捉えられない真の目的や、全貌を拝むまでに到らなかった無数の瞥見や、手に負えぬとして破棄された華麗な幻想や、注意深い取捨選択や、つらい削除訂正や――要するに、大歯車や小歯車、場面転換のための滑車、ステップ・ラダーやデーモン・トラップ、雄鶏の羽根や赤絵の具や付け黒子など、文学的俳優の舞台道具の九分九厘を盗み見られることに、確実に震え上がるものである。
他方、一人の著者に、その作品を書き上げるまでの道程を引き返す用意があることはむしろ稀である。一般に、思いつきは、雑然と生成され、追求され、忘却される。
私はと言えば、上に述べたような嫌悪感に対して何の共感も覚えないし、自分の全作品の制作過程を思い出す上で常に何の困難も感じない。私がいま要求課題と見なした分析もしくは再構築の面白さは、分析の対象となる作品が実際に持っている、もしくは持っていると想像されているどんな面白さからも独立しているのだから、私がここで自作をまとめ上げた作業方法を公開したとしても失礼には当たるまい。広く知られている例として「大鴉」を採ろう。私の意図は、この作品の制作過程におけるいかなる点も偶然や直観には帰せられぬこと、この作品は数学の一問題を解くような正確さと緻密な帰結をもって、一歩ずつ完成へと近づいていったのだということを明らかにすることである。
大衆的な嗜好と手厳しい読者の鑑識眼との双方に同時に適うような詩を書こうという企てを抱くに到ったそもそもの事情というか、必要については、それ自体は、詩とは無関係なので、忘れよう。
では、企てを進めよう。
長い詩は不可
最初に考えたのは長さのことだった。どんな文学作品でも、それが長すぎて一回の読書で読み切れないなら、われわれは印象の統一から導き出し得る無限に重要な効果なしで済ますことに甘んじなければならない。なぜなら、もし二回に分けて読まなければならないとすれば、雑念が介入して、総合性のようなものはすべて一気に破壊されてしまうからだ。とはいえ、他の条件が同じならば、自分の意図を推進させるかも知れないどんなものであっても、それを利用しないで済ませるだけの余裕のある詩人などいないのだから、統一感の喪失に見合うどんな利点が詩の長さにあるのかわからないが、私に言わせれば、そんなものはない。われわれが長い詩と呼んでいるものは、実を言えば、短い詩の連続、つまりは短い詩的効果の連続に過ぎない。一篇の詩は、それが高揚感によって魂を激しく興奮させる限りにおいてのみ詩なので、これは論証を要しない。そうしてあらゆる激しい興奮は、心理的必然により、短時間のものだ。このような理由で『失楽園』の少なくとも半分は本質的に散文で、詩的高揚感と、これに不可避的に照応する意気消沈との一連の点在であり、その全体は、あまりに長いため、総合性、あるいは効果の統一(unity of effect)という非常に重要な芸術的要素を剥ぎ取られている。
というわけで、あらゆる文学作品には、長さの点で、明確な限度があることは明らかで、それは一回の読書で読める長さであり、たとえば『ロビンソン・クルーソー』のような(統一を必要としない)散文作品の諸形式においては、この限度を超えるのも有益かも知れないが、詩の場合はこれを超えるのは決して適切ではない。この限度内にある時、一篇の詩の長さはその価値と――言い換えればその興奮や高揚感と――さらに言い換えればそれが誘発し得る真の詩的効果の程度と数学的関係を持つ。なぜなら詩の簡潔さはその意図された効果の熾烈さと正比例するに違いないからだ。もっともそこには一つの条件があって、何らかの効果の産出のためには、一定の持続がどうしても必要なのだが。
以上のような考察と同時に、俗受けする品質を上回らず、なおかつ批判に耐える品質を下回らない程度の興奮を視野に入れながら、私は意図する詩の適切な長さと思われるものに直ちにたどり着いた。それは約100行の長さで、「大鴉」は事実、108行だ。
詩の本領は「美」
次に考えたのは伝達すべき印象、あるいは効果の選択についてだった。そこでもう一度言うが、私はこの作品の制作過程全体を通じて、これを普遍的に評価されるものとするという意図を堅持していた。もし私がここでこれまで繰り返し主張してきた点、詩に関しては自明の理でまったく論証の必要などない点について論証すべきだとすれば、私は当面の話題からはなはだしく逸脱してしまうことになるだろう。それは詩の唯一の正統的な領分は「美」だという点である。
とはいえ、私の真意をはっきりさせるためにここでひと言述べておくのは、私の友人たちのうちにもこれを誤って伝える傾向を示している者がいるからである。もっとも激しく、もっとも高揚的であると同時にもっとも純粋な快楽は、美しいものを静かに想うことにある。人は「美」について語る時、実は想像されるように性質について語っているのではなく、正確には効果について語っている。すなわち人は知性でも心でもなく、ただただ魂の激しくて純粋な高揚感に言及しているのであって、それは今指摘したように、「美しいもの」を静かに想った結果として経験されるものなのである。私が今「美」をもって詩の領分とするのは、ただただ結果というものはその直接の原因から生ずるべきであり、目的はその達成に最適な手段をもって達成されるべきであるというのが「芸術」の自明な法則だからで、この今言ったような特異な高揚感が詩によってこそもっともたやすく達成されることを否定するほど阿呆な人間はまだ一人もいない。知性の満足であるところの「真実」、あるいは心の興奮であるところの「情熱」は、詩においても一定程度までは達成可能だが、散文においての方がはるかにたやすく達成される。事実、「真実」という目的はその達成にある正確さを要求し、「情熱」はある飾り気のなさを要求する(真に情熱的な人間には私の言うことがわかるはず)が、これらは魂の興奮、あるいは快い高揚であるところの「美」とはまったく敵対的なものなのである。だからといって、情熱や、真実さえも、詩に導入されてはならないことにはならず、それどころか有利に導入され得るので、それはそれらが対照によって、音楽における不協和音のごとく、全体の効果を闡明したり、助けたりするかも知れないからだ。とはいえ真のアーティストは第一に、それらを主たる目的に対して適切に従属するよう調整し、第二に、それらを可能な限り、詩の雰囲気であり本質であるところの「美」のうちに包み込まれるよう、常に工夫するものである。
哀調は詩のもっとも正統的なトーン
それでは「美」を私の領分とするとして、次の問題はこれの最高度の実現のための調子の選択で、それが悲哀の調子であることはあらゆる経験が示していた。いかなる種類の美も、その極限の展開においては、必ずやこれを感受する者の心を涙へと誘うものだ。哀調はあらゆる詩的調子の中でもっとも正統的なものである。
リフレインについて
長さ、領分、調子がこうして決まったので、私は今度は詩を組み立てる上での基調となるような何かアーティスティックな刺激物――詩全体の構造がそれを基として旋回する何か軸のようなものが欲しいと思って、平凡な帰納法へとおもむいた。通常のアーティスティックな効果――もっと適切に言えば、演劇的な意味での決め手――のすべてを注意深く考慮してみて、リフレインほど普遍的に採用されているものは他にはないことにすぐに気がついた。それが普遍的に採用されていることで、その内在的価値は裏打ちされており、分析にかける手間が省けた。それでも何か改善の余地はないかと疑った時、私はそれが原始的な状態にあることに直ちに気づいたのである。リフレインの通常の使用は、ただ歌曲の歌詞に限定されているだけでなく、その印象の強さは、音と思想の双方における単調性に依拠している。快感はもっぱらその同一性、すなわち反復の感覚から演繹されている。そこで私は全体として音の単調さは維持しながら、思想に絶えず変化をつけることで、効果を多様化し、また高めようと決めた。すなわちリフレイン自体はほとんどの部分で不変のまま、その適用の仕方を変化させることで、不断に斬新な効果を生み出そうと決めたのである。
以上の点が決まったので、次にこのリフレインの性質について考えた。その適用の仕方を繰り返し変化させるならば、それが短いものでなければならないことは明らかだ。なぜなら長い文の適用の仕方に度重なる変化を加えることには無理があるので、簡潔さは、言うまでもなく、多様化の容易さと比例している。そこからベストなリフレインは一語だということがすぐにわかった。
そこで今度はその語の性格が問題となった。リフレインを使うと決めたからには、詩を詩節に分けることは必然の帰結で、リフレインは各詩節の結語となる。さような結語が力を持つためには、その語が響きがよくて、長い強勢を置くことができるものでなければならないことは確実で、それでもっとも響きのよい母音としての長音「o」が、もっとも生成しやすい子音の「r」とくっついた形の「or」の音が必然的に頭に浮かんだ。
リフレインの音がこうして決まったので、今度はこの音を具体化する語で、しかも私が先に詩の調子として決定した哀調と最大限に調和した語を選択することが必要となった。そのような検索において、「もう二度とない(nevermore)」という語を見落とすことは絶対に不可能だ。事実、それが真っ先に頭に浮かんだ語だった。
次なる必要課題はこの「もう二度とない」という語の立て続けの使用のための口実だった。この語の立て続けの反復のためのもっともらしい充分な理由を発明するのが困難なことはすぐにわかったが、よく考えると、この困難はもっぱらこの語が人間によって続けて単調に発せられるという大前提から来るのであって、言い換えればこの困難はこの単調さと、この語を繰り返す者の理性の活動との間の齟齬に存するのだった。そこで私は理性を持たなくてなおかつ人語を能くする動物に思い及んで、オウムがまずごく自然に頭に浮かんだが、同様に人語を能くして、なおかつはるかによく哀調と調和する「大鴉」がすぐさま取って代わった。
もっとも詩的な話題は「美しい女性の死」
ここまでで私は約100行の哀調の詩の全詩節の末尾で「もう二度とない」という一つの語を単調に復唱する凶兆の鳥「大鴉」という概念に到達した。そこであらゆる点での絶妙もしくは完璧という目標を念頭に、私は自問自答した。「あらゆる悲しい話題中、人類の普遍的共通認識として、もっとも悲しい話題とは何か?」答えが「死」であることはわかり切っている。「それではこれがもっとも詩的な話題となるのはどんな時か?」すでにいくらか説明してきたところから、この答えもわかり切っている。「それは死と美とが分かちがたく結合された時だ。すなわち美しい女性の死こそこの世でもっとも詩的な話題で、さような話題は彼女を喪った彼氏の口から語られるのが最適であることも同じく疑う余地がない」
クライマックスを先に書く
ここで私は彼女の死を嘆く彼氏と、「もう二度とない」という言葉を絶えず繰り返す「大鴉」という二つの観念を結合させなければならなくなった。しかもこの「もう二度とない」が復唱されるたびに、その適用の仕方に変化をつけるという私の意図をも忘れることなく結合させねばならないのだが、さような結合の様態としては、「大鴉」が彼氏の質問に対してその語をもって答えるところを想像するのが唯一のわかりやすい様態である。ここで私は自分がずっと望みをかけてきた効果、すなわち適用の仕方の多様化による効果の実現に向けて、機会が提供されたことを直ちに悟ったのであった。私は彼氏が投げかける第一の質問――「大鴉」が「もう二度とない」と答える最初の質問――を全然無意味なものにし、第二の質問を少し意味のあるものに、第三のものをもう少し意味のあるものに、という風にして続けてゆく。すると遂にはこの「もう二度とない」という言葉の悲しい性格や、それが何度も繰り返されることや、この「大鴉」という鳥の不吉な評判に関する考慮やによってぎょっとさせられた彼氏が、それまでの無関心な態度を保てなくなり、果ては迷信的になるまでに興奮して、まったく違った性格の質問を狂おしく投げかけるようになる。彼はその質問の答えを心の底では痛切に知っているにもかかわらず――なかば迷信から、なかば自虐をよろこぶ種類の自暴自棄から――それは「大鴉」の予言的もしくは悪魔的性格を本気で信じているからでは必ずしもなくて(鳥が棒暗記した課題を復唱しているに過ぎないことは頭ではわかっている)、期待された「もう二度とない」との返事から、もっとも耐え難いがゆえにもっとも甘美な哀感を受け取ろうとして、繰り返し質問を発することに狂った快楽を経験するからである。このように私に提供された機会、もっと厳密に言えば、この詩の制作過程において私に強制された機会を認識して、私はまずクライマックスもしくは最後の質問を心の中で決定した。すなわちそれに対する「もう二度とない」が最後の「もう二度とない」となるような質問――それに対する返答としてのこの「もう二度とない」が想像し得る限りの最大量の悲哀と絶望とを含有する、そんな質問である。
このようにして、この詩は終わりから、すなわちすべての芸術作品が始まるべきところから始まった。なぜなら私は以上のことをあらかじめ考え抜いたこの時点で初めて筆を執って、以下の一節を書いたのだから。
「預言者よ 邪悪な者よ 鳥か魔物か なお預言者よ
我らの頭上なる『天』にかけて 我らがともに崇める『神』にかけて問う
手傷を負ったこの魂は せめて彼岸の浄土において
聖少女レノアの霊を 天使らがレノアと呼んだ
絶世の美貌の処女の魂を 抱くであろうか」
大鴉は答えた「もう二度とない」
この時点でこの節を先に書いたのは、まず第一に、クライマックスを先に設定することで、これに先立つ彼氏の「大鴉」に対する質問を、深刻さや重要性の点で、調整しやすいようにしておくということと、第二に詩節のリズムや、歩格や、長さや、全体的な韻の配列を先に決めておくことで、これに先行するもろもろの節を、そのリズミカルな効果において、クライマックスを上回らないよう調整したかったからである。たとえ続く制作過程において、これを上回る力強い節が出来てしまったとしても、私はためらわずその調子をわざと落として、クライマックスの効果を妨げないようにすべきなのだった。
この辺で韻律構成について少し述べておくのがいいかも知れない。私の第一目標は(通常通り)独創性だった。この韻律構成の分野において、独創性がどれほどないがしろにされてきたかは世界の不思議中の不思議の一つである。単なるリズムそれ自体には変化をつける余地はほとんどないことは認めるにしても、それでも歩格や詩節の多様化の可能性はまったく無限であることは明らかだ。にもかかわらず、韻文においては、幾世紀にもわたって、独創的なことを成し遂げた者はいないばかりか、考えた者さえいないように見える。実際のところ、独創性は(異常な力に恵まれた精神における場合は別として)一部の者が想像するように、直感や衝動の問題では断じてない。一般に、独創性とは、これを見出すためには丹念に探し求めなければならないもので、最高級の肯定的な価値であるにもかかわらず、その獲得に必要とされるのは発明力よりもむしろ否定力である。
場所の設定
次に考慮すべきだったのは彼氏と「大鴉」との接点の様態で、その考慮の最初の分かれ道が場所の設定だった。これについて、最も自然に頭に浮かぶのは森か野原だと思われるかも知れないが、孤立した事件の効果を出すためには、厳しく空間を仕切ることが絶対に必要だと私はいつも思っている。それは絵に対する額縁の力を持つ。それは注意力を集中させる上で確実に効果的で、もちろん、単なる「場所の統一」と混同されてはならない。
それで私は彼氏をその自室、すなわち彼女がたびたび来てくれた思い出によって彼にとっては神聖なものとなっている彼の自室に置くことに決めた。その部屋は華麗に装飾されており、それはすでに説明した通り、詩の唯一の真のテーマは「美」なので、その考えに従ったまでである。
「大鴉」の登場
場所の設定が決まったので、今度は鳥を登場させなければならず、それは部屋の窓からしかないと思った。最初、彼氏が「大鴉」の羽根が雨戸に当たる音をドアをノックする音だと錯覚するという着想の由って来たるところは、一つは間を取ることで読者の好奇心を募らせたかったのと、もう一つは彼氏がドアを開けてみると暗闇以外に何もないので、ノックしたのは彼女の亡霊だったのかとの半空想を抱くという付随的効果を容認したかったからである。
嵐の夜という設定にしたのは、第一に「大鴉」に入室を求めさせるためと、第二に室内の(物理的な)静けさとの対照の効果のためだった。
鳥を「パラスの胸像」の上に止まらせたのも、大理石の色と「大鴉」の羽根の色との対照の効果のためだった。「胸像」の語が出たのはただただ「鳥」からの連想による。「パラスの胸像」を選んだのは彼氏の博学多識との釣り合いを保ちたいのが一つと、もう一つは「パラス」という語それ自体が響きがいいからだった。
詩の中ほどで、私は同様に、結末の印象を強める狙いから、対照の効果を利用した。たとえば「大鴉」の入室は、許される限り滑稽に近い調子で、諧謔的に歌われる。鳥は「ばたばたと鼓翼きながら」やってくる。
おおよそ遠慮会釈なく またひとときも留まらず
勿体ぶった物腰で 部屋の扉の上に来た
続く二つの節では、この意図はより明白に押し出されている。
黒装束のこの鳥の 真面目くさった堅物らしい
渋面を見て 気が紛れ つい微笑んだわたくしは
「頭は剃っているものの 名だたる猛者に違いあるまい
『夜』の国から訪れた 昔ながらの大鴉よ
『夜』の世界の三途の川辺における名を何と言う」
大鴉は答えた「もう二度とない」
驚いたのは この鳥がはっきり物を言ったから
無意味で筋の通らない返事のような気もしたが
おおよそ鳥でも獣でも「二度とない」氏というような
変な名前の生き物を 自分の部屋のドアの上
像の真上に見たという世に有り難き幸せ者は
たぶんわたくしだけだから
このように結末の効果に向けて準備しながら、私は諧謔的な調子をただちにもっとも深刻に真面目なものへと変化させた。それは上に引いた節にすぐに続く節から始まる。その初行――
「とはいえ彼はじっとして 吐いたのはその一語のみ」云々
この時点から彼氏はもはや冗談を言わず、「大鴉」の様子に何ら諧謔的なものを認めない。彼は「大鴉」を「この真っ黒で見苦しい、昔ながらの不吉な鳥」と呼び、「その眼光」が自分の「心の芯」に焼き付くのを覚える。彼氏の側のこの想いもしくは気分の激変は、読者の側でも同じものが誘発されて、今や可能な限り迅速かつダイレクトに到来しようとしている結末の枠組みに対する適切な心の準備がなされることを意図したものである。
「決して癒されることのない悲しみの記憶」の象徴
この妥当な結末、すなわち彼氏から最後に「あの世でもう一度彼女に会えるかしらん」と尋ねられた「大鴉」が「もう二度と会えませんよ」と答えたところをもって、この詩はその明白な相、すなわちシンプルな物語としては、終わったと言っていいだろう。ここまではすべてが説明の付くものの範囲内、現実の範囲内だ。「もう二度とない」という言葉を棒暗記した一羽の「大鴉」が、その所有者の管理下を逃れ、嵐の夜をさまよった挙句、まだ灯りが点いている部屋の窓から入室を求める。それは読書にふけりながら、亡き彼女のことを忘れられないでいる学究の部屋の窓だ。鳥は、翼をバタバタさせることで開け放たれた窓から入ってくると、部屋の主人の手が届かなくて非常に好都合な席に落ち着く。この突発事と鳥の様子がけったいなのとで愉快な気分になった学究は、戯れに、何の返答も期待せずに、鳥に名前を尋ねる。話しかけられた「大鴉」はいつものように「もう二度とない」と答えるが、この返事は学究の切ない心に直接の反響を呼びさまし、彼がこれによって頭に浮かんだ考えを口にすると、鳥はまたしても「もう二度とない」と答えるのでびっくりする。学究は今は状況を理解するが、既に説明したように、自虐への人間的渇望から、また部分的には迷信から、「もう二度とない」という予期された回答を通して、悲哀の快感の最たるものを彼にもたらすような質問を鳥に投げかけることを強いられる。物語は、この自虐に対する極限までの耽溺をもって、私が先に第一の明白な相と呼んだ段階においては、当然の終局を迎える。ここまでは現実の範囲内を一歩も出ていない。
ところがいかに題材が巧妙に処理され、いかに一連の出来事が鮮烈であろうとも、このままではアーティストの目に障るようなある種の生硬さ、もしくは露骨さが必ず存在する。二つのものが常に求められる。一つは一定量の複雑性――もっと適切に言えば、曖昧さの付与。もう一つは一定量の暗示性、すなわちいかに微妙なものであるとしても、何らかの裏の意味を隠し持っていることだ。特に後者は芸術作品に濃厚な風味(口語から力強い表現を借りるならば)を与えるもので、われわれはこれをとかく絶妙味と混同したがるのである。この裏の意味がありあまって、これが文脈の裏面にとどまらず、表面に出すぎるから、いわゆる超絶主義者たちの詩なるものは(もっとも平板な種類の)散文に堕するのだ。
このような見解を胸に、私は最後の二節をあとから付け足した。その暗示性は、それまでの話の展開すべてに影響を及ぼす。文脈の裏を流れる意味は以下の行で初めて表に現れる。
「わが胸の急所よりその嘴を抜き わが部屋の扉よりその醜貌を消せ」
大鴉は答えた「もう二度とない」
この「わが胸の急所」というのはこの詩における最初の隠喩的表現で、この言い回しと「もう二度とない」という返答とで、読者はここまでの話の展開に何か裏の意味があるような気がしてくる。読者はここで「大鴉」を何かしら暗示的なものと見なし始める。とはいえ「大鴉」が「決して癒されることのない悲しみの記憶」の象徴であることは、最終節の最終行に到って初めて明らかにされる仕組みになっている。
そうして鳥は鼓翼かず わたくしの部屋のドアの上
パラスの白い胸像の上に 今なお留まっている
夢を見ている魔神の目のような目を光らせて
灯に照らされたその影は床を漂い 今もなお
床を漂うその暗い影の中から このわたくしの
魂の再起せんこと もう二度とない!