魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

(日本語訳)トマス・フッド「溜息橋(The Bridge of Sighs)」

ジョージ・フレデリック・ワッツ「水死体」。ウィキメディア・コモンズより。

また一人
 幸薄き者が
 世をはかなんで
みずから命を絶った

抱き起こしてやれ
 抱き上げてやるがいい
 この美しい
薄着の少女を

死に装束のごとく
 体にからまった服
 すべてびしょぬれ
水がだらだら垂れる
不快がらずに
 抱き上げてやるのだ

大切にあつかうのだ
今はただ彼女のことを
 痛ましく思いながら
過去は洗い流された
今の彼女に残っているのは
 純粋ピュアな女性らしさだけだ

彼女の行ないを
 早まったとか無責任だとか
今は責めてはならない
すべての恥はすすがれた
「死」が彼女に残したものは
 ただ美しさのみ

イヴの末裔の一人
 そのあやまちはしばら
 今はただ泥だらけの口もとを
きれいに拭いてやれ
髪をまとめてやれ
おどろに乱れた
 明るい赤毛の髪を――
 それにしても それにしても
彼女の家はどこだ

父親は誰だ
 母親は誰だ
 兄弟はいるのか
姉妹はいるのか
それとも彼女には
 もっと身近で頼りになるひと
誰か他にいたのか

ああ この時代
 世人の人情の
何と薄いことか
ああ かわいそうに
この大都会ロンドンで 彼女には身を寄せられる
 一軒の家もなかったのだ

兄弟も姉妹も
 父親も母親も
心が変わったのだ
信じていた彼氏も
 いざとなると気が変わった
神の摂理さえ
 背を向けたかに見えた

遠く川面に映る
 ともしびを眺めながら
川辺の家並みの
 屋根裏部屋から地下室にかけて
あらゆる窓の光が
 川面にゆれるのを眺めながら
彼女は一人で立っていた

彼女をふるえさせたのは
 三月の寒風であって
 暗いアーチでもなければ
黒い水でもなかった
過去に心乱れて
死の神秘に魅せられて
 彼女はひと思いに旅立ったのだ
どこでもいい どこでもいいから
 この世の外へ*1

川の水がいかに冷たかろうと
 もうかまわなかった
 彼女は果敢に飛び込んだ
欄干を乗り越えて
思ってもみろ 考えてみろ
見下げ果てた「人間」よ
 浴びてみろ 飲んでみろ
やれるものならやってみろ

抱き起こしてやれ
 抱き上げてやるがいい
 この美しい
薄着の少女を

彼女の冷たい手足が
 硬直してしまわないうちに
 優しく 見映えよく
直してやれ 整えてやれ
そうして大きく見ひらいた目を
 そっと閉ざしてやれ

泥にまみれながら
 見ひらいたその目は
最後の瞬間のまま
 絶望の彼方に今も
未来を凝視している

周囲の無理解と
 薄情な世間と
狂気とに駆り立てられて
 みずから命を絶ち

今は眠っている彼女
その左右の手を胸の上で
交差クロスさせてやれ あたかも無言の
 祈りを捧げているかのように

みずからの弱さと
 あやまちとを認め
 一切を「主」にゆだねて
裁きを待っているかのように

*1:原文 ‘Anywhere, anywhere / Out of the world!’ 。ボードレールはここから自作の散文詩のタイトルを採った。