魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の二十八

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勝竜寺城の推定城郭部分。国土交通省の国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。ウィキメディア・コモンズより。

㊼六月十三日:親王たちの変節

しかし、内裏の事情は複雑であった。それが故に光秀にとっては、予想外の事態が出来しゅったいした。即ち誠仁親王近衛前久勧修寺かじゅうじ晴豊の三人は、天皇への勅命要請に加担する旨、光秀宛に返書を出した後、いざ天皇に進言する段になって、今更ながらそのような大事を我ら三人で決めてしまっていいのかと、不安に襲われた。そこで(誰が言い出したのか定かではないが)隠居の身ではあるが、内裏の長老格として未だに赫々かっかくたる発言力を持つ勧修寺尹豊ただとよに相談してみてはどうか、となった。
彼等三人だけで、この空恐ろしい企みを実行するだけの胆力が無かった。
ちなみにこの勧修寺尹豊は、武家天皇家との折衝役を長いこと勤めた人物なので、この手の相談相手としては、適切な人選であった。この武家の中には当然毛利家も含まれている。
彼等は、火急の使いを山科の勧修寺に走らせた。折り返し勧修寺尹豊から、“断固反対”の返事が届いた。それも「無理を押して天皇に進言するのであれば、わたくし尹豊が天皇直々に反対を上奏する」(自分の目の黒いうちはそのようなことは断じて許さん)との強烈な反対であった。
返事を受け取った三人は驚き慌てた。取り敢えずは、天皇への進言を見合わせることとした。
そしてその旨を勝竜寺城の光秀に知らせることしかできなかった。

㊽光秀は勧修寺尹豊を憎む。

天皇への進言を見合わせる”の知らせが届いたのは、光秀が既に籠城戦の仕度(兵員配置等)を済ませた後だった(一番悪いタイミングですね)。
知らせを受けた光秀は愕然とした。また勧修寺尹豊の強硬な反対によって進言不可となったことを知った光秀は憤怒の塊となった。
またもや勧修寺に邪魔をされた。あの老いぼれ、この光秀に何の恨みがあるというのか。
奴は打倒信長の詔勅にも因縁をつけて反対した。だから勅命が下りなかったではないか。現在は信長を倒したその時より、なお一層厳しい事態である。毛利家援軍要請の勅命が我らの生死を握るというのに、この始末だ。
これでは、勝竜寺城に籠る意味が全く無くなる。無くなるどころか、勝竜寺城明智軍の死地となるではないか。斯くなるうえは、この光秀が勧修寺尹豊と、直に話し合う方法しか残されていない(内裏とのやり取りは光秀自身が秘密裏にしたので、重臣を派遣しようにも、何のことかわからない状態なのだ)。
勝竜寺城は、淀川の支流の小畑川おばたがわと、さらにその支流の犬川とに挟まれた三角州に建てられた城である。諜報戦に利用された秘密の抜け道が設けられている。軽装の光秀は、その抜け道を使い、北東に馬を走らせた。供は僅か数人であった。この時光秀は、必ず勝竜寺城に帰還する肚づもりでいた。光秀は感情的にしか物事を考えられなくなっていた。
場合によっては、勧修寺尹豊の素っ首を刎ねることもある。優柔不断な公家の一人や二人の血が流れることもある。それにしても、勧修寺尹豊は斬っても斬り足りぬ!
ここで筆者は考える。勧修寺尹豊の言い分。
勧修寺尹豊は、何故光秀の勅命要請を二度も阻止したのか。体制の変革を厭う気質も勿論あるだろうが、それ以上に、明智光秀は、その出自を含めて、勧修寺尹豊の眼鏡にかなわなかった。戦国時代にあって天皇の血脈を守ることを最大の使命としている勧修寺尹豊としては、内裏は最終的な勝ち馬を見極めて、それに乗ることによってしか生き残る道がない。最終的な勝者(天下人)に内裏がそれ相応の官位を授けるという形で権威を示す外は無いのだ。天皇家が、武家と同列になってはいけないのだ。天皇家藩屛はんぺいたる我らが、明智光秀ごときと心中出来ようか。出来る筈がない。
明智光秀が最終的な勝利者となる可能性はごく僅かだと踏んだ勧修寺尹豊は、光秀を見限り、ある作戦を立てた。

㊾六月十三日:勧修寺

香が焚き込められた部屋で、勧修寺尹豊が読経していた。
その低くつぶやく声は、もはやうめき声なのか読経なのか、本人にも判別がつかなかった。
だが、誰に聞かせるわけでもないので、とりたてての不都合はないであろう。
やがて静かに障子が開いて、小僧が言った。
「だたいま客が見えられ、上人様にお会いしたいとのことですが」
うめくような読経がピタリと止まった。
「その客人というのは」
「近衛相国さまでいらっしゃいます」
「近衛・・・」
知らず知らずのうちに力が入っていた肩が、ストンと落ちた。
「相国が、わざわざこんな夜分に尋ねてきたか」
「どうしてもお伺いしたいことがあるとのことですが」
「まあよろしい、お通しなさい」
しばらくして、血走った眼をした近衛前久が案内されてきた。
「どうされた、こんな夜分に」
「どうされたもこうされたもないでしょう」
「まあ落ち着きなさって。そこにお座りになっては」
近衛前久はとりあえず勧められた座に着席したものの、何をどう話したらよいか、頭の中が整理されていない様子だった。
「まず言っておきますが、私がここに来たのは私一人の考えではなく、誠仁親王や晴豊さまを代表してまかり越しました。そう申せば、私があなたに何を尋ねたいのかはお判りいただけることと存じます」
「例の勅命のことですか」
間髪を容れず、尹豊が答えた。
「そうです。どうしてあれほど反対されるのですか」
「うむ」
尹豊は大きく深いため息をついた。
「信長討ちの勅命を断った時に、あなたは明智に何と仰ったのか覚えておいでか。信長を討ってくれ。それさえ果たしてくれたら、どんなことでも力になると。まさかお忘れになったのではないでしょうね」
「忘れたわけではないのですが」
「だったら」
尹豊は何処か遠くを見るような目をして、前久から視線を外して押し黙った。
苛立つ前久は、尹豊の注意を促すように、わざと大きな声をあげた。
「勧修寺さん、明智は今死に物狂いで戦っているんですよ。我らが助けなくてどうするのです。いいですか、我らは明智に恩があるのです。彼等をどうにかしてやらなければ」
「それで勅命を出せと」
「そうです。明智がそれを望んでいるのです」
「あなたたちは口を開けば勅命、勅命とおっしゃるが、その重みをどう心得ておられるのですか」
「どうと仰られても」
「あなたの明智を助けてやりたい気持ちもわからんでもない。ことにあなたは明智贔屓だからな。しかしその気持ちが行き過ぎると身を滅ぼすことになりますよ」
「何と。どういうことでしょう」
「いや、あなた一人が滅ぶのは勝手。好きになさったらよろしい。けれど問題が帝となると、自ずと話が違ってきます。のう、近衛よ。今一番に考えなければならないのは帝のことではないですか。明智光秀のことなど、二の次三の次の問題だ。世の中がどう転ぶかわからない今、勅命を出せというのは、帝をカタにサイコロを振るようななものだ。吉と出れば重畳だが、凶と出た場合には天皇家が滅びることもありうる。そんな危なっかしい賭け、私にはとても乗れない。出来ない。もし羽柴某が明智を破り、天下人になった暁には、帝の立場はどうなる。勅命などどいう動かぬ証拠を突き付けられた日には、一巻の終わりになるぞ」
「・・・」
「解るか、近衛。勅命などもっての外だ」
「では明智はどうなります。それでは、あまりにも明智が」
近衛は言葉に詰まりながらも必死に口を動かした。
「先ほど明智から使いがあった。どうやら明智は今こちらに向かっているらしい」
明智が」
「うむ。戦場を抜け出して、わしに会いたいそうだ。どうやらわしを殺すつもりらしい」
近衛は急に落ち着きをなくして、あたりに目を泳がせた。
「落ち着きなされ。いくら明智でも、あなたの命まで取ろうとは言わないでしょうから。それにわしにしても、むざむざ殺されるような真似はしない。もう手配はしてある」
「手配」
勧修寺尹豊は、据わった目で静かに近衛を睨んだ。
「どうせ負けると決まっているなら、生きて捕虜になることだけは避けて貰わねば。生きて妙な事を口走られたら、こちらが困る。潔く死んでくれたらありがたい。それより近衛、他人の事より先ずは自分の事だ。大丈夫か。何でも信長の三男信孝が秀吉軍に
加わったらしいぞ。明智を屠った後、本能寺に関わった者を一人残らず皆殺しにしてやると息巻いているそうだ。加担した者の筆頭が近衛、お前だよ」
「え」
「お前は明智が信忠を二条御所に攻めた時、わざわざ屋敷の門を開け放ち、明智を招き入れ、信忠を討つ手助けをしたではないか。その事を信孝は恨みに思っているらしい。このまま明智を討ち、上洛したら、真っ先に近衛前久を捕縛し、首を刎ねると言っている。信孝は激しやすいところは父信長に似たらしい。その上狭量な人物と来ては、何をするかわからんぞ。今からでも逃げる算段をした方が無難かもしれんな」
「そ、そんな」
「とりあえずここを出たら、京都に帰らない方が身のためですよ」
「京都を離れて、何処へ行けと言われるのですか」
「さあ、それは」
言いたいことを全部言った勧修寺尹豊は、近衛前久の生死になど興味が無いような風情だった。つと立ち上がり、部屋を横切って、しおり戸を開けた。
そこには無限の闇が広がっていた。その闇に目を凝らしながら、誰に言うでもなくつぶやいた。
「もうそろそろ、明智が来る頃だが・・・」(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―