魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の四

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勧修寺宸殿。ウィキメディア・コモンズより。
⑥光秀、坂本城に帰還する(五月二十四日)

朝廷の動向が気に掛かり、心落ち着かない光秀は、長男の光慶みつよし(通称十五郎)を連れて山の中腹にある射撃場へ訓練に行きます。的に集中した光秀は、全弾命中させます。息子の成長ぶりも確かめて明るい気持ちになりました。帰着早々、“伏見の稲荷”と名乗る、細い体に吊り上がった目の男が面会を求めて庭先で待っていました。男は近衛前久の結び文を光秀に手渡します。内容は、亀山に入城の折、山科・観修寺かじゅうじにおいでいただきたい、です(明智軍の機密情報が把握されている)。光秀はいささか気味の悪さを感じながらも、独り言を言い、思いをめぐらします。「山科・勧修寺・・・」
山科は京都の南に位置するので、坂本から亀山の経路を取ると、迂回することになる。もし勧修寺が反対しているなら、詔勅が入手できる可能性は低いが、行ってみる価値はある。隠密行動を取る。光秀はそう決意すると、内蔵助と左馬之助に「明日出陣する」と告げた。光慶に影武者右助の存在と役割とを説明して納得させた。又光秀自身は、左馬之助に軍を任せ、山科へ赴くため、斎藤内蔵助を供に出発する。当然光秀の山科行きは秘密で、合流地点は老いの坂、沓掛あたりと決めます。約百騎の明智軍は、亀山城を目指して出発しますが、小休止のタイミングを見て、光秀主従は、遠乗りにでも出るように笠を目深に被り、軍を離れました。

⑦光秀、山科で近衛前久と勧修寺尹豊に会う(五月二十五日)

山科・勧修寺に到着し、近衛に取り次ぎを頼むと、すぐに奥に通されました。
「ご足労おかけしました。明智殿に是非ともお会いいただきたい方がおられまして、お呼びしました」
近衛前久は、更に奥の座敷へと光秀を案内します。そして、手際よく光秀に勧修寺尹豊ただとよを紹介します。
「こちらは、前の内大臣・勧修寺尹豊さま。今は入道されて、紹可上人とおっしゃいます」
錦の法衣をまとい、鎮座している人物は、余程の高齢とみえて、体は縮み、皮膚は土気色をしている。
「あんたが明智さんか」
強い京訛りの、聞き取りにくい、枯れた声で話しかけてきた。
「惟任日向守光秀と申します」
老人はゆっくりと頷いた。
「近衛相国しょうこくから話を聞いた。信長は天皇を潰すつもりだそうだが、確かなことか」
「確かなことです」
光秀は毅然とした態度で返答した。勧修寺尹豊は光秀の目の色を注意深く伺いながら言った。
「信長はキツイ男だ。帝を廃絶する等、無理無体なことも確かにやりかねない」
「もはや、一刻の猶予もございません。時を移せば二度と好機はありません。やるなら今」
「まあ落ち着きなさい。それはそうとして、あんたに聞きたいことがある。望みは一体何か」
「まず天皇からお言葉をたまわること」
みことのりか」
「はい」
「しかし、私が聞きたいのはそういうことではない」
「と言われますと」
「あんたの言い分は九分九厘間違いないと思う。けど問題は残りの一厘だ。その一厘がどうしても腑に落ちない。一体あんたは、私たちの敵か味方か?織田家家臣のあんたが、帝の側に立って信長を討って何の得があるのか?」
「それは・・・私は只国を思う一心から申し上げているのです」
「うむ・・・今時そんな人がおるのか。あんたは少し変わったお人のようだな。あんたの言葉に嘘はなさそうだが、それではまだ足らん」
「ではどうしろと」
「私にも分らない。言葉だけを信じるわけにはいきません。信長が天皇を潰すなら潰すで、何かしら口実が要るだろう。暦の問題もその一つ。そこにあんたの言うとおり『信長を討て』と詔勅を出したら、信長は、それが帝を討つダメ押しの口実とするのと違いますか。あんたが敵か味方かハッキリしないのに、下手に詔勅は出せません。あんたが敵だったら尚更」
「ではこのまま手をこまねいておられるおつもりですか」
「さあ、そこだ。あんたが真に国のためというのなら、天皇の詔がないと、国のために働けないのか」
「それは・・・」
「黙って信長を討って下され。その後ならば、如何様にも協力しますよ」
「しかし・・・それは虫がよすぎやしませんか!」
「確かに虫のいい話だが、どうしてもそうしてもらわなければ、我らが困る」
詔勅は?」
「無理だ。諦めてください」
「・・・」
「相国」
勧修寺尹豊は、視線を近衛前久に移して言った。
「宮中を退いてから、こんなに気骨の折れる話し合いをしたのは初めてだ。明智さんにもう引き取ってもらうわけにはいきませんか。少し疲れました」
近衛前久がそっと光秀に近づいた。光秀は深く礼をして立ち上がった。
近衛は言った。
「あまりお力落としにならないように」
部屋を出て、渡り廊下を歩く間、近衛は光秀の後をついてきた。
詔勅もですが、今度のことは話だけでも帝に伝わっているのでしょうか」
「帝には話してありません。只帝の非常に近い所には話を通してあります」
「帝に近い所とは?」
誠仁さねひと親王です」
誠仁親王・・・」
近衛前久は、玄関まで光秀を見送って深々と頭を下げた。光秀は寺を辞した。
才人の光秀も、立場の違う公家たちを論破することは出来なかった。

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誠仁親王像。ウィキメディア・コモンズより。

光秀の傍に寄った内蔵助が尋ねた。
「この寺には、どのようないわれがあるのでしょうか」
「謂れなどない」
失意の光秀は憮然として答えた。不機嫌に押し黙ったまま、鬱蒼とした竹林に分け入った。竹の葉を揺らして風が音を切った。その時、光秀は風の音に驚いて顔を上げた。
「この辺りは何という地名か分るか」
「いえ、近くの住人に尋ねてみましょうか?」
「それには及ばぬが・・・私はこの場所を前から知っている気がする。この道を曲がったあたりに石仏があるはずだ」
何時にない光秀の謎めいた言葉に、内蔵助は背筋が寒くなった。光秀は足を止めて、辺りをぐるりと見渡し、何も無いことを確かめると、軽く笑った。
「やはり、夢は夢だな」
光秀は、大事を前にして、ほんのひと時、得体の知れない感傷に捕らわれた自分自身を恥じて、半ば無意識にいつもより多く馬に鞭を入れた。その日の夕刻、沓掛に陣を張っていた自軍と静かに密かに合流し、何事もなかったかのように、亀山に入城した。(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―