
遺体発見時の状況
翌朝、私はパリ警視庁に出向いて、この事件に関するすべての証拠の完全なレポートを入手した。またあちこちの新聞社を回って、事件当初から今日に到るまでの、あらゆる主要な新聞記事のコピーを手に入れた。この膨大な情報は、明確に否定されたものを除けば、以下のようになる。
マリー・ロジェがパヴェ・サンタンドレ街の母親の家を出たのは、一八――年六月二十二日(日曜日)の朝九時頃だった。出かける際、彼女はその日をデ・ドローム街に住む叔母と過ごす意向であることを、ジャック・サン・トゥスターシュ氏という人だけに告げた。デ・ドローム街は、セーヌ川からそれほど離れていない、狭くて短いが人通りの多い街路で、ロジェ夫人の下宿屋から直線距離で二マイルほどのところにある。サン・トゥスターシュはマリーの婚約者で、この下宿屋に住み、食事もここで取っていた。彼は黄昏時に彼女を迎えに行き、帰路を護衛することになっていた。ところが午後は大雨になった。彼女が叔母の家に泊まるだろうと思った彼は(前にもそんなことがあったから)約束を守らなかった。ロジェ夫人(七十歳の老婆)は夜が近づくと「もう二度と、マリーに会えないような気がする」などと言った。この言葉は、その時は、誰も気に留めなかった。
月曜日になって、少女がデ・ドローム街を訪れていないことが確認された。何の音沙汰もないまま日が傾くと、遅れ馳せながら、街とその周辺で捜索が始まった。何も手掛かりがないまま、四日目となった。この日(六月二十五日の水曜日)、ボーヴェ氏という人が、一人の友人とともに、パヴェ・サンタンドレ街の対岸のルール関門近くでマリーを探していたところ、何人かの漁師が川に浮かんでいる死体を見つけて、それがちょうど岸に引き上げられるところだと言われた。ボーヴェは、しばらくためらったのち、香水店の売り子に間違いないと身元確認した。彼の友人はもっと速やかに確認をした。
顔面はどす黒い血にまみれ、口から吐かれた血も混じっていた。単なる溺死の場合のように、泡を吹いてはいなかった。細胞組織に変色はなかった。咽喉もとが傷つき、指の痕があった。両腕は胸の上に折り畳まれ、硬直していた。右手は握りしめられ、左手は少しひらいていた。左手首に環状の擦過傷がふた筋。二本のロープの痕か、ロープを二重に巻いた痕に見えた。右手首の一部の皮膚がすりむけ、背中も全面にわたって皮膚がすりむけ、とりわけ肩甲骨付近の皮膚はひどくすりむけていた。漁師たちは、これにロープを引っかけて岸へと運んだのだが、それで擦過傷が生じることはなかった。首の肉は膨れ上がっていた。切創はなく、打撲傷もなかった。レースのひと切れが首に巻きついていたが、非常にきつく締められ、肉に食い込んで、外からは見ただけではわからないほどだった。左耳のすぐ下で結ばれて、結び目があった。これだけで死に到るに充分だったろう。医師は故人の貞操状況について、確信を持って証言した。被害者は性的暴行を受けていた。死体は親しい人たちによる確認が容易な状態だった。
着衣は乱れ、あるいは破れていた。上着の一部が、裾から腰にかけて、約一フィート幅の帯状に引き裂かれていたが、破り取られてはいなかった。それが腰に三重に巻きつけられて、背中でロープ結びで留めてあった。故人はフロックのすぐ下に、きれいなモスリンを着用していた。このモスリンから、十八インチ幅の帯状の切れ端が、均一の幅で、非常に気を使って、すっかり破り取られていた。これが彼女の首にゆるく巻かれ、固い結び目で留められていた。レースの切れ端と、モスリンの切れ端の上に、ボンネットの紐がボンネットもろとも巻きついていた。このボンネットの紐の結び方は、貴婦人の結び方ではなく、引き解け結び、すなわち船乗りの結び方だった。
検死後、死体は通常のように死体安置所へと運ばれず(そのように形式張ったことは不要と判断された)、それが引き上げられた場所からほど近い墓地に、そそくさと埋葬された。ボーヴェ氏の尽力により、可能な限り 事はせっせと片付けられた。何事も公にならないうちに、数日が過ぎた。ところがある週刊新聞が、ついにこの件を取り上げた。死体は掘り出され、再検死が行われたが、すでにわかっている以上のことは何もわからなかった。ただ今回は衣服が、故人の母親や、故人と親しかった人々に示され、少女が自宅を出る際に身に着けていたものに間違いないと、完全に一致確認された。
遺体はマリーか?
一方、騒ぎは刻々と大きくなった。何人かの者が逮捕され、釈放された。とりわけ疑われたのがサン・トゥスターシュだった。はじめのうち、彼は日曜日に自分がどこにいたのか、はっきりと説明することができなかった。だがその後、彼は警視総監に宣誓供述書を提出し、その中で問題の日の全時間にわたって、納得のいく説明をした。何の進展もないまま時が流れるにつれ、一千の矛盾した噂が循環し、ジャーナリストたちは憶測で忙しかった。中でも注目を集めた説は、マリーはまだ生きているという説、すなわちセーヌ川で見つかった死体は、誰か別の少女の死体だという説だった。そのような説を唱える記事の何節かを引用しよう。以下は世間に大きな影響力を持つ『レトワール』紙の記事の逐語訳である。
「ロジェ嬢は一八――年六月二十二日、日曜日の朝、表向きは彼女の叔母、もしくは他の親戚に会う目的で、母親の家を出た。それ以降、彼女を見た者はいない。彼女の足取りも、消息も、不明である。(中略)その日、彼女が母親の家を出て以来、どんな形でも、彼女を見かけたと名乗り出た者は、一人もいない。(中略)さて、マリーが六月二十二日の日曜日の朝九時以降、生きていたという証拠はないが、それまで生きていたことは確かだ。水曜日の正午、一人の女性の遺体がルール関門近くの水上に浮かんでいるのが発見された。仮にマリーが母親の家を出てから三時間以内に川へ投げ込まれたとしても、それからちょうど三日しか経っていない。だがもし殺人があったとして、死体を川へ投げ込むのは真夜中のはずで、それまでの早い時間帯に殺されたとは考えにくい。そのような恐ろしい罪を犯す者は、昼よりも夜を選ぶものだ。(中略)したがって、もし川で見つかった死体がマリーならば、それは投げ込まれて二日半か、せいぜい三日しか経っていないことになる。あらゆる経験の示すところによれば、溺死体、もしくは不慮の死を遂げてすぐ水中に投げ込まれた死体は、水面に浮上するほど充分に腐敗するまでに、六日ないし十日を要するのである。沈んで五、六日も経たない死体が、カノン砲による砲撃を受けて浮かんでくることはあるが、そのままにしておけばふたたび沈む。このケースでは何が原因で、通常の自然の過程が守られなかったのだろうか。(中略)もし死体がそんな無残な状態で火曜日の夜まで川岸にあったなら、そこに犯人たちの何らかの痕跡が残るはずである。死んで二日経ってから投げ込まれたとしても、それがそれほど早く浮かんでくるかも疑問だ。さらに、このような殺人を犯すほどの悪人が、錘もつけずに死体を沈めるとも考えにくい。その程度の用心は造作もないはずだ」
この編集者はさらに、この死体は「三日間ではなく、少なくともその五倍は」水に漬かっていたはずだ、なぜならボーヴェ氏が確認するのに困難を覚えるほど腐敗が進んでいたから、とまで書いていたが、これはのちに反証された。翻訳を続ける。
「それではいかなる根拠に基づいて、ボーヴェ氏は、これをマリーの遺体だと断定したのだろうか。彼はガウンの袖を引き裂き、その同一人物性について、彼を納得させるしるしを見たのだという。一般の人々は、このしるしなるものを、傷あとのごときものと思った。だが彼は故人の腕をさすって、そこに毛を見たというのだ。それは誰にでもわかるほど不確かなこと――袖の中に腕を見たという程度に、決め手に欠けることである。ボーヴェ氏は、その夜、戻らなかった。ただその日の夜七時、ロジェ夫人に使いをやって、マリーの検死がまだ続いていることを伝えた。ロジェ夫人が、高齢と悲嘆のゆえに、出かけられなかったことは容認するとしても(過度な容認だが)、もし死体が本当にマリーのものであったならば、誰か一人は出かけて行って、検死に立ち会ってもいいと考えたに違いない。誰も行かなかったのである。パヴェ・サンタンドレ街においては、同じ建物の住人にさえ、この事実は伏せられていた。マリーの公認の恋人であり、婚約者であり、母親の家の間借り人でもあるところのサン・トゥスターシュ氏は、遺体が発見されたことについて、翌朝になって、ボーヴェ氏が彼の部屋に知らせに来るまで、まったく知らなかったと証言している。このような悲報に対して、この冷淡な受け止め方には驚かされる」
このように『レトワール』紙は、マリーの親族側の無関心を強調した。もしこの人たちが死体をマリーだと信じていたとすれば、辻褄が合わぬというわけである。同紙がほのめかす裏の筋書きとは以下のようなものである。マリーは心ない誹謗中傷に耐えられなくなって、親しい人たちの黙認のもと、街から逃げた。この人たちは、少女にいくらか似た死体がセーヌ川に上がったので、この機会を利用して、世間に彼女が死んだと思い込ませようとした。だが『レトワール』紙はここでも軽率に過ぎた。以下の事柄が明白に証明された。すなわち、そのような無関心は存在しなかったこと。足腰おとろえたロジェ夫人は、同時にあまりにも取り乱していて、いかなる検証にも立ち会うことができなかったこと。サン・トゥスターシュは、悲報を冷静に受け止めるどころか、半狂乱になっていたこと。ボーヴェ氏は、マリーの親族にして彼の友人の一人を説得して、サン・トゥスターシュの面倒を見させ、再検死の際にも彼を立ち会わせないようにしたこと。あまつさえ『レトワール』紙は、遺体が公費で再埋葬されたこと――私人の墓地を有利に提供したいとの申し出を、遺族がきっぱりと拒絶したこと――遺族が一人として葬儀に参列しなかったこと――このようなことをさんざん書き立てることで、意図した印象をさらに強化しようとしたが、ことごとく反証を挙げて論破された。『レトワール』紙のその後の号では、ボーヴェ氏その人に疑いをかけようとする試みがなされた。いわく、
「今や事態は急変した。われわれの取材によれば、ある日、B夫人という人がロジェ夫人の家に行くと、出かけるところだったボーヴェ氏が『憲兵が一人、来ることになっていますが、私が帰るまでは、何もしゃべってはいけません。用件は私にまかせて』と言ったという。(中略)ボーヴェ氏は一切を自分の腹の中に収めているかに見える。ボーヴェ氏なしには一歩も先に進めない。どっちを向いても、彼が立ちふさがるからである。(中略)何らかの理由で、彼は彼以外の誰をも、この件に関わらせないことに決めたのである。男性親族たちによれば、ボーヴェ氏は彼らを、実に奇妙なやり方で排除していた。彼は親族が遺体を見ることをとても嫌がっていたらしい」
次の事実によって、ボーヴェにかけられた嫌疑は真実味を帯びた。すなわち少女が失踪する数日前のこと、ある人が、ボーヴェが留守の間に彼のオフィスを訪れると、ドアの鍵穴に一輪の薔薇が挿してあって、その近くに「マリー」と書かれた石板がぶら下げてあった、というのである。