表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
表紙絵について
岩井三四二『天命』(光文社)を読了して。
先ずは表紙絵をご覧下さい。戦国時代の戦場です。夥しい数の斃れている軍馬、兵士、そして大地に突き刺さったまま翻っている旗指物(?)。無事なのは変わらないのは、立派な鎧具足を身に着けた大将一人、遠くに見える山並みのみです。何という荒涼たる風景ではありませんか!
この荒涼たる風景が日常さほど珍しくなかったであろう戦国時代、“西の覇王”と謳われた毛利元就(1479年・文明11年~1571年・元亀2年)。父毛利弘元は安芸北部の弱小国人でありました(享年39歳)。そこの次男坊として生まれたため、元服して分家の立場だった元就ですが、兄興元の急死(享年24歳)のため、21歳にして、緊急の予定外の当主登板となりました。当主着任スタ-トの時点でかなり大変な状況です。
いわばマイナスからのスタ-トです。実際に重臣たちに侮られ、煮え湯を飲まされることもたびたびありました。次男坊故か、興善寺で3年間修業を積み、本人も兵法書はかなり読み込んだが、実戦経験はなし、但し筆まめとの人物がどの様に変容していったのか?本人の生来の資質とはかけ離れた使命(毛利宗家を束ね、油断ならない外敵と知略を用いて戦う)をどう果たしたかを読み解く長編歴史小説です。
初陣
先ずは、元就が安芸の国猿掛城の城主として、毛利宗家1000人を率いて3倍の武田元繁の軍と戦います。所謂中井手合戦です。元就が直接日頃把握している人員はたかだか50人程度です。また沢山の武将が出できて、年若い元就に向かってそれぞれ言いたいことを言います。凡そ兵法書には、3倍の敵とどのようにして戦えと書かれていましたか?とまあ嫌味とも何とも判別のつかない問い掛けですね。家臣たちの進言する籠城戦を退けた以上、元就は、中井出合戦に勝たねば明日はありません。往生して溝に落ちた猫のように青い顔をしている元就に、亡父の側室(元就の養母でもある)の通称お方様が「そなたの今の様は、父上にそっくりだ。父上は雪隠へ行って『我は大江広元の子孫なり、我は義経なり』と繰り返し唱えて雪隠から出てくると何事もなかったように勇猛に出陣して行かれましたよ」。
その言葉とお方さまの包み込むような微笑みにリラックスした元就は、まず矢を使った緒戦に勝ちます。すると周囲の重臣たちも現金なもので(この若殿は使えると見たのか)志道上野介広良が、父広元の代から使っている琵琶法師勝一(間諜)を元就に紹介する。勝一は敵武田元繁の容貌・人となり・これまでの戦い方などを元就に語ります。価値のある情報が手に入ります。元就は勝一に謝礼(銀)をはずみます。また「これからも仕えてくれよ」の一言も添えます。
かくて兵数3倍の武田勢を打ち破った大将となった元就は、婚礼を挙げます。この縁組には渡辺太郎左衛門・福原左近・坂長門守など重臣たちも賛成しています。
こうして、初陣に勝利した元就は、妻を娶り、領主・毛利宗家の後見人としての道を歩み始めたのでした。
元就、月山富田城の戦いで天命を知る
45歳になった元就は、従来の力関係から大内氏に加担、尼子氏の難攻不落の名城月山富田城を攻めることになります。元就の居城郡山城からは、30里(120キロメートル)ぐらいでしょうか?
自然の要害月山に守られた月山富田城です。進軍後攻め落とすのにはどれ程の時間が必要なのでしょうか?物を知らない筆者も思わずため息が出ます。しかも戦に必要な経費は毛利家持ちです。どうしても厭戦ムードに囚われてしまいます。
更には、大内氏の猛将陶隆房は、京羅木山へ本陣を張ります。攻めあぐんだ武将たちは、酒盛りや連歌に時間を費やします。そうこうするうちに琵琶法師の角都がやってきます。富田城の背後に間道があり、人がかなり出入りしている。これは背後の伯耆に内通を誘っているのではないのか?これは大内氏との軍議で退けられた元就の「伯州口を押さえることが肝心」との主張とほぼ一致します。はたして岩見の国人衆の裏切りに遭い、元就は退き陣を強いられます。しかも殿軍です。追撃する敵軍を撃ちながら退却せよとの陶隆房からの下知です。
最悪なことに大雨に重い甲冑と負傷者多数の敗走、絶望的な状況です。
さすがの元就も息子隆元も、辞世の句を詠む間もなく、雑兵に打ち取られる前に切腹を覚悟します。近習に介錯を促します。その窮地の元就父子を救ったのは「それがしが殿の身代わりとなります。その隙にお逃げください」と元就が脱ぎ捨てた兜と胴丸を身に着けた渡辺太郎左衛門でした。次の瞬間には郎党6人と共に走り去りました。実は渡辺太郎左衛門の実父は昔異父弟相生三郎の謀反に連座した科で、元就に成敗されています。いわば実父の仇です。そのような相手を、自分の身命を賭けて救うのでしょうか?
富田城の戦の3年後、正室ひさ、養母の大方さまを亡くした元就は、退き陣の窮地を救ってくれたのは、渡辺太郎左衛門の姿をした「天」なのだと、自分が今ここに生きていることこそ「天命」なのだと確信する。「天命」を知って、やりたいことをすることが、渡辺太郎左衛門に応えることになると決心をします(勿論渡辺太郎左衛門の子供をとりたてて、仕えさせ、金銭的にも報いている)。
天命とは何か
50歳で天命を知った元就は75歳で没するまで隠居せず、やりたいことする為に邁進してゆきます。やりたいこととは何でしょうか?
3人側室を持ち、各々に子供を産ませていますから、家族を得ることもやりたいことの一つだったのでしょう。
元就が“西の覇王”にまでなりあがったのはなぜか。長男隆元の苦しい胸の内、次男吉川元春、三男小早川隆景の人間味あふれる描写もお楽しみ下さい。
長くなりましたが、毛利家の人たちの人知れずの苦悩や、戦国時代の小領主の武家の習慣や戦での駆け引きや、毛利元就?日本史にちょっと習ったけど誰?の方、戦記物好きの方にお薦めします。表紙絵を見ての方もぜひお薦めします。
一天一笑