魔性の血

拙訳『吸血鬼カーミラ』は公開を終了しました。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の五

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「雪の京都-愛宕神社本殿」。ウィキメディア・コモンズより。
⑧五月二十七日、愛宕神社に参詣

光秀の希望に反して、みことのりは出ないと決まった。光秀は翌日、長男光慶みつよしを連れて、愛宕あたご山頂の愛宕神社を参詣する。肚を括れない光秀は悩む。やるかやらないか、それだけだが悩む。
自分は天皇が滅ぼされても、今まで通り、信長に犬のように仕えるのか。仮に蹶起して、しくじったとしても、朝廷は頬かむりを決め込むことだろう。そうしたら問答無用で八つ裂きだ。
そうまでして天皇に義理立てすることはないではないか。結局、どちらに賽を振るか、決められない。
何時になく、明智軍一万五千の軍勢の喧騒が気に障って仕方がないので、愛宕神社に参詣を決めた。落ち着いて自分らしい道を選択したかった。
社殿に到着した光秀は、社務所前で巫女に声を掛けた。
くじを引かせてもらうぞ」
巫女は、光秀の告げた番号の籤を差し出した。受け取った光秀の顔色が変わった。籤は“凶”。
上ずった声で言った。「もう一度だ」光秀はあらためて籤を引いた。巫女が番号を読みあげた。光秀に籤を差し出す巫女の手が細かく震えている。再度“凶”だ。
もはや光秀は、籤遊びを楽しむ心のゆとりを失っていた。気味が悪い。天皇を守る為に信長を討つ。それは私心からではなく正義のためだ。なのに神はそれを”凶“だというのか。光秀は、自分が愚弄された気持ちになった。何かが間違っている。「もう一度」結局三度、籤を引いた。”吉“が出た。
心なしか、巫女がほっとした表情をした。光慶が「父上、大丈夫ですか?」と声をかけ、何か怖いものを見ているような視線を、父光秀に向けた。光秀は長男光慶の視線で、やっと自分の異常な精神状態に気が付いた。
「何でもない、何でもない」
光秀は手にした籤を、細かく千切り、風に飛ばした。そしてやっと微笑んだ光秀に声をかけた人物がいた。
「これは日向守さま。お越しなるなら一言お声かけ下されば」
行祐ぎょうゆう法印だった。
「いや、ついぶらりと来てしまいました。そう言えば、法印どの、今夜一晩ここに泊めていただけませんか。少々静かに考えたいことがあるので」
「それは勿論結構です。では早速仕度させましょう」
かたじけない」
光秀は一人静かに愛宕神社の奥の坊に入っていった。
光秀は思った。詔勅が出ないなら神を頼ろうと、籤を引いたのは己の弱さだ。凶ならば凶の極みで、打倒信長を果たすまでだ。自分に私心がないというのは、やはりきれいごとだ。その裏に隠れている“覇道”(天下簒奪さんだつ)の心を認め、主殺しも成し遂げてやる!と迷いを振り切った。そして明日、自分が主催する戦勝祈願の百韻連歌の発句を考えた。光秀は句の中に“天皇”を仄めかす言葉を詠み込みたいと思った。ハッキリそれとわからなくても、神に通じればそれでいいのだ。
光秀は集中し、用意してあった和歌の腹案と、お手本にする和歌を頭の中で手繰り寄せた。後醍醐天皇

さしてゆく笠置かさぎの山を出でしよりあめが下には隠れ家もなし

を参考に、予てからの腹案どおり、『太平記』に出てくる楠木正成なぞらえようと思った瞬間、思わず口をいて出た。

時は今 雨がしたしる 五月さつきかな…

⑨五月二十八日、愛宕百韻を開催

翌朝、光秀は気持ちよく目覚めた。朝風呂に入り、湯漬けと香の物の朝食を済ませた。
連歌会の面子は、宗匠の里村紹巴じょうはとその弟子の昌叱しょうしつおよび心前、連歌師猪苗代いなわしろ兼如、更に愛宕神社の住持・行祐法印など全部で九人です。
先ず光秀が筆を執り、用意した発句を短冊にしたためた。

時は今 雨がしたしる 五月さつきかな

何とも不思議な空気が座を流れた。光秀はその雰囲気を意に介さず、泰然としていた。
「ではわたくしがいただきましょう」
行祐法印が手を挙げた。

水上みなかみまさる 庭の松山

それに紹巴が続けた。

花落つる 池の流れを せきとめて

光秀の雨からの連想で水に関連した句がつけられた。連歌は、途中、夕食休憩をはさんで続けられ、百首まで詠み終わりました。最後の句は、里村紹巴の

国々はなほ のどかなるとき

の歌でした。
百首は、無事に神社に奉納され、後は宴会となった。宴会で紹巴は、光秀の発句「雨がしたしる」の着想は、何処で得たのかをさかんに尋ねていた。しかし光秀は、静かに笑っているだけだった。暗号とは本来そういうものだ。事後、あれはそういう意味だったと気が付く。
参加者の誰しも、光秀の発句は意味ありげだと思ったろう。後に里村紹巴は、光秀の発句を微妙に改竄している。改竄部分の「雨がしたしる」と「雨がしたなる」の真贋は、どちらが光秀の本当の発句なのか、誰にも判らない。(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―