名作「黒猫」の姉妹編とも言うべき短編。併せて読まれることをお薦めします。原文はこちら。
人心の原動力とも言うべき心の動きについて考える時、見逃すことのできないある根源的で、原始的で、約分不可能な感情が存在する。だが近代の似非脳科学者たちは、従来の心理学者たちと同様、これを一つの心理傾向として認めていない。純然たる知的思い上がりから、われわれはこれをまったく看過してきたのだ。われわれがその存在を暗黙のうちに見過ごしてきたのは、もっぱら信仰心の欠如からであって、たとえば「黙示録」や「カバラ」の類を、われわれは端から信じないのである。われわれがこれを顧みなかったのは、ただ単にそれが大きなお世話に思われたからだ。われわれにはこの情動は要らなかった。その必要性がわからなかった。たとえこの原動力の概念が出しゃばることがあったとしても、これがその場かぎりにせよ、あるいは永続的にせよ、人間性に対してどのように寄与するものなのか、われわれにはさっぱりわからなかったのである。似非脳科学やすべての形而上学の大部分は、理論先行による産物である。よく物を見て理解する人ではなくて、頭でっかちで屁理屈好きの先生が、畏れ多くも「神」のみこころを拝察しようと試みたのだ。エホバの意図をこのように好き勝手に忖度したのち、この架空の神意をもとに、彼は無数の哲学体系を作り上げた。たとえば似非脳科学の体系においては、第一に、人間が食を摂るのは当然、神意とされる。それでわれわれは人間の脳の一部に「嗜食性」をつかさどる部位を割り当て、この部位は人間をして否が応でも食を摂らしめる「神」の笞と化する。第二に、種属の維持は神意であるという前提のもとに、「好色性」の部位がただちに発見される。同様にして「好戦性」「審美性」「因果性」「構築性」――要するに、心理傾向や、感情や、純粋知性を代表するあらゆる部位が脳に発見される。このような人的行為の大原則を整理する上で、ヨハン・シュプルツハイムの一派は、正誤を問わず、部分的に、あるいは全体的に、原則として彼らの先人たちの旧説を踏襲した。そうして「神」の目的だの、人間の運命だのに関する先入観を土台として、その上に一切を演繹し、打ち建てている。
彼らは神意として認められたものを基礎として分類するよりも、人間が通常、あるいは折に触れて為すこと、もしくは人間が絶えず折に触れて為すことを基礎として(是非とも分類しなければならないものなら)分類した方がより賢明でもあり、無難でもあったろう。この世の事物に「神」を見出せない者に、これを現わし給うた「神」の想像を絶する真意がわかるわけがない。外在的な被造物を正しく理解することで、われわれは初めて創造の内在的な意向や位相を窺い知ることができるのである。
似非脳科学は、もし経験主義的な帰納法に拠っていたならば、人的行為の先天的かつ根本的な原理として、その特徴をよりよく示す言葉がないゆえに今は倒錯性と呼んでおくところの、ある逆説的な何物かを認めるに到っただろう。それは動因なき動力であり、無動機の動機である。それが作用している間、われわれは理解可能な目的なしに行動する。あるいは、この言い回しが意味を成さないと言うのなら、われわれはこの心理傾向が作用している間、してはいけないという理由からそれをするのだ、と言い換えてもよい。理屈の上では、これは理由になっていない。だが実際には、これほど強力な理由はない。ある条件下のある精神においては、これはまったく太刀打ちできないものとなる。いかなる行為においても、その不当性を確信することは、しばしばわれわれ自身を駆り立てて、その行為の強行へと向かわせるところの唯一にして打ち克ちがたい駆動力と化し得るのである。また、悪のために悪を為そうとするこの圧倒的な心理傾向は、分析も、隠微な要素への分解をも許さない。それは根源的で、原始的で、元素的な衝動である。なお、われわれがその行為に固執するべきではないからこそ固執するのなら、それは似非脳科学のいわゆる好戦性に端を発するものの一変形に過ぎぬ、と言われるかも知れない。俺は言下に否と言う。似非脳科学のいわゆる好戦性の本質にあるものは、自己防衛の必要である。それは傷つかないための安全策なのだ。その原理は無事であることへの顧慮に存する。そうして無事でありたいという欲求は、好戦性の展開と同時進行で掻き立てられる。すなわち、好戦性の一変形に過ぎないあらゆる原理原則は、無事でありたいという欲求の興奮を常に伴っている。ところが俺がいま倒錯と呼ぶこの症状においては、無事でありたいという欲求は起こらないばかりか、無事であることを断固拒否する感情が湧き起こるのだ。
結局のところ、上のような反論に対しては、自分の胸に聞いてみろと答える他はない。自分自身と正面から向き合い、みずからを真摯に省みることのできる人は、件の心理傾向の完全なる原初性を否定することなど出来ないはずだ。その傾向は難解どころか、むしろ歴然としている。たとえば人間誰しも、時として、話し相手を婉曲話法によって憤慨させてやりたいという強烈な欲求を抱いたことがあるだろう。語り手は聞き手の機嫌を損ねることを知っている。実は聞き手の気に入りたいと願っている。彼はいつもは簡潔、明快、正確なのだ。すっきりした言い回しが喉元まで出かかっている。それを我慢するのは苦痛でしかない。本当は聞き手を怒らせるのが恐ろしくて嫌なのである。ところが一定の煩雑化もしくは語句挿入によって、聞き手をまさしく怒らせることができるかも知れないという考えが、ふと頭に浮かぶ。そのたった一つの考えだけで充分だ。衝動はいよいよ募り、やがては抑え切れない欲求となって、遂には(語り手にとってはまことに残念かつ無念なことに、あらゆる重大な結果を物ともせず)充足される。
スピーディに片付けなければならないある仕事が目の前にあるとする。遅延は破滅を招く。もっとも切実な人生の危機が、緊急の活力と行動とを要求して、喇叭を吹く。われわれは着手したいという願望にこの身を焦がし、輝かしい結果を思い描いて心を燃やす。今日取りかからなければならない。それはわかっている。にもかかかわらず、われわれは明日に延ばしてしまう。何故か。答えは倒錯の心理という他にはないのであって、今は原理に関する理解を欠いたまま、この語を用いる。次の日が来て、仕事をしたいという更に切なる願望が来る。だがこの願望が募るにつれて訪れるのはある名付けがたい欲求、すなわち仕事を先に延ばしたいという、測り知れないがゆえに空恐ろしい欲求である。時が経つにつれ、この欲求はますます強まる。行動を起こすべき最後の時が近づく。われわれの心は内面の葛藤に揺れる。それは確かなものと不確かなものとの戦い、影と実体との戦いだ。だが戦闘がここまで来れば、勝つのは影であり、われわれの抵抗は空しい。時計の鐘が鳴る。それはわれわれの希望の弔鐘であると同時に、亡霊にとっては暁を告げる鶏鳴だ。亡霊は退散する。われわれは解放される。われわれは今こそ働こうとするが、時すでに遅いのである。
断崖絶壁にたたずんでいるとする。崖下をのぞき込んで、めまいに襲われる。われわれはまず後退りしようとする衝動を覚える。不可解なことに、われわれは踏みとどまる。われわれの不快感、めまい感、そうして恐怖感は、次第に名付けようのない感情の一つの雲を混成する。それはさらに認識不可能なほどゆっくりと、魔神が出て来る魔法のランプの煙のように、物の形を取る。だがこの瀬戸際におけるわれわれの雲の中から現われる触知可能な一つの姿とは、おとぎ話の魔神などよりもはるかに恐ろしいものだ。それは一つの考えに過ぎないのだが、それでいて恐ろしい考えであって、その恐怖のよろこびの烈しさによって、われわれを骨の髄まで凍らせるものである。それはただ単に、こんな高いところから真っ逆さまに落ちた時の気分は如何なるものであろうか、というものに過ぎない。そうしてこの墜落による急死は、それがわれわれに想像できる限りのもっとも悲惨な死に様を想像させるがゆえに、それゆえにこそ、われわれは鮮烈にこれを求めるのである。そうして理性が強く阻止するからこそ、われわれはまっしぐらにぎりぎりのところへまで接近する。このように崖っぷちで身を震わせながら、飛び降りを企てている者の情熱ほど、魔性のごとく切羽詰まった性質のものはない。この場合、一瞬でも考えごとにふけることは、死に直結する。なぜなら思考は必ず回避を促すので、だからこそ回避できなくなるからだ。誰かそばにいる者が制止してくれない限り、またはただちに腰を抜かして、後ろ向きに倒れることができない限り、われわれは飛び降りて、死ぬしかない。
以上の例、または同様の例をかんがみれば、それがすべて「倒錯」の精の為せる業であることがわかるだろう。われわれはただただその過ちを犯してはならないからこそ、犯すのだ。これ以外に認識可能な原理などありはしない。これは紛れもなくサタンの直接的な唆しそのものだと見なし得るだろう――もしこの衝動が折に触れ、善行への促進として作用することがないとすれば。
以上に述べてきたところは、ある程度、あなたの疑問に対する回答、すなわち俺が今ここでこうしているわけの説明になっている。すなわち俺が今こうして鎖に繋がれ、独房で暮らしている理由について、少なくとも漠たる外観を有する何物かを供与するものとなっているはずだ。上のように長々と書かなければ、あなたもまた俺を誤解するか、その他大勢の人々と同様、俺を単なる狂人と錯覚しただろう。今はあなたもこの俺が、あの「倒錯の悪魔」の知られざる数多くの犠牲者のうちの一人に過ぎないことを、容易に理解して下さるだろう。
それにしても我ながら用意周到な犯行だった。何週間も、何ヶ月もかけて、俺は計画を練った。無数の案を破棄した。なぜならそれは少しでも発覚の恐れがあったからだ。やがて、あるフランス人の回顧録を読んでいて、マダム・ピローなる人が、誤って毒物が混入されていた蝋燭の煙を吸って、重体に陥ったという条を見つけた。これだ、と俺は思った。俺が殺そうとしている男にはベッドで本を読む癖があった。また奴の部屋は狭くて風通しが悪かった。だが自慢めいた話をくどくどと書く必要はあるまい。ここではただ奴の寝室の蝋燭立てにあった蝋燭を、俺が細工した蝋燭とすり替えるのに、何の苦労も要らなかったとだけ書いておく。翌朝、奴はベッドで死んでいて、検死官による判定では「自然死」とのことだった。
奴の遺産を相続して、何年かは何事もなく過ぎた。発覚の恐れは露ほどもなかった。死の蝋燭の後始末は、みずからの手で用心して行なった。俺は殺しで捕まるどころか、俺に殺しの嫌疑がかかるような手がかりを一切残さなかった。俺自身の絶対的な安全性を顧みる時、俺が味わった安心感のこころよさは筆舌に尽くしがたい。長きにわたって、俺はこの安心感を常習的に楽しんだ。それは奴を殺したことで手に入れた単なる世俗的な利益のすべてよりも、もっとリアルな快楽を俺にもたらしてくれた。だがやがてある時期が来て、その頃からほとんど認識不可能なほど漸進的に、この愉快な感情が執拗で、苦痛なものへと変わって行った。執拗だからこそ苦痛なのである。たとえばあるありふれた歌のリフレインや、つまらないオペラの一節が、耳の中で、あるいは記憶の中で、執拗に鳴り響いて、苦痛に感じることはよくあることだ。たとえその歌がいい歌で、そのオペラの一節が美しいものであったとしても、苦痛であることに変わりはない。このように、俺はとうとう気がつくと、「安心だ」という決まり文句を、絶えず口の中でモゴモゴと呟いているようになった。
ある日、通りをぶらつきながら、俺は例によって「安心だ」となかば声に出して呟いている自分に気がついた。癇癪を起して、俺はこれをこのように改変した。「安心だ――心配ない――俺が率直な告白をするほどの馬鹿でない限りは」
このような呟きをもらすや否や、頭から血の気が引くのを感じた。俺は例の倒錯の発作(その性質については上にいささか駄弁を弄して説明した)の際に、何度かこの感覚を経験したことがあって、俺の記憶の限りでは、俺はこの衝動に抵抗できた例がなかった。そうして今やこの何気ない自己暗示、すなわち俺は自分で自分の罪を暴露するほどの馬鹿かも知れないという自己暗示が、俺が殺してやった男の亡霊そのもののごとく、眼前に立ち現れ、手招きした。
初めのうち、この妄想を振り払うべく頑張った。俺は大手を振って、大股で、元気よく歩いた。俺の歩調は速くなり、速くなり、いつしか俺は駆け出していた。大声を上げたい渇望を感じた。考えの波が、新たな恐怖とともに、次から次へと押し寄せてきて、なぜならこの場合、考えることは身の破滅を意味したからである。俺は止まらなかった。混雑した大通りを、狂人のように、人を突き飛ばしながら走った。やがて大勢の人々が驚いて、後を追ってきた。もうお終いだ、と俺は思った。出来るなら、舌を引っこ抜いてしまいたかった――だがその時、俺の耳もとで乱暴な声がして、さらに乱暴な腕が俺の肩をつかんだ。俺は振り向いて――息をのんだ。一瞬、息ができなくなって、断末魔の苦しみを覚えた。目の前が急に暗くなると同時に、姿なき悪魔の大いなる掌が、俺の背中をドスンと叩いたような気がした。心の底に押し込めていた秘密が、口を衝いてほとばしり出た。
聞いた話では、俺は発音は明瞭ながら、非常に強い語調をもって、早口でまくし立て、その短いけれども聞き捨てならない自供の要点を、邪魔されずに、最後までしゃべり切ろうと、あたかも死に物狂いであるかのように見えたそうだ。
死刑になるために必要なことをすべて口走ると、俺は気を失って、うつぶせに倒れた。
もう言い残すことはない。今日、俺は鎖に繋がれてここにいる。明日、俺は鎖を解かれ、そしてどこにもいなくなる。