㉜六月九日:光秀のタイム・トリップ(1)
光秀が玄関に向かおうとすると、
「恐れながら」
と小姓が声を掛けてきた。やはり聞き覚えのある声だ。
「上様はこの奥でお待ちでございます」
「上様?上様とは誰の事だ」
「もちろん、織田信長さまでございます」
「お前は」
「お忘れですか。森蘭丸でございます」
「いや、忘れたわけではないが」
そこにいたのは、確かに幼少のころから信長に近侍し、本能寺で果てたはずの森蘭丸であった。
「どうかされましたか」
「いや、こんなところで会うとは思わなかったので」
それを聞いて、光秀に見せた涼やかな笑顔は、正しく森蘭丸に相違いなかった。
「とにかく、上様がお呼びでございます。お急ぎください」
光秀は判然とせず、違和感を抱いたまま、森蘭丸に促されて、奥に向かった。
光秀は渡り廊下を進んで、障子を締め切った方丈の前に立った。
「惟任日向守さまがおいでになりました」
「うむ」
又聞き覚えのある声がした。蘭丸は静かに障子を開けた。光秀はこれまでになく緊張している自分を感じた。びっくり箱を開ける以上の疑念を持ちながら、中を覗いた光秀の目に、信長の衣冠束帯姿が飛び込んできた。光秀は雷に打たれたかのように、その場に平伏して、廊下に両手をついた。
「中に」
間違いなく信長の声であった。光秀は部屋に躙り入った。静かに障子が閉められた。明るい光が障子を透かして差し込む座敷に、光秀は信長と二人きりになった。
「惟任」
「は」
光秀は、両手をついたまま、まともに顔を上げることができなかった。
「これより内裏に向かい、天皇に拝謁する。特別にその方にも臨席を許す。ついてまいるがよい」
光秀は夢なのか、現実なのか到底判別がつかなかった。ただ信長の顔を見た時の心の底から湧き上がってくるような恐怖感は現実の感覚であった。信長が立ち上がったので、光秀は道を開けた。光秀は、廊下に出て玄関に向かう信長に付き従った。
玄関には網代輿が用意されていた。
「光秀、何か怪訝そうな顔をしているな」
信長が輿に片足を掛けながら、後ろを振り返って光秀に言った。
「いえ、決して、そのような」
「光秀、今日が何日か知っているか」
「え、それは」
「誰か、この光秀に教えてつかわせ」
「は、六月二日でございますが」
「二日?」
「うむ、光秀、六月二日だ。この日付に何か思い当たることがあるだろう」
信長はそう言って輿の中に身体を滑り込ませた。
輿は四方をささえられ、ゆっくりと持ち上げられた。光秀はその脇についた。
長年の奉公の成果で、信長に仕えるときの動作は身についている光秀だが、内心は驚愕していた。
六月二日。何度も口の中でつぶやいた。こればどういうことなのだろうか?
六月二日。本能寺の変の日付だ。しかし、太陽は既に高く昇っている。自分は今生きている信長の供をしている。どうやら本能寺の変が起こらなかったもう一つの六月二日を生きているらしいのだ。六月二日、確かに主君信長は内裏に伺候する予定であった。しかし・・・
光秀が自分の思考に翻弄されている間に、ゆるゆると輿は御所に到着した。
㉝六月九日:光秀のタイム・トリップ(2)
主たる公家たちが一同に会して信長を迎えた。勿論近衛前久の顔もあった。
「本日、明智日向守を同道した。卒爾ではあるが、この者にも天皇に拝謁することを許されたい」
信長が堂々と述べた。
しばらくすると、特別に光秀の昇殿を許す旨の通知があった。信長と光秀は紫宸殿に通された。紫宸殿の中央には、天皇の着座する御帳台が置かれていた。左右には貴顕が整然と並んでいた。信長は列席している貴顕の中央に着座した。信長の数歩あとに着座した光秀は、御帳台の左脇に近衛前久の顔を認識した。そうすると、右に控えているのが勧修寺晴豊だと推測した。見たところ、色白の神経質そうな顔立ちの青年だった。
「織田右大将信長殿に伺いたい」
その勧修寺が口火を切った。
「このたび貴殿に征夷大将軍位を授ける決定に対して、未だにご返事がないのはいかがしたことか」
信長は息を大きくついて、先ず勧修寺尹豊に目をやり、次にゆっくりと御帳台の御簾の中に鎮座する正親町帝に目を向けた。その如何にも尊大な態度は嫌でも勧修寺の神経を逆撫でした。勧修寺卿は続けた。
「征夷大将軍と言えば武官の最上位である。右大将どのは、まさかご辞退なさるおつもりではないでしょうね」
「帝は征夷大将軍位がお嫌ならば、関白位を差し上げても良いと、どちらを選んでも右大将の自由とまで仰っているのですよ」
横から或る参議が勧修寺卿の言葉を補足した。しかしそれでもなお信長は、やはり黙ったままだった。
「もしご辞退なさるならば、それはそれで結構。但しその理由を申し述べていただきたい。帝から格別のご高配を賜りながら、何のご返事もされないのは許されませんよ。いかがですか、右大将どの」
やがて、信長は静かに口を開いた。
「方々はこの信長を誤解されているおいでのようだ。今やこの国で信長が所望して手に入らないものなどないのだ。方々は信長に、征夷大将軍位が嫌ならば、関白位を授けると仰るが、実際誰が反対しようと、力ずくで手に入れて見せる」
「まあ、ちょっと待ってください」
先程の参議が信長をなだめるように、口を挟んだ。
「もちろん、信長公の御威勢は天下万民認めております。われわれも充分承知しております。しかし、こちらが差し上げようと言っているものを、何も力ずくで手に入れることはないでしょう」
信長も、それには口を噤んだが、直ぐに威儀を正して張りのある高い声で言った。
「帝は信長に征夷大将軍位を授けると仰っているが、帝ご自身は誰から其の位を授けられたのか」
後ろに控えていた光秀はハッとして顔を上げた。
「信長どの」
勧修寺が慌てて信長を窘めた。しかし、信長は少しもたじろがないで、言葉を続けた。
「誰に授けられたわけでもなく、自分で天皇を称されるだけならば、その天皇位にどれ程の権威がありましょうや」
「黙らっしゃい」
勧修寺が一際大きな声を張り上げた。
「わたしは直接帝にお聞きしているのです」
光秀は恐る恐る御帳台の帝の様子を伺った。
帝は一見静かな様子だが、その心のうちは測り知れなかった。
そこで参議がまた口を開いた。
「天皇というのは、高天原からこの地に下った子孫であって、その地位は誰に授けられるという性質のものでもなく・・・」
神話から発生する天皇の正当性を説こうとした。信長はウンザリした顔で言った。
「天より授かったならば、その天は如何なるものか、誰も答えられぬのか」
「・・・」
「ならば教えて進ぜよう。天とは信長のことである」
一瞬、あたりが真空になったような沈黙が起きた。
「この信長が天であるから、天皇の位を授けて進ぜる」
「ま、待たれよ」
勧修寺が慌てて悲鳴に近い声を上げた。しかし、信長は片手を挙げてそれを制した。それは最早何者であれ口を挟むことは許さないという態度だった。
「天皇には安土までお越しいただければよい。日時は追って沙汰する。では」
言うだけ言うと、信長は座を蹴って立ち上がった。
信長はいつになく興奮していた。足運びにもそれが感じられた。
「右大将様、誠仁親王がお会いしたいと仰せです」
官吏が告げた。
「親王が?」
「はい。こちらの控えの間においでください」
「うむ」
信長と光秀は案内されるまま、控えの間に足を運んだ。
信長は興奮収まらず、部屋の中をグルグル歩き回りながら言った。
「どうだ、光秀。帝は肝を潰した顔をしていたではないか。他愛のないものよ。お前の思うところを言うてみよ」
「いえ、わたし如きが。上様は帝が本当に安土まで行幸されて、上様から天皇の位をお受けになると思いますか?」
「まず、それは無いな」
「その時はどうなさいます」
「その時はわしが軍を出して、御所から叩きだせばよろしい」
「では上様が位を受けられたらどうなさいます」
信長は鼻で軽く笑って言った。
「その時は天皇と認めてやっても良い。だがそうすればわしが天であり、天皇の上に立つ存在と天下万民が知ることになる」
「それでは・・・」
「そうだ。どっちに転んでも天皇はこれで終わりだ」
光秀にはもう何も言うことが無かった。
「恐れながら」
近衛前久が一人で思い詰めた顔をして、部屋に入ってきた。
「誠仁親王がわしに用があるということだが」
「はい。その前に是非ともお伝えしたいことがございます」
近衛前久は信長に近づいた。光秀はその瞬間、異様なものを感じ、腰を浮かせた。
近衛の手の中に匕首が閃いた。光秀は咄嗟に自分の身体を近衛と信長の間に滑り込ませた。
光秀自身にも何をしているのか、誰を守ろうとしているのか、わからなかった。
ドンと近衛の身体と光秀の身体がぶつかった。近衛の匕首が自分の肚を抉っている。
重く鈍い痛みと共に光秀の記憶はそこで途切れた。(続く)