魔性の血

拙訳『吸血鬼カーミラ』は公開を終了しました。

(日本語訳)エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人事件(The Murders in the Rue Morgue)」(導入編)

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メアリー・エレン・ベスト「キャンドルの光でホイストを楽しむヨハン・アントン・サーグと三人の友人たち」。ウィキメディア・コモンズより。

今から二百年近く前に発表された「世界最初の探偵小説」と言われる作品です。「導入編」「事件編」「解決編」の三回に分けて訳出します。どうぞお楽しみ下さい。テキストはウィキソース版に拠っております(三ヶ所だけ他の版に拠る)。


サイレンがどんな歌を歌ったか。あるいはアキレスが女装して身を隠した際、どのような名を名乗ったか。これらは難解ではあっても、決して解けない問題ではない。――サー・トーマス・ブラウン

分析力はその結果からしかわからない。

分析力と呼ばれる知的能力は、それ自体は、分析を許さないものである。分析力はその結果からしかわからない。分析力に恵まれた人間は、それが異常に恵まれている場合、それは彼自身にとって常に大いなる快楽の源泉なので、われわれはとりわけそこから分析力について知る。たとえば筋骨たくましい人間が、筋肉を動かす運動をすることで、みずからの肉体的能力を楽しむごとく、分析家はもつれを解くという知的活動に非常なよろこびを感じる。彼はその才能を行使プレイへと導くどのようにつまらない仕事からでも快楽を導き出す。彼はなぞなぞ、とんち、象形文字を好む。その解決において示される洞察力は、通常の知性には超常現象的プリータナチュラなものに見える。方法メソッドの精髄によってもたらされたその結果は、実地では、まったく直観的な姿を取る。

チェス、ドラフツ、ホイスト

分析力は数学の研究によって、とりわけ不当にも、またその逆算的作業のゆえに、あたかも格別のものであるかのごとく、「解析学アナリシス」と呼ばれている究極の一分野の研究によって、大いに活性化させられ得る。だが計算は分析ではない。たとえばチェスの強い人は分析よりも計算を得意とする。従って、一般にチェスが知性に及ぼす効果については、大変な誤解があるということになる。私はいま別に論文を書いているわけではなく、ただまったく勝手気ままアット・ランダムな考察を述べることで、いささか特異な物語の前置きとしたいだけである。それゆえ私としてはここで、あの難解に見えて底の浅いチェスよりも、チェスほど派手ではないドラフツの方が、より決定的かつ有効に、分析的知性を刺激するものだと申し上げたい。チェスにおいては、それぞれの駒が異なった奇妙ビザールな動きをするし、駒の価値も種々様々でしかも変動するものだから、単なる複雑さが(よくある誤解だが)奥の深さと混同される。ここで強く要求されるのは注意力だ。一瞬でも気を抜くと、見落としをして、それが敗着につながる。考えられる駒の動きは多面的マニホールドかつ多重的インボリュートで、見落としの機会はこれを掛け合わせた数となる。そうして大抵の場合、読みの深い者ではなくて、ミスの少ない者が勝つのである。これに対してドラフツでは、駒の動きが単一でほとんどヴァリエーションがなく、勘違いをする可能性が低い分、単なる注意力にはそれほど用がないので、どちらの軍勢パーティが優位に立つかはもっぱら読みの深さにかかってくる。話をより非抽象化するとして――たとえばドラフツで、四つのキングだけが残った局面を想像しよう。もはや不注意によるミスを犯す心配はない。かくなる上は(両者互角の形勢として)深い読みの結果としての、ある絶妙ルシェルシェな駒の動きによってのみ、勝敗が決するであろうことは明らかだ。通常の戦力リソースを剝奪された分析家は、敵の心を読んでみずからをこれと同一化アイデンティファイさせ、これを失策もしくは早とちりへと導くところの盤上この一手とも言うべき手(時として馬鹿々々しいほど易しい手)を、往々にしてひと目で発見する。
ホイストというゲームは昔から、いわゆる計算力を養うものとして知られていて、知的な人々はチェスを浅薄なものとして遠ざける一方、これに一見不可解なほどの愛着を示してきた。確かにこれほど分析力を刺激するゲームはない。キリスト教世界で一番のチェスの名人は、チェスの名人以上の者ではないかも知れない。だがホイストが強い人は、知的闘争が繰り広げられるあらゆる仕事の分野において、目覚ましい成果を上げる能力があると考えられる。ここで「強い」というのは、不正を犯すことなく得点を稼げるあらゆる手段の根拠ソースについて通暁しているという意味だ。このもろもろの根拠ソースはただ単に多面多様マニホールドであるのみならず、多形多態マルチフォームでもあって、しばしば通常の知性にはアクセス不能な人間心理の深層に横たわっている。よく観察するとはよく記憶することもであって、その限りにおいては、チェスの強い人はホイストも強いはずで、なぜならホイルの法則などは(それがゲームの単なるメカニズムに基づいたものである以上)平均的な頭脳にも充分に理解可能だからだ。よって記憶力を鍛え、「定跡じょうせき」に従ってプレイすることが、上達への近道だと考えられている。だが分析力は単なるルールの範囲を超えたところで発揮される。分析家のもとへは、暗黙のうちに、多くの観察や推理が集まってくる。それは他のプレイヤーも同様かも知れない。そうして得られる情報の規模の差は、推理の当たり外れよりもむしろ観察のクオリティに起因している。何を観察すべきかを知ることが必要だ。分析家はみずからの心を解き放つ。ゲームを目的としながらも、ゲームにとって外的な事柄からの演繹も排除しない。彼はそれとなくパートナーの顔色をうかがい、相手チームのメンバーの顔色と比較する。各プレイヤーが配られたカードを見て、切り札トランプ絵札オナーの数をかぞえ、手札をそろえるやり方モードを眺める。ゲーム中、彼の注意を引くのはあらゆる顔の変化であって、確信したり、驚いたり、得意になったり、あるいは「しまった」と思ったり――そんな時に現れる表情の相違が豊富な情報を彼に寄せる。勝負トリックに勝った者が場札を片付ける仕草マナーから、その人物がもう一度同じスートで勝負をかけてくるかどうかがわかる。わざと弱い札を出す者の手つきからその魂胆を見破る。うっかり漏らしたひと言――一枚のカードをたまたま落としたり、表を向けてしまった場合、それをふたたび隠す際のあわてぶり、あるいは無造作さ――手札を並べ替えて、取れる勝負トリックの数をかぞえる様子――困惑、躊躇、積極性、警戒感――これらすべてが、彼の一見直覚的な認識方法に対して、戦況の実情を把握するための数々の指標を提供してくれる。初めの二、三ラウンドが済んで、皆の手の内をすっかり知り尽くした彼は、あたかも皆の手札が彼には丸見えであるかのごとく、目的達成に向けての絶対的な精度をもって、手札を切ってゆく。

空想と想像

分析力を工夫力と混同してはならない。分析力のある人間は必然的に工夫ができるが、工夫ができるからといって分析ができるとは限らない。工夫力は通常、物を組み合わせたり組み立てたりする能力として発揮されるので、似非脳科学フレノロジストたちは(私は間違っていると思うが)これを原初的な機能だと考え、これに独立した器官を割り当ててきたけれども、心理学者たちの一般的な観察によれば、この能力はそれ以外の知能がきわめて乏しい人たちにも認められるのである。工夫力と分析力との間には、空想と想像よりも大きな差があるが、この差異には類似したところがある。事実、工夫力だけの人間は例外なく空想家だが、真に想像力豊かな人間は必ずたくましい分析力に恵まれている。
以下の物語は、読者の目には、これまで述べてきた事柄の実際例コメンタリーのごときものと映ることだろう。

C. オーギュスト・デュパン

18――年の春から夏にかけてパリに滞在していた頃、私はC. オーギュスト・デュパン君という人と知り合った。この青年紳士は名家の御曹司だが、いろいろと不幸な出来事が重なって、資産のほとんどすべてが人手に渡ったことで、人生につくづく嫌気がさし、出世とか、お家再興とかいった志はもはやすっぱりと捨て去るに至った。幸い、債権者たちの厚意により、親の遺産が少しだけ残っていたので、そこから得られる利子収入で、質素倹約エコノミーに励みながら、余裕のない生活を営んでいる。本を買い漁るのが彼の唯一の道楽ラグジュアリーで、それはパリでは贅沢というほどのことではない。
われわれが出会ったのはモンマルトル街のある穴場的な貸本屋ライブラリーだった。そこでわれわれは偶然同じ珍書を探していて、すぐに親しくなった。何度も顔を合わせる機会があり、彼はいかにもフランス人らしく、おおよそざっくばらんに身の上話を聞かせてくれて、それは大変面白かった。また私は彼の博識に驚き、とりわけ彼の豊かな想像力には夢中になった。当時、取材目的でパリを訪れていた私は、このような男と親交を結ぶことは得がたい情報源になると考え、その気持ちを正直に彼に打ち明けた。その結果、私がパリにいる間、一緒に住もうということになり、私の方が経済的に幾らか余裕があったので、彼の許可を得て、私がお金を出して家を借り、そこに陰気な美しさを愛でる両者共通の気質に合った内装を施した。それはフォブール・サン・ジェルマンのとある寂しい一角にかろうじて突っ立っているグロテスクな邸宅で、よくは知らないが、何か不吉な言い伝えのために、長年空き家となっていたところだった。
この家でのわれわれの生活ルーティンが世に知れたら、われわれは人畜無害な狂人と見なされたことだろう。われわれは世を捨てたも同然だった。来客は一切受け付けなかった。私はかつての知人たちに自分の居場所を教えなかったし、デュパンはすでにパリの住人たちと交渉を絶って久しかった。われわれはふたりぼっちで生きていた。
デュパンには夜が好きだという変な癖(としか言い様がない)があって、私は彼の他の奇癖ビザルリーと同様、これにも黙って従った。すなわちまったく心を空しくして、彼の狂おしい気まぐれに身を任せた。しかるに「夜」という名の女神様は常にわれわれと共にいてくれるわけではない。ただし、彼女の滞在プレゼンスを装うことはできる。夜がしらじらと明けめると、われわれはこの古い家の薄汚い鎧戸シャッターを片っ端から閉めてゆく。そうして強い香りを仕込んだ二本の細ろうそくテーパーに火をけ、そのきわめて乏しい光を頼りに、読んだり、書いたり、言葉を交わしたりしながら、夢見心地で時を過ごす。そうするうちに時計が本当に夜が来たことを告げる。するとわれわれは昼間の話の続きをしながら、連れ立って意気揚々と外出し、このパリという大都会の狂おしい光と影の中を、静的な観察だけがもたらす無限の知的興奮を求めて、夜が更けるまで遠くさまよい歩くのである。
そのようなひと時、私は(彼の優れた美意識アイディアリティから期待されて当然のことではあったが)彼の特異な分析力に驚嘆せずにはいられなかった。彼はまたその披瀝ディスプレイとは言わないまでも、その行使エクササイズが楽しくて仕方ないらしく、そのよろこびを遠慮なく告白した。くっくと笑いながら「人いずくんぞかくさんや」とうそぶく彼は、あまつさえ、私がその時ひそかに考えていたことをずばりと言い当てて、そのような放言に追い討ちをかけた。そうした時の彼の態度はいつも冷やかで上の空アブストラクだった。目は死んでいた。その一方で彼の声は、いつもは低くて太くてよく通る声であるのが、甲高い声を張り上げ、発音の明瞭さと発言の意味の深さとで、かろうじて腹を立てているのではないことがわかるのだった。このような雰囲気ムードの彼を見ると、私はしばしば古代哲学の「霊魂二部分説」*1を思い浮かべ、創造的なデュパンと分析的なデュパンという、二重の人格を考えずにはいられなかった。

病める知性の為せる業

断っておくが、私が書いているのはミステリーでもロマンスでもない。私がこのフランス人について述べたところは、ある逆上した知性というか、ある病める知性のせるわざに過ぎない。とはいえそのような折ふしの彼の発言の性格については、一例を挙げて伝えるのが適切だろう。
ある晩、われわれはパレ・ロワイヤル付近の薄汚れた長い通りをぶらついていた。二人とも、外見上、考えごとに気を取られて、少なくとも十五分間は黙り込んだままだった。出し抜けに、デュパンが言った。
「確かにあの男は低身長だから、ヴァリエテ座の方が向いている」
「その通り」反射的にそう答えた私は(考えごとに没頭していたので)デュパンが私の内心を見抜いた異常なやり方について、初めのうちは気にも留めなかった。一瞬ののち、はたと気がついた私は、はなはだしく驚いた。
デュパン」私はしみじみと言った。「どういうことだ。私はしんそこ驚いて、自分の五感が信じられない。君にはどうしてわかったんだ、私が考えていたのが、あの――」私が誰のことを考えていたのか、彼には本当にわかっているのだろうか。確かめたくて、私は言いよどんだ。
「シャンティリィのことだと」彼はすらすらと答えた。「最後まで言えよ。君はシャンティリィのことを、あいつは低身長だから悲劇には向かないと考えていたんだ」
それはまさに私が考えていたことそのものだった。シャンティリィというのはもとサン・デニ街の靴直しの職人で、芝居好きが昂じて、先日クレビオンの『クセルクセス』という悲劇で主役を張り、熱演空しく酷評されたのだった。
方法メソッドが」と私は叫んだ。「いま私の心の中を読んだ方法メソッドが、もしあるのなら、知りたい」事実、私は言葉にならないほど驚いていた。
果物屋」と彼は答えた。「それが君をしてあの靴直しには、クセルクセスや、それと同種のすべての役を演じるには身長が足りないと結論せしめたのだ」
果物屋?何のことだ。まったく心当たりがない」
「十五分ほど前、われわれがこの通りに差しかかった時に、走ってきて君にぶつかった男だよ」
そこで思い出したのが、われわれがC――街から今いる通りへと差しかかった時、事実、頭の上に大きな林檎のかごを乗せた果物屋がたまたまぶつかってきて、それで私は危うく転倒するところだったのだ。だがそれがシャンティリィとどういう関係があるのか、私にはとんとわからなかった。
デュパンには詐欺師シャルラタンのような素振りはさらに見られなかった。「説明するよ」と彼は言った。「わかりやすいように、僕が君に話しかけた瞬間から、くだん果物屋との遭遇ランコントルまでさかのぼって、君の思考の経路を追跡してみよう。鎖の大きな環はシャンティリィ、オリオン座、ジョン・プリングル・ニコル、エピクロス、ステレオトミー、道の敷石、果物屋、という風につながる」
日々の暮らしの中で、自分の思考経路を反省するという経験をした人は多くはあるまい。それは結構面白いもので、初めてやってみた人は、出発点と到達点との間の距離と飛躍に驚くものである。それゆえ、このフランス人にこう言われて、それが当たっていることを認めざるを得なかった時、私がますます驚いたのも無理はなかった。彼は続けた。
「僕の記憶に間違いがなければ、C――街を抜ける直前、われわれは馬の話をしていた。それがわれわれが最後に交わした会話の話題だった。この通りへと差しかかった時、頭の上に大きなかごを乗せた一人の果物屋が、われわれのかたわらを急いで通り過ぎながら、舗道の修理中の一箇所スポットに集められた敷石の山の方へと君を突き飛ばした。君は転がっていた石の一つに足を取られて足首を少し痛め、いささか頭に来た様子で、ぶつぶつ言いながら、石の山の方を見て、それから黙って歩き出した。僕は何も君のすることに特に注意していたわけではないが、どうも近ごろ観察が癖になってしまってね。
「君はまだ暗い顔で下を向いて、道にあいた穴やら、車輪の跡やらを眺めていたから、まだ石のことを考えているのは明らかだった。そうするうちに、われわれはラマルティーヌ通りという小径にたどり着いて、そこの舗装は試験的にブロックを積み重ねてリベットで固定したものだった。すると君の顔が明るくなって唇が動いたので、この種の舗装方法の気取った呼称として用いられる『固体加工法ステレオトミー』という言葉をつぶやいたのだと僕は思った。僕の予想では、君はこの『ステレオトミー』という言葉から『原子アトミー』という言葉を、そこからエピクロスの原子説を連想するに違いなく、そうして最近この話題について論じた際、僕はあの偉大なギリシャ人の漠然たる推論が、実に奇妙な具合に現代の星雲説の確証するところと一致していて、しかもこの驚くべき事実に気づいている人が実に少ないという話をしたところだったから、君はきっと上を向いてオリオン座の大星雲を見るだろうと思って、ひそかに待ち受けていた。はたして君は空を見上げた。僕は君の思考のあとを正確にけているのだと確信した。ところで昨日『ミュゼ』紙に載ったシャンティリィに対するひどい悪口の中で、批評家は彼が悲劇に出るのに変名を使ったことに関する意地悪な言及をして、われわれが何度も話題にしたあるラテン語の詩行を引いた。すなわち、

Perdidit antiquum litera sonum
先頭の文字はその本来の発音を失った。*2

僕はこれが『オリオン』という単語に関する言及で、かつては『ユリオン』と綴られていた、という話をした。この話は結構刺激的な話だったから、君の記憶に残っているだろう。だから僕は君が『オリオン』という言葉からシャンティリィを連想するに違いないと思った。その時、君の口もとをかすめた微笑の性格を見て、はたして君がこの二つの観念を結合させたことがわかった。シャンティリィの悲運を思いやった君は、それまで少し前かがみになって歩いていたのが、急に背筋をしゃんと伸ばした。どうやらシャンティリィの身長のことを考えているようだった。そこで僕は君の考えごとをさえぎって『シャンティリィは確かに低身長だから、ヴァリエテ座の方が向いている』と言ったのだ」

 

 

*1:訳者注:アリストテレスの『ニコマコス倫理学』中の「霊魂には有理的部分と非有理的部分の二つがある」とする説への言及とのこと。

*2:訳者注:オウィディウス『祭暦』第五巻より。