魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人事件(The Murders in the Rue Morgue)」(解決編)

アメリカ映画『推理作家ポー 最期の5日間』(2012年)のワンシーン。imdb.comより。

彼の目には壁しか映っていなかった。

すでに述べた通り、デュパンという男には気紛れなところがあって、私はこれに善処したジュ・レ・メナジェ――と言うのはつまり、勝手にさせておいた。このフランス語に等価値イクイヴァレントなフレーズが、英語にはない。で、彼は今この事件に関するおしゃべりを一切したくない気分なのだった。明くる日の正午ごろになって、彼は藪から棒に「君はあの現場で何か特異なものを見なかったか」と言った。
この「特異な」という語を発音する時の彼の力の込め方には、私を故知ゆえしらず身震いさせる何かがあった。
「いや、特には何も」と私は言った。「少なくとも、新聞に書いてあった以上のことは何も」
「『ガゼット』は」と彼は答えた。「この事件の前代未聞の恐怖ホラーにまだ気づいてはいないようだ。だが新聞の意見はしばらく。僕にはこの事件を難事件に見せかけているのは、実はこの事件の底の浅さそのものだという気がする。僕が言うのはつまり、この事件のもろもろの奇天烈ウトレな点だ。警察は外見的な動機の欠如に苦慮している。なぜ殺したかではなく、なぜこれほどむごい殺し方をしなければならなかったのかがわからない。同様に、階段を上がった一行によって言い争う声が聞かれた事実と、室内にはレスパネー嬢の遺体の他に何もなかったという事実、および一行に察知されない脱出エグレスの方法がないという事実とを整合リコンサイルさせることは不可能に見える。室内の荒らされ方。頭を下にして煙突に押し込まれていた死体。老婦人の遺体の惨憺さんたんたるありさま。以上の事実は、僕がすでに触れたことや、ことさら触れるまでもないもろもろの事実とともに、自慢の千里眼に目つぶしを食らった警察のパワーを封じ込めるのに充分だった。彼らは普通でないものを奥の深いものと混同するというよくある過ちに陥ったのだ。だが日常茶飯事の平面性からのこのような逸脱デビエーションがあればこそ、知性は、もしその気があるのなら、真実を模索できる。このような捜査の場合、ただ単に『何が起こったか』を問うよりも、『これまでに起こったことのない何が起こったのか』を問うべきだ。事実、僕はこの謎を解くだろうし、もう解いてしまったと言ってもいいが、僕にとってのこれを解く容易さは、警察にとっての難解さと正比例している」
私は彼の顔をポカンと見つめていた。
「僕は待っている」われわれの部屋のドアに目をやりながら、彼は続けた。「僕は今ある人物を待っている。彼はおそらく真犯人ではないだろうけれども、この凶行にある程度の関わりを持っているに違いない。殺人については、彼はおそらく無実なのだろう。そうであってくれればいいと思う。僕はこの推定に、事件の全容解明に向けての一縷いちるの望みをかけている。僕はその男を、この部屋で、今か今かと待ち受けている。彼は来ないかも知れない。だが来る見込みはある。もし来たら、彼を逃がしてはいけない。ここにピストルがある。使うべき時と場合は心得ているね」
私はピストルを取ったが、自分でも何をしているのか理解できず、自分が耳にした言葉を信じることもできなかった。デュパンは依然として独語ソリロキーとしか思えない発言を続けている。こうした場合の彼の上の空アブストラクな態度についてはすでに述べた。彼の話し相手は私だった。だが彼の声は、決して大声ではないにもかかわらず、遠く離れた誰かに向かって語りかけているようなイントネーションを持っていた。彼の虚ろな目には壁しか映っていなかった。

「それはまだ明かすまい」

「階段を上がった一行が聞いた言い争う声というのが」と彼は言った。「殺された二人の声ではないことは、証言によってしかと裏付けられている。この事実はお婆さんがまず娘を殺して、そののち自殺を図ったのではないかという疑いからわれわれを解放してくれる。僕がこの点に触れるのは主として方法メソッドのためだ。レスパネー夫人の筋力は、娘の死体をあのような形で煙突に押し込む仕事タスクにはまったく不適格だ。また夫人自身の肉体に負わされた外傷の性質は、自己抹殺セルフ・ディストラクションの観念を完全に排除する。犯行は第三者によって行われた。例の言い争う声とはこの第三者の声に違いない。僕はここで、この二つの声に関する全証言ではなく、証言中の特異な点について、君に注意を促したい。君はこれについて何か特異な点に気づかなかったか」
私はこの二つの声のうち、「どら声」については全員が口をそろえてフランス人の声だと証言しているが、もう一つの「金切り声」、もしくはある目撃者が「不快な声」と述べた声については、証言に多くの食い違いがある点を指摘した。
「それは証言そのものであって」とデュパンは言った。「証言の特異性ではない。それでは君は何にも気づかなかったのかしら。だが気づくべき何かがあったのだ。『どら声』については、君の言う通り、全証言が一致していて、異論がない。だが『金切り声』に関する証言の特異性とは、各証言が一致していないことではなくて、イタリア人も、イギリス人も、スペイン人も、オランダ人も、そうしてフランス人までもが、皆ことごとく外国人の声だと証言していることだ。全員がこれを同国人の声ではないと言う。全員がこれを自分にとっては未知の言語を操る人物の声になぞらえている。一人目のフランス人はこれをスペイン人の声だとし、『もしスペイン語がわかったら、少しは聞き取れたろう』と言う。これをフランス人の声だと言うオランダ人は『フランス語がわからないから通訳を介して証言した』。これをドイツ人の声だとするイギリス人は『ドイツ語がわからない』。これをイギリス人の声だと確信するスペイン人は『英語がわからない』からもっぱらイントネーションで判断した。これをロシア人の声だと信ずるイタリア人は『生粋ネイティヴのロシア人と会話した経験がない』。あまつさえ、二人目のフランス人は一人目と違って、これをイタリア人の声に間違いないと言い、しかもイタリア語はわからないが、スペイン人同様、『イントネーションでわかる』などと言う。これほどまちまちな証言が導き出され得る声とは、何と奇妙な声だったことだろう。その調子トーンはヨーロッパの五大国のいずれの住民デニズンにとっても聞き馴染みのない声だったのだ。君はこれをアジア人、またはアフリカ人の声かも知れぬ、というだろうか。アジア人やアフリカ人はパリでは稀だ。だがその可能性インファレンスは否定しないとして、僕はここでは以下の三つの点に君の注意を喚起したい。第一に、ある者はこれを『金切り声というよりも不快な声』と言い、第二に、他の二人の者はこれを『早口で乱れた声』と言う。第三に、誰もがいかなる人語も――人語に類するいかなる声も耳にしてはいないという点だ」
「ここまでで」とデュパンは続けた。「どんな考えが君の頭に浮かんだかは知らない。ただ僕はためらわず言うが、証言のこの部分、すなわちこの『どら声』と『金切り声』という二つの声に関する部分からの正当な演繹だけでも、ある疑惑を生ぜしめるに充分であり、その疑惑は今回の捜査において、われわれを非常に遠くまで導いてくれる。僕は今『正当な演繹』と言ったけれども、僕が言いたいことはこの言葉では充分に言い尽くせていない。僕が言いたいのはこの演繹が唯一の正しいものであり、そこからくだんの疑惑が唯一の帰結として不可避的に生ずるということだ。その疑惑とは何か。それはまだ明かすまい。今はただこれが僕のあの部屋での捜査に対して、ある決定的なかたち、ある一定の方向を取るよう強いるのに充分だったということだけを、僕とともに覚えておいてくれ」

「二人は悪霊に殺されたわけではない」

「それでは心の中で、あの部屋の中へと移動してみよう。まず何を調べるか。それは犯人の脱出エグレスの方法だ。われわれは、言うまでもなく、超常現象など信じてはいない。二人は悪霊に殺されたわけではない。犯人は物質的マテリアルな存在であり、物質的マテリアルな手段を用いて逃走したのだ。幸い、この点に関する推理の様態モードは一つしかなく、この様態モード必ずやわれわれを決定的な断案へと導いてくれる。それは可能な脱出エグレスの方法を逐一調べることだ。一行が階段を上がっていた時、犯人はレスパネー嬢の遺体が見つかった部屋か、少なくともその続きの間にいたことは明らかだ。われわれが出口イシューを探さなければならないのはこの二つの部屋だけだ。警察はこの二室のゆかも、天井も、壁の造りも丸裸にして調べ尽くした。彼らの炯々たる眼光ビジランスを免れ得るところのいかなる秘密の出口イシューもあろう筈はない。だが他人の目に頼らず、僕は自分の目で調べてみた。秘密の出口イシューはやはり無かった。二つの部屋の廊下へと通じるドアは、いずれも内側からしっかりと施錠されていた。煙突はどうか。暖炉前ハースから二、三メートル上までは通常の広さではあるものの、それから先はとても狭くて、大きめの猫だって通れやしない。以上のような脱出エグレスの方法は絶対にあり得ないから、われわれは遂に窓へと連れ戻される。玄関側の窓からでは、通りの群衆に気づかれずに逃れることは不可能だ。犯人は裏庭側の窓から逃げたに違いない。かくも理路整然たる道を通じてこの結論へとたどり着いたからには、推理をする者として、一見無理だからという理由でこれを排除するのはわれわれの本分パートではない。われわれに残された道は、この外見上の『不可能事』が、実は可能であることを示すことのみだ。

「部屋には窓が二つあった」

「部屋には窓が二つあった。一つは何もさえぎるものがなく、全形が見えていた。もう一つは馬鹿でかい寝台がぴったりと押しつけられて、下の部分が隠れていた。前者は内側から固く閉ざされていて、これを持ち上げようと頑張る者の最大限の労力にも抵抗した。窓枠フレームの左側に大きな錐穴きりあなが貫通していて、非常に丈夫な釘が、ほとんど頭まで打ち込まれていた。もう一つの窓を調べてみると、同じ釘が同じように打ち込まれていて、この窓枠サッシを持ち上げようとする精いっぱいの試みもまた水泡に帰した。警察はそれでこの方面からの脱出エグレスはないと確信した。従って、釘を抜いて窓を開けるのは大きなお世話スーパーエロゲーションだと考えられた。
「僕自身の捜査は、既に挙げた理由から――すなわちあらゆる外見的な不可能事が、実際には可能であることをここで証明しなければならないという理由から、もう少し微に入り細を穿うがったものとなった。
消去法的ア・ポステリオリに、僕はこう考えた。犯人はこの二つの窓のうち、どちらかから外に出た。従って、犯人には窓を今見られるような形で、内側から閉ざすことは不可能である。これが警察をしてこの角度からの捜査を断念させた自明な理由だ。だが窓は実際に閉まっていた。この窓にはみずからを閉ざす能力が備わっていなければならない。この結論に逃げ道はない。僕は全形が見える方の窓に近づいて、いささか難儀して釘を引き抜き、窓枠サッシを持ち上げようと試みた。だが予期した通り、窓は開かなかった。どこかにスプリングが隠れているのだと僕は思った。この考えの裏付けコラボレーションによって、釘に関する謎はまだ解けなかったものの、少なくとも僕の前提としているものが間違ってはいないという確信が持てた。丹念に探すと、隠れたスプリングがやがて明るみに出た。僕はスプリングを押してみた。そうして発見に満足して、窓枠サッシを持ち上げることは差し控えた。
「僕は釘をふたたび刺して熟視した。この窓が犯人によって閉ざされ、スプリングによって固定されたとしても、この釘がひとりでに刺さったとは考えにくい。このわかりきった結論が、僕の捜査の範囲をふたたび狭めてくれた。犯人はもう一つの窓から逃げたに違いない。各窓枠サッシに設置されているスプリングはおそらく同じだろうから、釘に相違点があるか、あるいは少なくとも、釘の固定の様態モードに相違点があるに違いない粗布サッククロスの上に乗って、僕は寝台のヘッドボードの上から第二の窓を綿密に見た。ヘッドボードの裏側に手を差し込むと、すぐにスプリングに触れたので、押してみた。予期した通り、それは第一の窓のものと寸分たがわぬ性質のものだった。僕は次に釘を見た。これまた丈夫そうな釘が、見たところ同じ様に、ほとんど頭部まで打ち込まれていた。

「僕の鎖の環には一つの欠落もない」

「君は僕が行き詰まったと思うかも知れない。だとすれば、君は帰納の本質を見誤っている。狩猟用語を用いるならば、僕の鼻は常に臭跡しゅうせきを嗅ぎ分けている。僕の嗅覚は一瞬たりとも獲物の匂いを見失ったことはない。僕のチェーンリンクには一つの欠落もない。僕は秘密を終点まで追い詰めた――その終点とはだ。釘は、もう一つの窓に打ち込まれているものと、あらゆる点で同じ外観を呈していた。だがこの事実は(いかに決定的なものと見えようとも)、ここでぷつりと切れる推理の糸と比較すれば何物でもない。『この釘が間違っているに違いない』と僕は言った。そうしてそれに指を触れてみた。すると釘の頭が、数ミリの胴部シャンクとともに、僕の手の中へポロリと落ちた。釘は折れていて、あとの胴部シャンク錐穴きりあなの中に残っていた。破断面が錆びていたから、かなり前から折れていたらしい。見たところ、ハンマーで打ち込んだ際に折れたもののようで、釘の頭部だけが、窓の下枠のてっぺんに、部分的にめ込まれていたのだった。僕はその釘の頭部を注意深く、もとの穴へとめ込んでみた。すると釘付けは完璧に見え、破断しているとはわからなかった。スプリングを押しながら、窓を少しだけそっと上げてみると、釘の頭だけが穴にしっかりと突き刺さったまま、窓枠サッシとともに持ち上がった。窓を下ろすと、やはり釘付けは完璧に見えた。
「ここまでの謎は解けた。賊は寝台側の窓から逃げたのだ。賊が逃げた際、窓は(意図的に閉ざしたか、もしくは)ひとりでに閉じたあと、スプリングで固定された状態となった。そうしてこのスプリングによる閉鎖を、警察は釘による閉鎖と勘違いして、それ以上の突っ込んだ捜査は不要と判断した。
「次の疑問は窓からの下降の様態モードだ。これについては、君と一緒に建物の周囲を歩いている間に確信を得た。くだんの窓から一メートルと数十センチほど離れた壁面を避雷針が走っている。この避雷針からは窓に手が届かず、いわんや窓を通して侵入することなど不可能だ。だが僕はこの四階の窓の鎧戸シャッターが、パリの大工たちの間でフェラードと呼ばれる特殊な構造のものであることに気がついた。これは現代では滅多に採用されないが、リヨンやボルドーの旧家ではしばしば見られるものだ。普通のドア(折りたたみ式ではなくて、一枚板シングルの)と同じ形をしていて、ただ違うのは下半分がラティス、すなわち透かし彫りの格子細工オープン・トレリスとなっている点で、手でつかむのに大変都合がよい。今の例では、この鎧戸シャッターは幅が優に一メートル以上ある。われわれが建物の裏手にまわった時、鎧戸シャッターは半開きの状態だった。すなわち鎧戸シャッターと壁とは直角をなしていた。警察もわれわれ同様、建物の裏手にまわってはみただろう。だが彼らはこの鎧戸フェラードを側面から見た(に違いない)ので、その幅の大きさに気づかなかったか、いずれにせよ、それを正当に評価しなかった。実際、この方面からの脱出エグレスはあり得ないと一旦決めつけた彼らが、おざなりな捜査しかしなかったのは当然だろう。だが僕は、寝台の頭側の窓に付いているこの鎧戸シャッターは、全開の場合、その一端が避雷針からわずか数十センチの距離内に来ることに気がついた。従って避雷針から室内への侵入は、桁外れの運動能力アクティヴィティと度胸との持ち主によって、次のように成し遂げられたと考えられる。――(鎧戸シャッターがいっぱいに開いていたと仮定して)賊は避雷針から一メートル弱の距離に片手を伸ばし、鎧戸シャッター格子細工トレリスワークをしっかりとつかむ。避雷針からもう片方の手を離し、両足を壁に踏ん張って、大胆に跳躍したとすれば、賊は閉じようとする鎧戸シャッターにぶら下がることができる。もしもそのとき内窓が開いていたとすれば、その勢いで室内に飛び込むことができる。
「このような離れ業をやってのけるのに要求される運動能力アクティヴィティ非凡さを忘れないでくれ。まずこの離れ業は可能だと考えてほしい。そうして次に、こちらが主だが、このきわめて異常な――ほとんど超人的プリータナチュラな身軽さを、君の心に刻みつけておいてほしい」

「僕の究極の目的は真実だけだ」

「君は言うに違いない。法律用語でいうところの『自説を立証する』ためには、 僕はこの行為に要求される身軽さを完全に評価するよりも、むしろ低く見積もるべきなのだ、と。だが法廷での慣例はそうでも、知性の慣用はそうではない。僕の究極の目的は真実だけだ。さしあたっての目的は、この異常な身軽さと、あのきわめて特異な声、あの鋭い(あるいは不快な)乱れた声とを隣り合わせの位置ジャクスタポジションに置くよう君を導くことだ。その声が用いていた国語については一致した意見がなく、またその発音には音節分けシラビフィケーションがまるで成されていなかった」
デュパンの言わんとするところは、おぼろげながらも、私の脳裏にちらついた。私は何かを理解しかけていながら、理解する力に欠けている気がした。人は時として、今にも取り戻せそうな記憶を、遂に取り戻せないことがあるものだ。彼は続けた。
「気がついていると思うが」と彼は言った。「僕は問題を脱出エグレスから侵入イングレスへとシフトさせた。僕が言いたかったのは、入口と出口とは同じで、同じ結果をもたらしたということだ。それでは室内にもどり、もう一度あたりを見回そう。箪笥ビューローの引き出しは物色されていたというが、中には多くの衣類アパレルが残されていた。断定はできまいよ。物色されていたというのは単なる憶測で、それ以上のものではない。残されていた衣類は、もともと引き出しに入っていた衣類のすべてかも知れない。レスパネー母娘はひっそりと暮らしていた。来客もなく、ほとんど外出もしなかったので、着替えもそう多くは要らなかったはずだ。見つかった衣類は、少なくともあの貴婦人たちが持っていそうないかなるものにも劣らず、上質のものばかりだった。もし泥棒が何かを盗んでいったなら、一番いいものを盗んだろう。あるいは全部を盗んだろう。何よりもまず、リネンの束を背負い込みながら、四千フランもの金貨をそのまま置いていくだろうか。金貨は手付かずだった。銀行家のミニョー氏が証言した金額のほとんどがバッグに入った形で、床に落ちていた。それゆえ金が届けられたという一部の証言によって警察の頭に浮かんだ動機に関する的外れな考えは、君の頭の中からは払拭ふっしょくしてもらいたい。この偶然の一致コインシデンス(金が届けられたという事実と、母娘がそれを受け取ってから三日目に殺されたという事実)よりもはるかに顕著な偶然の一致コインシデンスが、万人の人生に絶えず当たり前に起きている。偶然の一致コインシデンスは、確率論に関する教育をまったく受けたことのない人々にとっては大きなつまずきの石であるが、人類の最も輝かしい研究の成果は、そのもっとも輝かしい実例イラストレーションをこの確率論に負うているのだ。今の例では、もし金貨がなくなっていたのなら、これが三日前に届けられたという事実は偶然の一致コインシデンス以上の意味を持ったろう。金が動機だという説の裏付けコラボラティヴともなったろう。だが今の事案の実情のもとでは、もし金がこの凶行の動機だと仮定すれば、われわれは犯人が金も動機もまとめて失念するほどのうっかり者だと考えざるを得なくなる。
「奇妙な声。異常な身軽さ。そうしてかくも残虐な犯行にしてその動機の驚くべき欠如。こうした点を念頭に置いたまま、今度は殺害方法そのものを一瞥いちべつしよう。一人の女性が素手で絞殺され、煙突の下から上へと、さかさまに押し込まれている。普通の人殺しはこんな殺し方はしない。少なくとも、死体をこんな風に処理するだろうか。死体を煙突の下から押し込むというこのやり方には、何か度を過ぎて異常ウトレ――たとえ犯人がいかなる冷血漢だと仮定しても、何か人間の仕業という一般的観念と相容れないものがある。数人がかりでかろうじて引きずり下ろせるほど強引にあの狭い空間へと死体を押し上げるにはどんなに大きな力が必要か、それも考えてみてくれ。
「怪力が発揮された他の証拠インディケーションにも目を向けよう。暖炉前ハースには毛髪が――大量の毛髪が――落ちていて、それは人間の白髪で、根もとからむしり取られていた。たとえ二、三十本の毛髪でも、それをあんな風にまとめて引っこ抜くには相当な力を要することは君にもわかるだろう。くだんの毛髪は、君も見たね。恐ろしいことに、根もとには頭皮スカルプの肉片が付着していた。一度に数十万本もの毛髪を根こそぎにするために行使された途方もない暴力の証拠だよ。老婦人ののどはただ単にかき切られていただけではない。首が胴体から完全に切断されていた。凶器はただの剃刀かみそりなのだ。僕は君にもまたこの犯行の獣的な残忍性に注目してほしい。僕が言っているのはレスパネー夫人の胴体の打撲傷のことではない。デュマ医師とその優秀な助手であるところのエチエンヌ医師とは、その傷が何らかの鈍器によってつけられたものだと証言していて、その限りにおいてはこの先生方はまったく正しい。鈍器とは明らかに庭の敷石で、夫人は寝台側の窓から落ちてそれに激突したのだ。この考えはいかに単純に見えようとも、警察はこれを見逃していて、それは鎧戸シャッターの幅を見逃したのと同じ理由からだ。すなわち例の釘の件が目隠しとなって、彼らは窓が開いていた可能性をまったく顧みなかったのだ」

「これは人間の毛ではない」

「以上に加えて、もし室内の奇妙な無秩序状態を適切に思い合わせるなら、われわれは遂にある超人的な筋力、獣的な残忍性、動機なき虐殺、まったく非人間的な猟奇性グロテスケリ、そうして多くの国の人々の耳に聞き馴染みのない調子トーンの、いかなる判然とした、認識可能な音節分けシラビフィケーションをも施されていない一つの声という諸観念を結合させるところまで来たことになる。ここからどんな結論が出てくるか。君の頭にはどんな考えが浮かぶだろうか」
デュパンからこのように尋ねられた私は背筋が寒くなった。「犯人は」と私は言った。「狂気の人物だ。近隣の精神病院メゾン・ド・サンテを脱走した錯乱状態の狂人だ」
「ある意味では」と彼は答えた。「君の考えは正鵠せいこくを射ている。ただ狂人の声の特徴は、もっとも狂暴な興奮状態パロキシズムのさなかに発されたものであっても、決して階段で聞かれたような奇声の特徴とは一致しない。狂人もどこかの国の生まれではあるので、彼らの言語は、その内容がいかに支離滅裂なものであっても、常に音節分けシラビフィケーションは出来ている。それに狂人の髪の毛は、いま僕が手にしているようなものではない。これは死んだレスパネー夫人がしっかりと握りしめていたこぶしの中から抜き取ってきたものだ。これについての君の考えを聞かせてくれ」
デュパン」私は愕然として言った。「この毛は変だ。これは人間の毛ではない」
「僕はこれが人毛だとはひと言も言っていない」と彼は言った。「だがこの点について結論を下す前に、僕がこの紙に描いたささやかなスケッチを見てほしい。これはレスパネー嬢の首筋についていた傷、すなわちある証言では『黒い圧迫痕と深い爪痕つめあと』、また(デュマとエチエンヌの両医師による)別の証言では『明らかに指で押したあとと見られる一連の青あざ』と描写されていたものの線描写生ファクシミリ・ドローイングなのだ」
「見ればわかると思うが」彼はわれわれの前のテーブルに紙を広げながら言った。「この図は驚異的な腕力を示している。見たところ、力を入れ直したあとがまったくない。すべての指が、最初に埋め込まれたその位置のまま、おそらくはレスパネー嬢がこと切れる瞬間まで、その恐るべき把握力を保ち続けている。それでは君の指をすべて、この図に示されているそれぞれの指の痕跡の位置に同時にあてがってごらん」
私はやってみたが、うまくいかなかった。
「これでは公正な審理フェア・トライアルとは言えないかも知れない」と彼は言った。「この紙は平面に広げられている。だが人間ののどは円筒形だ。ここに一本の棒切れがある。ちょうど人間ののどくらいの太さだ。その紙をこれに巻きつけて、もう一度やってみてくれ」
やってみたが、前回以上に困難なことは明らかだった。「これは人間の手形ではない」と私は言った。
「このキュヴィエの一節を読んでごらん」とデュパンは答えた。
それは東インド諸島産の大柄な黄褐色のオランウータンに関する、精緻な解剖学的知見ならびに一般的な特徴を記した記事であった。この哺乳類の巨大な身長、強い筋力と敏捷性、手に負えない獰猛性、人真似を好む性質等は充分に周知されているところである。私はこの恐ろしい事件の真相を瞬時に理解した。
「この手指の描写は」読み終えた私は言った。「この素描ドローイングとぴったり一致する。ここに言及されているような種類のオランウータン以外のいかなる動物も、君がトレースしたような手形をつけることはできない。この黄褐色の毛のひとふさもまた、キュヴィエの記事に出てくる動物の毛の特徴と一致する。だが私にはこの怪事件の幾つかの細かい点がやっぱり腑に落ちない。言い争う二つの声があって、そのうちの一つは間違いなくフランス人の声だったという話だが」
「その通り。そうして君も覚えている通り、その声は、証言によれば、満場一致で馬鹿モン・デューと言っていたという。これは当時の状況においては、目撃者の一人(洋菓子屋のモンターニ)が的確に表現していた通り、相手を制止している声であった。主としてこのひと声のおかげで、僕はこの事件の全容解明に向けた一縷いちるの望みをつなぐことができた。一部始終を見ていたフランス人がいるのだ。おそらく、いや、かなりの高確率で、彼はこの凶行に加わってはいないのだろう。オランウータンは彼のもとから逃げ出したのかも知れない。彼は猿のあとを追って現場まで来たのかも知れない。だがそのあとに続けて起こった大騒ぎのために、彼は猿を再捕獲できなかったのだ。猿は今なお逃走中なのだ。だが僕はこれ以上推測をたくましくするまい。今の僕にはこれを推測以上のものと呼ぶ権利はない。なぜならこの推測がって立つところの思想の影とも言うべきものは、僕自身の知性にとってもまだ充分な根拠を持っているとはとても言えず、また他者の知性に対しても、まだ充分に納得がいく説明を与えるふりをすることもできないからね。だからわれわれはこれを推測と呼び、あくまでも推測として話を続けよう。もしもくだんのフランス人が、僕の想像通り、本当に凶行については無実だとしたら、僕が昨夜の帰り、『ル・モンド』(海運業界の専門紙で、多く船乗りに読まれている)のオフィスに残しておいたこの広告を見て、われわれの住まいレジデンスを訪ねてきてくれるかも知れない」
彼から手渡された紙面にはこうあった。

○○日(事件のあった日)早朝、ブーローニュの森にて、黄褐色の巨大なオランウータン(ボルネオ種)を捕獲。所有者オーナーマルタ島船舶の乗組員である船乗りと確認された)は、所有権を充分に証明できるものを提示し、これの捕獲および保管にかかった些少の費用を支払うことで、これを受け取ることができる。フォブール・サン・ジェルマン○○街○○番地四階まで来られたし。

「いったいどうやって」と私は尋ねた。「その男が船乗りで、マルタ島船舶の乗組員だとわかったんだい」
「わかってはいないさ」とデュパンは言った。「確かなことは何もわからない。ただここに短いリボンの切れ端があって、この形状と、この脂っぽい外観から見て、これがあの船乗りたちの間で非常に好まれている髪型、すなわちあの長い弁髪キューを結ぶ際に用いられるものであることは明らかなのだ。あまつさえ、この結び方ノットは、船乗り以外にこれが出来る者は稀で、しかもマルタ島船舶の乗組員独特のものだ。僕はこのリボンを避雷針の下で拾ったので、殺されたいずれの女性のものでもあり得ない。さて、何よりもまず、たとえこのリボンによる僕の推理インダクションが的外れで、くだんのフランス人が船乗りでも、マルタ島船舶の乗組員でもなかったとして、それでもあの広告を出したこと自体は誰の迷惑にもならない。もし僕が間違っていたとしても、彼の方としてはただわざわざ問い合わせるまでもない何らかの事情で僕が間違えたのだと思うだけさ。だがもし当たっていれば、大変な得点ポイントを稼いだことになる。くだんのフランス人は、たとえ事件を起こしてはいなくても、事件を知ってはいるので、広告に応じるのは当然躊躇するだろう。彼はこう考えるだろう。『俺は無実だ。そして貧乏だ。俺のオランウータンは大変な値打ち物で、俺のようなものにとってはそれ自体、ひと財産だ。要らぬ心配をして、あれを失うのはもったいない。あれは今なら簡単に取りもどせる。あれが見つかったというブーローニュの森は、事件の現場からは遠く離れている。そもそも動物が犯人だなどと誰が思うだろうか。捜査は難航している。警察はまだ何の手がかりもつかんではいない。仮に動物が犯人だとわかったとしても、俺が事件を知っているという証拠はなく、それで俺が罪に問われることもあり得ない。何よりもまず、俺は知られている。あの広告を出した人は俺をあの猿の所有者だと特定している。その人が俺のことをどこまで知っているのかはわからないが、俺の持ち物だと知られているのに、あれほどの価値がある所有物プロパティの権利を主張しないとなれば、少なくともあの猿について何らかの疑いを招く恐れがある。あの猿に対しても、俺自身に対しても、人々の注意を引くのは得策ポリシーではない。俺は広告に応じよう。そうしてオランウータンを取りもどして、ほとぼりが冷めるまで厳重にかくまっておくとしよう』」

階段を上がってくる足音がした。

この時、階段を上がってくる足音がした。
「ピストルを用意して」とデュパンが言った。「だが僕が合図をするまでは、使わずに、隠しておくんだ」
玄関のドアは開いていたので、客は呼び鈴を鳴らさずに入ってきて、階段を何段か上がりかけた。ところが彼はそこでためらっていると見えて、次に階段を降りてゆく足音がした。デュパンはあわてて外に出ようとしたが、その時また階段を上がってくる足音がした。今度は引き返さず、決然たる足取りで上がってきて、部屋のドアを叩いた。
「どうぞ」デュパンは明るく朗らかな口調で言った。
一人の男が入ってきて、それは明らかに船乗りだった。高身長で、屈強な、堂々たる体格を持ち、眼光鋭く、なかなかの男振りだった。顔は真っ黒に日焼けして、半分以上がひげで隠れていた。巨大なオークの棍棒を手にしていたが、それ以外に武器は持っていない様子だった。彼はぎこちなくお辞儀をして「こんばんは」と言った。そのアクセントには多少ヌーシャテル訛りが混じってはいたけれども、パリ生まれのフランス人のものに違いなかった。
「おかけ下さい」とデュパンが言った。「オランウータンの件でいらっしゃったのですね。あれを所有されているとは、うらやましいな。素晴らしい代物で、きっと高い値が付く。あれは何歳くらいですか」
船乗りは大きな溜息をついた。耐え難い重荷からやっと解放されたといった様子で、落ち着き払った口調でこう答えた。
「さあ、せいぜい四、五歳くらいかな。ここに置いてあるんですか」
「いいえ、ここにはあれを置いておく便宜がないので、デュブール街の貸しうまやに預けてあります。すぐそこですよ。明日の朝、お返ししましょう。所有権を証明できるものはお持ちですね」
「ありますよ」
「あれを手放すのは残念ですな」とデュパンが言った。
「ただで受け取ろうとは思っていないさ」と男は言った。「有り難いことです。あれを見つけていただいたお礼はしますよ。大したことはできませんが」
「なるほど」とデュパンは答えた。「それでは遠慮なく。待てよ、そうだな。それでは謝礼として、あなたがご存じのことを何もかも話して下さいますか、あのモルグ街の殺人事件について」
デュパンはこの台詞の最後の方を、とても低い口調トーンで、とても静かに言った。同様に静かに、彼はドアに向かって歩いて行って、施錠すると、キーをポケットに入れた。そうして胸からピストルを取り出し、まったく取り乱すことなく、テーブルの上に置いた。
船乗りの顔が真っ赤になった。まるで呼吸困難に陥ったみたいだった。彼はにわかに立ち上がるや、棍棒をつかんだが、次の瞬間、真っ青な顔をして、ぶるぶる震えながら、ふたたび腰を下ろした。一言いちごんも発しなかった。それはまことに痛ましい光景だった。
デュパンは優しい口調トーンで語りかけた。「怖がらなくていい。何も怖がる必要はないのですよ。われわれはあなたを保護します。紳士として、フランス人として、私はあなたに危害を加えないと約束します。あなたはあのモルグ街の事件の真犯人ではありませんね。とはいえ、あなたがあの事件といささか関わりを持っていることは否定できない。これまでお話ししてきたところから、あなたは私がこの事件について幾つもの情報の入手方法を有していることがおわかりでしょう。それはあなたが思いも寄らないような入手方法です。真相はこうです。あなたはしてはならないことを――悪いことを何もしていない。あなたは罰せられることなく盗むこともできたのに、盗まなかった。あなたが隠さなければならないことは何もない。あなたは何も隠す理由がないのだ。他方、あなたは自分が知っていることをすべて打ち明けるべきあらゆる人道的義務を負っている。それはいま現に一人の無実の人間が拘束されていて、あなたが真犯人を指摘することができる犯罪の容疑をかけられているからです」
デュパンが話している間に、船乗りはかなり平静を取りもどしていたが、もとの強気な態度はもう見られなかった。
「わかりました」少し間を置いて、彼は言った。「何もかもお話ししますが、これからお話しすることの半分でも信じていただけると期待するほど、俺はおめでたい男ではありません。だが俺は本当にっていないので、たとえ死刑になろうとも、すべてをありのままにお話しします」

船乗りの供述

船乗りの供述はおおよそ以下の通り。彼は最近東インド諸島を旅した。彼の一行はボルネオに上陸し、暇つぶしに奥地へと分け入った。彼は仲間の一人とオランウータンを捕獲した。この仲間が亡くなったので、猿は彼一人のものとなった。帰路、この動物の獰猛さにすこぶる手こずりながらも、彼は何とかこれをパリにある彼の自宅へと運び込むことに成功し、近所の好奇の目を避けるため、これを厳重に隔離して、これが航海中、木片で足に負った傷が治るまで、ここにとどめ置くことにした。最終的には売り飛ばすつもりだった。
事件のあった夜、あるいは早朝、船乗り同士の飲み会から帰ってくると、猿は厳重に閉じ込めてあったはずのクローゼットから出て、彼自身の寝室を占領していた。見れば剃刀かみそりを手に、顔中泡だらけにして、鏡の前に座り、顔剃りシェービングの作業を試みているので、かねてよりクローゼットの鍵穴から主人のすることを見ていたものに違いなかった。かくも獰猛な動物がかくも危険な器具を手にした上に、これをたやすく使用し得るのを見て、彼はしばらくの間、途方に暮れた。とはいえこれまで猿がもっとも荒れた気分ムードの際にも、これに対して鞭をふるうことで大人しくさせてきた彼は、今回もこの手段に訴えようとした。ところがオランウータンは、鞭をひと目見るや、部屋を飛び出して階段を駆け下り、たまたま運悪く開放されていた一つの窓から戸外へと逃げ去ってしまった。
船乗りは死に物狂いで後を追った。猿はまだ剃刀かみそりを手にしたまま、時折立ち止まってはうしろを振り返り、船乗りに向かってゼスチャーをして、船乗りが追いつきそうになるとまた逃げるのだった。追跡はこのようにして長時間続いた。それは午前三時近く、通りは静まり返っていた。猿はモルグ街の裏通りを走りながら、レスパネー夫人の家の四階にある部屋の開いた窓から煌々こうこうたる光が漏れてくるのに気がついた。その建物へと駆け寄って、避雷針を認めた猿は、あれよあれよという間にこれをよじ登り、外へ向かっていっぱいに開け放たれていた鎧戸シャッターの端をつかむと、それにぶら下がって一直線ダイレクトに室内へと突入して、寝台のヘッドボードの上に降り立った。それは目にも止まらぬ早業だった。猿が飛び込む際に足で蹴り返したので、鎧戸シャッターはふたたび開いた。
それを見た船乗りはよろこび、また困惑した。猿はみずから罠にかかった形で、逃げ道は避雷針以外にほとんどなく、ふたたび降りてくるところを待ち伏せすればいいので、再捕獲したも同然だと彼は思った。その反面、屋内で何をしでかすか、心配でもあった。それで彼は追跡を続行した。避雷針をよじ登るのは、とりわけ船乗りには難しくなかった。だが彼の左手はるかかなたにある窓の高さまでよじ登ると、そこが限界だった。彼には伸びをして室内をちらりとのぞき込むのが精一杯だった。こうして室内の光景を目撃した途端、彼は危うく避雷針から落っこちそうになった。あの恐ろしい悲鳴が夜の闇を引き裂いたのはこの時で、それでモルグ街の住民たちの眠りは破られたのだった。寝間着姿のレスパネー母娘は、見たところ、先に触れた鉄製の金庫チェストの中の書類を整理アレンジするのに専念していたようで、そのキャスター付きの金庫チェストは部屋の中央まで引き出されていた。金庫チェストは開かれ、中の書類は床に散乱していた。彼女たちは窓を背にして座っていたに違いなく、猿の侵入から悲鳴までに経過した時間から考えて、すぐには気づかなかったかと思われる。鎧戸シャッターのバタバタいう音は、当然、風のせいだとされたのだろう。
船乗りがのぞき込むと、猿はレスパネー夫人の髪の毛をひっつかんで(彼女はちょうど髪をいていたので、髪はほどかれていた)、床屋の仕草を真似て、彼女の顔のあたりで剃刀かみそりを振り回していた。娘さんの方はゆかにうつ伏せに倒れて動かなかった。失神していたのである。夫人が悲鳴を上げて暴れたので(その間に彼女の髪は根こそぎ引き抜かれた)おそらく当初は穏やかなものだった猿の意図が、急に凶暴なものへと変わった。豪腕による決然たる剃刀かみそりのひと振りで、夫人の首は胴体からほとんど切り離された。血を見ると、猿の怒りは狂気となった。目を爛々と光らせ、歯ぎしりしながら、今度は娘さんに飛びかかって、娘さんがこと切れるまでしっかりと首を絞めた。この時、猿はその狂おしい視線を寝台の頭側へとさまよわせ、そこからちょうど見えたのが恐怖に凍りついた彼の主人の顔であった。主人の鞭の恐ろしさを思い出した猿の怒りはたちまち恐怖と化した。処罰に値することをしたという自覚があったので、猿は凶行の痕跡を隠したいと思ったらしく、あわてて部屋中を飛び回り、家具を投げて壊したり、寝台から寝具を引きずり下ろしたりした。その挙句、まず娘さんの死体をつかんで、のちに発見されたような形で煙突に押し込み、次に老婦人の死体を持って、窓から真っ逆さまに投げ落とした。
猿が夫人の遺体を抱いて窓辺に近づいた時、すっかり肝をつぶした船乗りは首を引っ込め、避雷針から降下というより滑落して、大急ぎで家へと逃げ帰り――事の重大さを恐れるあまり、オランウータンの末路に関するあらゆる懸念を進んで放棄した。階段を上がってくる一行が聞いたのは猿の鳴き声と入り混じった船乗りの恐怖の叫び声だった。

「彼の知性には体力がない」

他に付け加えることはほとんどない。オランウータンはドアが破られる直前に避雷針を伝って逃げたのだろう。窓は猿が飛び出す際に閉まったに違いない。猿は間もなく所有者オーナー自身によって捕獲され、王立植物園ジャルダン・デ・プラントに高額で売却された。われわれが警視総監の庁舎ビューローを訪れて(デュパンのコメント入りで)事情を説明したところ、ル・ボンはただちに釈放された。警視総監はデュパンと懇意だったにもかかわらず、事の成り行きについて悔しさを隠しおおせず、「素人が余計なことに首を突っ込まなくてもいい」というような嫌味をひと言ふた言、言わずにはいられなかった。
「別に」と言い返す気のないデュパンが言った。「それで良心が休まるのなら、御託を並べていればいい。僕は彼の本丸で彼をへこませたことで満足だ。だが彼が今回の事件を解決できなかったのは、それがそれほど難事件だったからではない。警視総監殿は、実のところ、物事を突き詰めて考えるには要領がよすぎる。彼の知性には体力スタミナがない。女神ラヴェルナの絵のように、首から上だけで胴体がない。あるいはたらのように、せいぜい肩までしかない。とはいえ彼はいい人で、僕はとりわけ彼の専門用語カントによる曲芸マスター・ストロークが気に入っていて、彼はそれで切れ者の評判を取っている。僕に言わせれば、彼は『有るものを否定し、無いものを説き明かす*1のだ」

 

 

*1:原注:ルソー『新エロイーズ』。