魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の三十

f:id:eureka0313:20210320180420j:plain

伝説に基づき再現されたぬえの像(兵庫県西脇市・長明寺)。ウィキメディア・コモンズより。

六月十三日:勧修寺尹豊と溝尾の会見

「お待ちください。すぐに主人に取り次ぎますので」
廊下が急に騒がしくなった。
奥の別院では、勧修寺尹豊と近衛前久が息をひそめていたが、顔を上げてその騒ぎに耳を澄ました。特に近衛は生きた心地もしなかった。
明智でしょうか」
「うむ」
尹豊はゆっくりと立ち上がった。
「どうなさるおつもりです」
「もし討ち損じて光秀をここに来させたら、何をしても無駄だ。覚悟するだけだ」
尹豊は大きく戸を開いて、廊下に立った。
「何の騒ぎだ」
「あ、上人様」
取り次ぎの者が尹豊を見て膝をついた。
その後ろに平服を着用しているが、一目で武士とわかる男が立っていた。血走っている目が、尋常ではない殺気を帯びている。
「勧修寺の主殿でいらっしゃるか」
「うむ、そちらは」(逃げずにちゃんと受けているのは流石です)
男は崩れるように、その場にしゃがみ込んだ。
明智日向守家臣、溝尾と申します」
「それが何か」
「我が主はこちらに向かう途中、賊に襲われ、落命つかまりました。何事にもよらず、突然のことでしたので、主からの言伝ことづてもなく、私としては何をどうしてよいかわからぬまま、ただ主の最後の一言の『勧修寺』を頼りにここまで参りました」
「最後に勧修寺とおっしゃられたか」
「はい」
「それで、明智どのはそのままご最期を遂げられたか」
溝尾は黙って脇に抱えていた鞍袋を差し出した。
「それは」
「主の首級です」
「ふむ、まあ廊下でも何だし、中にお入りなさいな」
伊豊は溝尾を勧修寺の別院の中に招き入れた。

明かりのもと、改めて見る溝尾の姿は、いよいよもって凄まじかった。
身体中泥まみれで、その泥はところどころ血に染まっている。どす黒い顔をして、そのくせ目だけは異様にギラギラしている。溝尾は勧修寺に向かって静かに一礼して鞍袋を開けた。
陪席している近衛も血の気の失せた顔で中身に見入った。
「随分と傷を負っていますなあ」
「は、途中賊に奪われる恐れがありましたので、もし奪われたとしても、決して素性のわからぬように、私が小刀で傷をつけました」
「・・・」
忠実な家臣として、主君の首を刎ねなければならなかったのは、想像を絶する無念さであったろう。その上、顔に刃を当てなければならない差し迫った状況は、察するに余りあるものがあった。
「僭越ながら、勧修寺殿にお聞きしたい。我が主君・明智光秀はどのような用件でこちらに出向き、いかなる話をするつもりでありましたでしょうや」
「うむ、それは・・・しかし明智殿が亡くなられた今となっては、何を言ってみたところで詮ないことだ」
溝尾は今まで張り詰めていた緊張の糸が切れたように、床に顔を伏せ、腹の底から絞るような声を上げて、泣き出した。
「溝尾とかおっしゃられたな」
「はい」
「主君をなくされて、これからどうなさるおつもりか」
溝尾は泣くのをやめて、顔をあげた。
「まず、主が亡くなったことを知らせに、坂本へ参ろうと思います。坂本には、奥方さまも親族の方も大勢おられますので、ご報告せねばなりません。その後、直ぐに取って返し、山崎の戦に加わる所存であります」
「それはなかなか殊勝な心がけですね。しかし、その首はどうなさるおつもりですか。迂闊に持って歩くわけにはまいりますまい。また賊に奪われないとも限りませんよ。どうですか、その首をここにお預けになられては。ここなら人に奪われる心配はないし、何より手厚く供養させていただきますよ」
「・・・」
「いかがでしょうか」
「そうしていただければ」
「うむ、よろしい。何よりです」
溝尾は丁重に光秀の首を差し出した。
「おいたわしや」
勧修寺尹豊がそっと光秀の首を手元に引き寄せた。
「では私は先を急ぎますので」
溝尾は勢いよく立ち上がると振り返りもせず、大股に部屋を出て行った。

あとには光秀の首が残された。尹豊と近衛は首を挟んで沈黙をしていたが、やがて尹豊はこらえきれないように、乾いた笑いを洩らした。
近衛は、まさか気狂いになったのではと思い、恐る恐る尹豊の顔を覗き込んだ。
「何とも皮肉なものだ。光秀はこのわしを殺すつもりでやって来て、自分自身が生首になった。しかもこともあろうか、家来がわざわざわしのところまで届けに来た。鴨が葱を背負って来るとはこのことだ」
「勧修寺さん!」
近衛はようやく声が出た。
「まったくもって、惨い話だ。しかしこの首のおかげで、わしらの首はつながりそうだ。近衛さん、あなたもですよ。何もなければあなたとわしの首は、明日にでも胴体と泣き別れになるところでしたよ」
「・・・」
「さて、この首をうまく使わないことには。まあ取りあえずは、お経の一つでも上げさせてもらおうか。本当によく(絶妙のタイミングで)わしらの所に来てくれた」
尹豊は皺だらけの手を合わせ、数珠をこすり合わせながら、低く般若心経を唱え始めた。

勧修寺尹豊の人物像

「内裏はぬえのようであり、容易にその全貌は解明されない」との言い伝えを体現した人物である。
目の前の情に流されず、「自分が第一に守らなければならないのは帝だ。帝がおわしてこそ、我らの存在がある」との信念のもとに行動する。徹底した自己本位の態度を貫ぬく胆力を持ち、謀略戦にも長けている。光秀の傷んだ生首を見てもたじろがず、般若心経を唱えながら、自分たちを守る為に光秀の首を最大限に活かす方法を思案して、ほどなく実行する。
近衛前久に対しては、言いたいことを(言わなければならないから)言うと、後はせいぜいヘタを打たないように、との態度を取る。溝尾庄兵衛に対しては、仏に仕える者として光秀の生首を供養するとの交渉をする。何とも見上げた人物ではないか。(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―