魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(抄訳)エドガー・アラン・ポー「マリー・ロジェの謎(The Mystery of Marie Roget)」(その五)

ジョージ・フレデリック・ワッツ「水死体」。ウィキメディア・コモンズより。

死体は浮かぶか?沈むか?

「あらゆる経験の示すところによれば、溺死体、もしくは不慮の死を遂げてすぐ水中に投げ込まれた死体は、水面に浮上するほど充分に腐敗するまでに、六日ないし十日を要するのである。沈んでせいぜい五、六日の死体が、カノン砲の砲撃を受けて浮かんでくることはあるが、そのままにしておけばふたたび沈む」

「この『レトワール』紙の主張は、パリのあらゆる新聞から暗黙のうちに承認されて、ただ『ル・モニトゥール』紙だけが違っている。『ル・モニトゥール』紙は、これの『溺死体』に関する部分だけを批判して、溺死体が『レトワール』紙の主張よりも短時間で浮上した五、六の例を挙げている。だがこの批判には非常に非哲学的なところがあって、それは『レトワール』紙の主張に反する特異な例を挙げることで、これの一般的な主張を難じている点である。死体が二、三日後に浮上した五十の例を挙げることができたところで、『レトワール』紙の法則そのものを論破しない限り、この五十の例は法則に対する例外と見なされるだけだ。法則を認める限り(『ル・モニトゥール』は例外の存在を主張するだけで、法則そのものは否定していない)、『レトワール』紙の主張は有効なのである。なぜならこの主張は、死体が三日以内に水面へと浮上するかどうかの確率の問題に過ぎないだからだ。そうしてこの確率は、かくも幼稚に提示された反証が、正反対の法則を確立するに足る数にのぼるまで、『レトワール』紙の側に有利に働く。
「だから『レトワール』紙に反論するなら、法則そのものを論破しなければならない。そのためには、この法則の根拠を吟味する必要がある。さて人体は、一般に、セーヌ川の水よりもそれほど重くもなければ軽くもない。すなわち人体の比重は、自然な条件下では、淡水の比重とほぼ等しい。一般に、女性の肉体は、男性のものよりも比重が軽く、肥満した、骨細ほねぼその人の肉体は、筋肉質で、骨太の人のものよりも比重が軽い。一方、河水の比重は、潮の満ち干の影響で多少変動する。だが潮の影響は別として、たとえ淡水中でも、人体が自重だけで沈む可能性はきわめて低い。川に落ちた人は、水の比重を、自分自身の比重と釣り合わせることができれば、まず誰でも、水面に浮かぶことが可能だ。これはつまり全身を、できるだけまんべんなく、水に浸すことができれば、という意味だ。あごをしっかり引いて、鼻と口だけを上に出して、地上の歩行者の直立姿勢で、全身を水に浸すのが、泳げない人にとっての適切な姿勢だ。この状態だと、われわれは何もしないでも浮いていられる。だが言うまでもなく、人体の比重と水の比重はほぼ同一だから、些細なことでバランスが狂う。たとえば片手を上げると、その分、浮力が減って、重さが加わり、頭部がすべて水につかる。一方、ほんの小さな板切れにでもつかまることができれば、われわれは首をもたげて、まわりを見ることができる。さて、泳ぎ慣れていない人がじたばたする際には、両手は常に水面上へと投げ出される上に、頭部を通常の垂直姿勢に保とうとする試みがなされる。その結果、鼻と口とは水につかり、水面下で呼吸しようと努力するうちに、水が肺へと流入する。同様に、胃へも大量の水が流入して、これらのキャビティを膨張させていた空気の重量と、今これらを満たしている液体の重量との差異によって、全身の重量が増加する。この差異によって、溺死体は、原則として沈む。だがこれは骨細ほねぼそで、病的なほど肥満した、柔弱にゅうじゃくな人たちをも沈めるほどの差異ではない。そうした人たちは、溺死しても浮かんでいる。
「川底に沈んだ死体は、何らかの要因で、その比重が水の比重より軽くなるまで、沈んだままだ。そのような効果は腐敗や、他の要因によって生じる。腐敗の結果はガスの発生で、細胞組織やあらゆるキャビティを膨張させ、恐ろしい土左衛門形相ぎょうそうを付与する。腐敗が進行して、死体の体積が、それに見合った質量マス重量ウェイトの増大なしに、著しく増大すると、死体の比重は水の比重より軽くなる。それで死体はただちに水面へと浮上する。だが腐敗は無数の条件に左右される――無数の要因によって遅速ちそくが生じる。たとえば、季節的な寒暖の差とか、水の純度とかミネラル含有率とか、水の深浅とか、流水か止水かとか、死者の体質とか、生前に健康だったかどうかなど。こうして明らかなように、われわれは腐敗によって死体がいつ浮上するかを、正確に断言することなどとてもできない。ある条件下では一時間以内かも知れない。他の条件下ではまったく浮かんでこないかも知れない。動物のからだを永遠に腐らせないでおける化学薬品がある。塩化第二水銀などがそうだ。だが腐敗とは別に、ありそうなこと、実際に普通に見られることとしては、植物質の酢酸発酵による胃腔内での、または他の原因による他の腔内での、ガスの発生が膨張を引き起こして、それで死体が水面に浮上することがある。カノン砲による砲撃の効果は、単なる振動の効果だ。それは死体を埋まっていた軟泥ウーズから解放するかも知れない。他の条件がそろっていれば、死体は浮上するだろう。あるいはそれは腐敗しかけた細胞組織の粘着力に打ち勝って、それでもろもろのキャビティが、ガスの影響下で膨張しやすくなるとも考えられる。
「こうしてこの問題に関する全哲学を参照した今、われわれは『レトワール』紙の主張をたやすく吟味できる。いわく『あらゆる経験の示すところによれば、溺死体、もしくは不慮の死を遂げてすぐ水中に投げ込まれた死体は、水面に浮上するほど充分に腐敗するまでに、六日ないし十日を要するのである。沈んでせいぜい五、六日の死体が、カノン砲の砲撃を受けて浮かんでくることはあるが、そのままにしておけばふたたび沈む』
「今やこれは矛盾と不合理のティッシュにしか見えない。『溺死体』が浮上するほど充分に腐敗するまでに、六日ないし十日を要求するなどと、あらゆる経験は決して示していない。経験と科学とがそろって示すところは、溺死体がいつ浮上するかは、まったくわからないということだけだ。おまけに、キャノン砲の砲撃によって浮上した死体は、『そのままにして』おいても、『ふたたび沈』みはしない。腐敗が進行して、ガスが抜けるまでは、ずっと浮かんだままなのである。だが僕はここで『溺死体』と、『不慮の死を遂げてすぐ川に投げ込まれた死体』との区別に、君の注意を促したい。このライターはこの二つを区別しながら、これを一つのカテゴリーにひっくるめてしまった。僕は溺れる人の比重が水の比重より重くなること――彼はじたばたしない限り、沈まないこと――彼はじたばたするあまり、水面から両手を上げたり、水面下で激しく呼吸したりすること――その結果、空気の代わりに水が肺に入ること――などを君に説明した。しかし『不慮の死を遂げてすぐ水に投げ込まれた死体』は、決してじたばたしないし、呼吸もしない。だから後者の場合、死者は原則として沈まない。この事実を『レトワール』紙は明らかに知らない。腐敗が相当進んで、死体が白骨化すれば、それは水面から消えるが、それまでは決して消えない。
「それではこの死体は、マリーの失踪から二、三日しか経たないうちに、浮かんでいるところが見つかったから、マリーのものではあり得ないという主張を、われわれはどう考えればいいのだろうか。もし彼女が溺死であれば、彼女は女だから、全然沈まないか、たとえ沈んだとしても二十四時間以内に浮かんできただろう。だが彼女が溺死したと思う者はいるまい。死んでから川に投げ込まれたのならば、彼女はいかなる時でも、水面に浮かんでいたはずなのだ」……