わけのわからん「悪疫」情報に振り回される今日この頃、たとえばこんな小噺を読み返してみるのも一興かと。テキストは例によってウィキソース版に拠りますが、ウィキソース版はグリスウォルド編『ポー作品集』(1850年)に拠り、グリスウォルド版は『ブロードウェイ・ジャーナル』紙1845年6月19日号に掲載されたヴァージョンに基づいているということです。
- 「赤い死」は久しく国を荒らしていた。
- 外の世界などどうでもよい。
- この仮面舞踏会は見ものだった。
- 夢はその場に凍りつく。
- この仮装者は「赤い死」の患者に扮していた。
- 短刀が一閃とともに黒いカーペットの上に落ちた。
「赤い死」は久しく国を荒らしていた。
「赤い死」は久しく国を荒らしていた。このように致命的で恐ろしい感染症はかつてなかった。血が――血の色と血の恐怖とが――この病気の化身であると同時に極印だった。激痛があり、突然の目まいがあって、毛穴から大量に出血して死ぬ。罹患者の全身に現れる赤い斑点、特に顔の斑点は死相とされ、これが現れるともはや親しい人たちからも見放され、手当てを受けることも出来ない。そうして発症から死に到るまでの過程が、わずか半時間のあいだの出来事だった。
外の世界などどうでもよい。
だがプロスペロ公爵は賢者であり、勇士であり、幸せ者であった。感染症によって領民の人口が半減すると、彼はその宮廷に仕える騎士たちや貴婦人たちのうちから頑健で陽気な千人の同志を御前に呼び集め、この人々とともに、彼が所有する城郭風の僧院のうちの一つに移住し、厳重に隔離された環境のうちに引きこもった。それは広大にして壮麗な建築で、公爵自身の奇矯ではあるが立派な趣味の産物だった。強大な城壁がこれを取り巻き、城壁には鋼鉄製の城門が設けられていた。廷臣たちは中に入ると、小型炉と大ハンマーとを持って来て、閂を溶接した。彼らは誰かが外から侵入しないよう、また誰かが絶望や狂気に駆られて逃げ出さないよう、出入りの手段をなくすことに決めたのだった。僧院には食糧がたっぷりあった。このような用心をもって、宮廷人たちは感染症に戦いを挑んだのだ。外の世界などどうでもよい。また、内部の世界でくよくよしても仕方がない。公爵は快楽のためのあらゆる専用設備を用意していた。道化師がおり、即興詩人がおり、バレエダンサーがおり、ミュージシャンがおり、美女がいて、美酒があった。これらすべてと安全が内部にあった。外には「赤い死」があった。
この仮面舞踏会は見ものだった。
彼らが僧院に閉じこもってから半年ほどが経過し、外の世界では感染症の流行がピークに達していたころ、公爵は彼の千人の同志たちを、かつてない規模の仮面舞踏会でもてなした。
この仮面舞踏会は見ものだった。だがその前に、それが催された会場について述べておきたい。それは七つの部屋からできている最上級の続き部屋だった。しかし多くの宮殿では、そのような続き部屋は長く直線的な展望を形成し、間仕切りのための折りたたみ式ドアは左右両側の壁際まで退けられて、全体の見通しを遮るものはほとんどない。今のケースはこれとはまるで違い、それは奇想を好む公爵ならではのものだった。七つの部屋はきわめて不規則に並べられ、一度に見えるのはほとんど一つの部屋だけだった。二十ないし三十メートルごとに急な曲がり角があり、角を曲がるたびに新しい視覚効果が得られた。どの部屋の両側の壁の中央にも、細長いゴシック風の窓があけてあり、続き部屋の曲折に沿って延伸している廊下がそこから見えた。窓ガラスにはステンドグラスを用い、それは部屋の装飾の色と同じ色に着色されていた。たとえば東端の部屋は青で飾られ、窓の色も青だった。第二の部屋では装飾品や壁掛けの色が紫であり、窓の色も紫だった。第三の部屋は隅から隅まで緑で、窓もまた緑だった。第四の部屋は家具の色も窓の色も橙色で、第五の部屋は白で、第六の部屋は菫色だった。第七の部屋は黒色のビロードの織物で隙間なく覆われていて、それは天井から壁にかけて一面に広がり、幾重にも襞をなして、同じ色の同じ素材でできたカーペットの上に流れ落ちていた。しかしこの部屋だけは、部屋飾りの色と窓の色とが異なっていた。この部屋の窓は緋色、すなわち血の色をしていた。さて、この七つの部屋に散在したり、天井からぶら下がったりしているおびただしい黄金の装飾品の中に、ランプや燭台は一切なかった。続き部屋の中にはランプやキャンドルといった光源が何もなかったのである。ただこの続き部屋に追随している廊下には、すべての窓に面して、火鉢を乗せた大きな三脚台が立ててあり、その光が色付きガラスを通して射し込むことで、室内は燦然と照らし出されていた。こうして華麗にして幻想的な景観の数々が産み出された。だが西端の黒の部屋では、血の色の窓から黒い布飾りへと射し込む照明の効果がきわめて凄惨で、そこへ立ち入った者の顔が物凄い顔に見えるので、その領域に足を踏み入れるだけの度胸のある者は稀であった。
またこの西端の部屋には、壁を背にして、黒檀の大時計が設置されていた。この時計の振り子は左右に揺れながら、単調にして重厚な、鈍い金属音を立てていた。そうして分針が文字盤の円周を一巡して、時刻を告げるべき時が来ると、時計の真鍮製の肺臓からは高らかな深みのある鐘声が流れ出たが、その荘厳な響きには尋常ではないところがあって、それで一時間が経過するごとに、オーケストラのミュージシャンたちは一旦演奏を中断して時計の鳴る音に耳を傾けなければならず、それでワルツを踊っている人たちも旋回を止めるしかなくて、一時的に座が白けた。そうして鐘がまだ鳴り止まないうちは、乱痴気騒ぎに余念のない若い男女の顔も青ざめ、またいささか年配の落ち着いた人々にあっては、あたかも漠然とした夢想あるいは内省にふけるかのように、額に手を持ってゆく様子が見受けられた。とは言えその余韻が完全に消滅しまうと、明るい笑い声がたちまち会場に拡散した。そうしてミュージシャンたちは顔を見合わせ、あたかも自分たちの愚昧と小心とを嘲笑うかのごとく微笑んで、今度時計が鳴っても臆病風に吹かれないよう、小声で約束を交わすのだった。とは言え六十分(すなわち三千六百秒)後、次の時刻を告げる鐘が鳴ると、そこには先ほどと同じ興ざめと、戦慄と、沈思黙考とが発生した。
夢はその場に凍りつく。
それにしても盛大な舞踏会だった。公爵の趣味は変わっていた。彼は色彩と視覚効果の巨匠だった。単なるファッショナブルな綺麗事には用がなかった。彼のプランは大胆かつ熾烈なもので、彼の構想には野蛮な輝きがあった。彼の正気を疑う者もいたが、彼の信奉者たちは疑わなかった。彼の正気を確信するには彼の姿を見、彼の声を聞き、彼と直に接する必要があった。
この大饗宴に際して、彼は七つの部屋の飾り付けの大部分を指示し、また彼の指向する趣味によって、参加者たちの仮装の性質も決まった。それは異形に違いなかった。そこには『エルナニ』に見られるような燦きと輝きと刺激と幻想がふんだんにあった。手足と服飾品とがマッチしていないた異様な姿があった。狂人の装いのごとき悪夢もあった。多くは美しく、多くは淫靡、多くは奇抜、おっかないのもあれば、思わず目を背けたくなるようなものも少なからずあった。数かぎりない夢のような人影が七つの部屋を行きつ戻りつした。そうしてこの青、紫、緑、橙色、白、菫色の六色の光に照らされた夢と見紛う人々の波は寄せては返し、オーケストラの狂演は彼らの乱舞の反響かと思われた。そうするうちに黒の部屋の時計が時を打つ。そうして束の間、すべてが止まり、時計の音以外の音がしなくなる。夢はその場に凍りつく。しかしやがて鐘の音の余韻は消えて――それが続くのは束の間だったから――それに続いて明るい忍び笑いが起きる。ふたたびオーケストラが爆音を立て、あらゆる夢が息を吹き返し、彼らは以前にもまして嬉々として行きつ戻りつする。その姿はそれぞれの部屋の色を帯び、その窓からは三脚台の明るい光が射し込んでいる。しかし西端の部屋には今やまったく人がおらず、それは夜も更け、窓から射し込む光はいよいよ赤く、布飾りの黒い色は心胆を寒からしめて、そこに足を踏み入れた者に聞こえる時計の陰にこもった音は、他の部屋で遊びに夢中になっている彼らの耳に達する如何なる音よりも、より力強く、より荘厳だったからである。
この仮装者は「赤い死」の患者に扮していた。
しかし他の部屋はほぼ満員で、誰の心臓も力いっぱい鼓動していた。そうして宴もいよいよ酣のころ、遂に時計が十二時を打ち始めた。そうして以前と同様、演奏は中断され、踊り手の動きは止まり、一切が気まずい静止状態に陥った。しかし今回、時計の鐘は十二回鳴るのだった。そうしておそらくはたまたま、より多くの時間とより多くの思慮とが、いささか分別のある人々の心の中に忍び込んだ。そうしてそれがやはり、おそらくはたまたま、最後の鐘の音の余韻が消え去る寸前に、それまで誰の注意を引くこともなかった一人の人物の同席に多くの人が気づく暇を与えたのであった。そうしてこの新参者に関する噂はひそひそ話となって周囲に拡散し、それはやがては驚愕と非難、遂には恐ろしさとおぞましさと嫌悪の念とを示すどよめきとなって会場全体に広がった。
私がすでに描写したような妖怪の一集団においては、大概の仮装でこのような騒ぎが起きるわけがないことは容易に想像されよう。事実、この夜の仮装の自由は無制限に近かったのである。しかし問題の人物は外道中の外道*1であり、その夜の最低限のマナーさえ弁えていなかった。どんな命知らずにもそこを突かれれば平気ではいられない心の急所というものがあり、生きるも死ぬも等しく冗談でしかないようなならず者にも冗談では済まされない事柄がある。事実、今や一堂に会した人々全員が、この曲者の扮装と態度について、あり得ないと痛感しているように見えた。この人物は背が高くて痩せており、全身に白い死に装束をまとっていた。顔を隠している仮面は、硬直した死人の顔つきにあまりにも似ているので、如何に目を皿にして調べようともこれを偽物と見破るのは困難に違いなかった。ただこれだけなら、これを取り巻く正気を失った酔っ払いどもに、たとえ認められないまでも、耐え忍ばれたかも知れなかった。この仮装者は「赤い死」の患者に扮していたのである。彼の服は血に染まり、彼の広い額には、顔の他の部分と同様、赤い斑点が散りばめられていた。
この幽霊の姿がプロスペロ公爵の目に止まった時(そうしてその曲者は、あたかもみずからに振られた役柄をより忠実に演じようとするかの如く、踊り手たちの間をあちらへ、またこちらへと、ゆっくりと厳粛に闊歩していた)、彼は一瞬、恐怖あるいは不快感からか激しく身震いしたが、次の瞬間、彼の額は怒りで真っ赤になった。
「誰だ」公爵はかすれた声で近臣たちに尋ねた。「神をも恐れぬいたずらで俺たちを愚弄するのは。捕えて仮面を引き剥がせ。そうすれば日の出とともに、誰を吊るさなければならないかがわかるだろう、それも城壁からな」*2
こう述べた時、公爵は東端の青の部屋にいた。この声は七つの部屋のすみずみに響き渡った。なぜなら公爵は恐れを知らぬ逞しい男性であり、また彼の手のひと振りによって、ミュージシャンたちは演奏を中断していたからである。
短刀が一閃とともに黒いカーペットの上に落ちた。
この時、公爵は青の部屋にいて、そのかたわらには真っ青な顔をした近臣たちの一群がいた。当初、公爵の声を聞くと、彼らは曲者に向かって飛びかかろうとする気配を見せた。しかも曲者は彼らのすぐそばを悠々と闊歩して、公爵のもとへとますます近づいてきた。ところがこの曲者の物凄い形相がその場に居合わせた者全員の心に掻き立てた名状しがたい恐怖心から、誰も彼に手を出そうとする者はいなかった。それで彼は公爵の身体から約一メートルの範囲内をすんなりと通り過ぎた。また大勢の仮装者たちが、あたかも申し合わせたかのごとく、一斉に壁際へと退いて道を空けたため、彼は何物にも遮られることなく、彼が出現した当初から水際立っていた厳粛で規則正しい歩調を保ちながら、まず青の部屋を通り過ぎて紫の部屋へと向かい、次に紫の部屋を通り過ぎて緑の部屋に入り、次に橙色を訪れ、次に白へと進み、そうしてそこから菫色の部屋へと歩を進めるに到るまで、誰も意を決してこれを捕えようとモーションを起こす者はいなかった。ところがこの時、怒りに我を忘れ、また一瞬だけ臆病風に吹かれた自分自身を恥じる気持ちから逆上したプロスペロ公爵は、六つの部屋を駆け足で通り過ぎ、その間、これに従う者はなく、皆怖くて身動き出来ないでいた。公爵が抜き身の短刀を振りかざし、猛烈なスピードで、曲者の背後約数十センチの距離にまで迫った時、すでに黒の部屋の突き当たりまで来ていた曲者は、突然振り返って、刺客と向かい合った。絶叫が上がった。短刀が一閃とともに黒いカーペットの上に落ち、続いて絶命したプロスペロ公爵がその場に倒れた。そこで絶望に奮い立った酔漢の一群が、一斉に黒の部屋へと雪崩れ込んで、黒檀の時計のかげに屹立している背の高い人影に掴みかかり、狼藉のかぎりを尽くして剥ぎ取ったこの人物の仮面と衣装とが、実は如何なる形あるものによっても着用されていなかったことに気がついて、彼らは言語を絶する恐怖に息を呑んだ。
こうして「赤い死」の出現が明らかになった。彼は夜盗のごとくやってきたのだ。道楽者どもは一人また一人と、舞踏会場を血に染めながら倒れ、誰もが倒れた瞬間そのままの、死んでも死に切れない姿で死んでいった。最後の一人が息を引き取ると同時に黒檀の時計が止まり、三脚台の火が消えた。そうして「暗黒」と「腐敗」と「赤い死」とが一切の上に永く君臨するに到った。
*1:訳注:原文「暴君以上に暴君ぶる(out-herod Hero)」。シェイクスピアの『ハムレット』中の台詞から生まれた慣用句。ポーの好む言い回しの一つ。「メッツェンガーシュタイン(Metzengerstein)」参照。
*2:訳注:『グラハムズ・マガジン』誌1842年9月号ではこの後に「俺の言うことが聞こえないのか。捕えて服を脱がせろ、あの罰当たり者の赤く染まった服を!」