魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

伊東潤『天下を買った女』

銀閣雪景。ウィキメディア・コモンズより。

表題の歴史小説につきまして、一天一笑さんから内容紹介をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。なお日野富子については岩井三四二の短編集『室町もののけ草紙』もご参照ください。


伊東潤『天下を買った女』(角川書店)を読了して。
戦国時代に移行する原因の一つとされる応仁の乱(応仁元年~文明九年、西暦1467年~1477年)を生き抜き、八代将軍・足利義政銀閣寺を建てた人)の正室としての矜持を保ちつつも、日野家の女として、姑にして大叔母の日野重子(六代将軍・足利義教よしのりの側室)の遺言を実行しながら、天下静謐を祈願した日野富子の人生を、伊東潤ならではの視点から描きます。
すなわち花の御所に住み、応仁の乱の発生原因に関わりながら、終戦工作も図った手腕。息子の九代将軍・義尚よしひさには口うるさい、いささか支配的(?)な母親。夫・義政に対しては、その常識の無さ、人の心を解さない無神経さに苛立ちながら、別居しながらでも見捨ない寛容の態度を最後まで貫きます。ぶれません。
元来、日野家は、三代将軍・義満(尊氏の孫)に日野業子なりこ正室として嫁ぎ、業子の死後は、姪の康子を継室とした。それにより、日野家の娘は足利将軍家に嫁ぐことが慣例となった。なので、富子も自分が義政に嫁ぐことを受け入れていた。しかし、祖父・日野義資よしすけが六代将軍・義教の命により、所領没収の上、「公方くぼう御沙汰」され、父・重政も、命からがら出家するより他なかった。しかし義教の側室だった重子が、二人の男児を生み、義教が嘉吉かきつの乱で暗殺されると日野家の勢いは息を吹き返す。
没落した日野家は長く将軍家の家政を担ってきた。そこから得る人脈だ。出入りの商人や建物修繕の職人・大工。そして祝い事に必要な猿楽師等だ。所謂下賤の者らだが、彼らが富子の蓄財術に欠かせない存在となる。
後日、富子が女児三人を出産後、最後に男児・義尚を生んだのも、重子を見習ったのかも(当時の男児と女児の価値に大差があるのが垣間見えます)。

後宮の陰謀

姑の重子と兄の日野勝光かつみつは、富子の死産を契機として、自分たちの存在を脅かす義政の乳母・今参局いままいりのつぼね大舘おおだち氏)と気脈を通じている三人の側室を御所から追放する策を実行に移す。
今参局の縁戚の住持が、御台所呪詛の調伏を行った証拠と証人(寺男)を探し出し、今参局を捕らえ、侍所さむらいどころ所司しょしで審判を下した。今参局は、琵琶湖・沖ノ島へ配流。三人の側室は、御所追放となった。だが、今参局は護送の途中、休憩した寺で切腹して果てる。何とも凄まじい最期だが、今参局がこの世の最後に何を願ったのかは誰にも解らない。

鞍馬寺の塔修繕の勧進

武家の棟梁としてよりは公家として成長した義政は政治に関心がなく、寛政の大飢饉(1460年)にも構わず築庭に熱意を燃やす。呆れた富子は自分が“天下静謐”の為に役に立たねばと思った。折しも、日野重子が病没し、富子は一層日野家の女として足利家を支えることを誓う。
折しも、鞍馬寺が塔の修繕費の寄進を願っているとの情報を得た富子は、重子の教えに従い、種銭を作り、銭に銭を稼がせる方法を実行に移す。日野家代々の人脈を生かして、三日間の勧進猿楽興行を打った。塔の修繕費や必要経費を除いても、かなりの実入りが残った。
最終日に夫・義政は男子のいない自分の跡目を、天台宗浄土寺門跡もんぜき義尋ぎじんを還俗させ、継がせると言い放った。何の相談もなく、富子のメンツ丸潰れだ。“男子を産めない御台所”と夫に決めつけられたのだ。
程なく、義尋は、足利義視よしみと名乗り、還俗する。

伊勢新九郎の登場

富子と勝光は本格的に理財を学ぶべく『東班衆』の普海に教えを乞うが、「私より適任がいる」と言う。つまり自分の立場上、将軍家御台所と行き来するのは差し障りがあるとの判断だ。
そこで伊勢新九郎の登場だ。まだ十代の北条早雲だった。
子供とは思えぬ勘のよさ、柔軟且つ明晰な頭脳の持ち主だった。若き日の北条早雲は物事の飲み込みが速く、将軍家御台所としての胆力を身に着けつつあった富子と知性や教養を補い合いながらも、経世済民の理念をこの世に実現させようと奮闘する。
その他、足軽組を率いる骨皮ほねかわ道賢に裏の仕事を任せる。
だが、時運に恵まれず、応仁の乱は治まらない。西軍の山名宗全そうぜんや東軍の細川勝元が病没(?)しても終戦の気配は無い。京都全域には厭戦気分が蔓延していても、停戦協定は誰も試みない。静謐を願う富子は、自ら和解案を手詰まり状態の義視に提示し、纏め上げる。

女としての人生

夫・義政は側室を持つことにも疑問を持たず、趣味の作庭の費えも、事もなげに“段銭たんせんを民に掛ければよいではないか”という有様だ。まさに「貴人、情を知らず」。
人の心情を思いやる等は義政の教育カリュキラムには無かったのだろう。常に自分が最優先されて当たり前なのだ。和歌が詠めても、人間としてはいびつである。
そして、宮中の噂にもなった、後土御門ごつちみかど天皇との恋。帝への慕情は真実だが、お互いの立場も大事だ。

息子・義尚は、“将軍”の地位の重さに翻弄され、無理筋に近江に出陣し、酒に溺れ、二十三歳で陣没する。
延徳二年(1490年)一月に義政が病没すると、富子は落飾する。前後して義視の息子・義材よしきが十代将軍として即位する。

関心のないことからは逃げる癖を持つ夫・義政に代わり、天下静謐を旨に辣腕を振るった日野富子の生涯をお楽しみください。
天一