六月十三日:小栗栖の光秀主従
光秀(前に一人、後ろに二人の供を連れている)は、雨の匂いのする重い風の中を駆けた。皆羽織袴を着用して、網代笠を被っていた。誰が見ても、彼らが戦場から抜け出してきたとは思わないだろう。
先頭を行く従者が、前方を指さした。指さした先には黒々とした竹の林が見えた。そして彼等が進むべき道は竹藪の中に消えていた。光秀は先頭の従者に軽く頷いてみせたものの、得体の知れない生物の体内に入っていくような嫌な気分になった。が、直ぐにそれを打ち消した。
今の自分は羽柴軍の追手を気にしなけなばならない立場だ。暗闇に紛れるのは、好都合だ。暗闇が怖いだの、竹の姿が薄気味悪いだのと、子供染みた考えに支配されそうになった自分自身を笑った。今しなければならないことは、勧修寺尹豊を殺すことだ。無防備で抵抗の手段を持たない枯れ木のような老人であれば、殺すのは造作もないだろう。光秀は勧修寺尹豊に憐れみを覚えた。ここにきて、光秀は身体中の血が逆流する感覚に捕らわれた。怒りは収まり、勧修寺尹豊を殺す意味を考えた。
勧修寺尹豊殺害後、その生首は京の近衛前久の屋敷にでも投げ込めば効果はあるだろう。
その生首を見れば、公家たちも少しは思い知るだろう。勅命は速やかに発布されなければならない。さもなければ、皆勧修寺のように生首になるだけだ。政治でも駆け引きでも、遊びでもない.強いて言うなら、テロリズムに近い。
「光秀よ」
突然,地の底から声が湧いた。間違いない。信長の声だ。
本能寺以来幾度となく聞いた。もはや驚きはしない。
だが、今回は周りの従者たちも聞いたらしい。
「お前たち、何か聞こえたか」
「はい、しかし・・・きっと野ネズミかウサギかと思います」
従者たちは、一斉に緊張して、暗い竹林の下草に目を凝らした。どうやら、そこに小動物の動いた気配があった。
「そうか」
光秀は軽く頷いた。
実際、音は確かにしたようだ。従者はそれを下草のざわめきと聞き、光秀はそこに信長の声を聞いた。それは決して幻聴ではない。確かに光秀にしか聞こえぬ声で信長が話しかけてきたのだった。その声の調子には光秀をからかうような軽さがあった。
「光秀よ、お前の言う正義とやらの行き着く先も俺と同じではないか。どんなに立派な理屈を言おうとも、人は動かぬ。剣の先に突き付けられた死への恐怖のみ人を動かしうるのだ。光秀よ、お前は俺のそういうやり方を嫌い、正義とやらで新しい世界を呼ぼうとした。しかし、土壇場のいま、俺と同じことをしようとしているではないか。畢竟俺もお前も、何も変わりはしない」
「殿、別にあやしいものはないようです。やはり野ウサギかと思います」
従者が光秀に報告をした。
「うむ、先を急ごう」
光秀は馬に鞭をくれた。
光秀死す
馬上の光秀は、まだ信長の追想をしていた。自分と信長とはどういう関係であったのか。
信長が世に在って身近に仕えていた間はあれほど畏怖していたものを、居なくなってみると、信長の幻影を追うことに奇妙な安心感を得ていた。本能寺以来の狂瀾怒濤の奔流の中で、信長のことを考えている時だけ、自分は正気を保っていられるような気がした。
また竹藪がざわざわと蠢いた。ウサギか。いや、少し大きいようだと思った瞬間だった。
人の形となって光秀に近づいた。光秀は身体をかわそうとしたが、鈍い痛みが脇腹を刺し貫いた。深々と竹槍が刺さっている。多量の血が流れている。馬が驚いて猛然と走り始めた。今まで静かだった竹藪から、十人以上の人間が湧き上がるように現れ、走り出した光秀を追った従者たちは、その槍を喰らい、倒れていった。
曲がりくねった道を縫うように走っていた光秀は、やがて馬から振り落とされた。
「殿、しっかりしてください」
槍から身をかわした溝尾庄兵衛が、馬から飛び降りて、光秀の身体を抱き起した。
光秀はゆっくりと首を振った。もはや立ち上がることも、這うこともできない。
「勧修寺・・・」
光秀は言葉を絞り出そうとしたが、喋るどころか満足に息をすることもできなかった。溝尾は光秀の最後の言葉を聞き取ろうと光秀の口元に耳を近づけた。しかし、光秀の言葉は、食道を逆流してくる血の塊によって堰き止められた。意識がなくなった。事切れた。
「殿、殿」
溝尾は光秀の身体をゆすったが、もはやその身体は抜け殻に過ぎないことに気が付いた。
溝尾はかろうじて聞き取れた言葉を反芻した。
溝尾にはそれが何を意味するかわからなかった。おそらく光秀の向かっていた先だろう。戦場を抜け出しても行かなければならない特別な場所であったのだろう。ならば光秀の遺骸、せめて首級だけでも、勧修寺に届けなければならない。主の抱えていた用件は検討もつかないが、せめてそれぐらいは弔い代わりにしよう。溝尾は覚悟を決め、脇差を抜くと、まだ温もりの残る光秀の首にあてた。刀の峰に手を当て、体重を利して一気に押し切った。
光秀の首が、ゴロンと草むらに転がった(溝尾はかなりの使い手ですね)。
溝尾は光秀の首を地面から拾い上げ、改めて周りの景色に目を走らせた。
ここは・・・。
ほんの十日前も、溝尾は光秀の供としてここを通っている。一陣の風が吹きわたった。
溝尾はその時幻影をみた。
「この景色は子供のころ見たことがある」
光秀が馬を停めて言った。
「たしか、あの角を曲がったところに石があるはずだ」
光秀は指さした。指さしたあたりに供の者は目を凝らした。
そこに溝尾が、光秀の首を抱えて立っているのだが、彼等(供)の目には入らない。
やがて「やはり夢は夢だな」と言って光秀は軽やかに笑った。一行は再び動き始めて、溝尾の脇を通り過ぎて行った。そして次の瞬間、幻影は消えた。風が巻き起こった。溝尾の周りで竹がざわざわと密やかに鳴った。(続く)