㉖六月五日:安土城
光秀は城に上がると、躊躇わず二の丸の蔵を開けた。信長の蓄えた財物は、おおかた持ち出されているだろうから、どれくらいの物が残っているだろうか?意外な事に、財物は少しも動かされた形跡はなかった。茶道具の入った桐の箱も、銭函に溢れんばかりの銭も、砂金の入った錦の袋もずっしりと重く、皆整然と並べられていた。これは、信長から織田一族の女人たちを預かった蒲生賢秀(蒲生氏家の実父)の「安土城内の金銀財宝、一切持ち出すべからず。身一つで脱出すべし」との指示が徹底していたためと思われる。でなければ、女人たちが安土城に置いて行く物と持って行く物とを選別するだけで、2~3日は軽く掛かってしまい、収集がつかなくなっていたことだろう。ともあれ、天下人光秀は、広間いっぱいに運ばれた財宝を、家臣たちに惜しげもなく分け与えた。
これをきっかけに、家臣たちの緊張が解けた。通夜のように静かだった城内は賑やかになり、冗談を言い合って、笑い声も出た。
皆の笑い声に気を好くした光秀は、突然、安土城の天主を案内しようと言い出した。
家臣たちは、先刻光秀から押し頂いた宝剣や茶道具を座に置いて、光秀の後に続いた。
彼らは登閣御門から天主に入った。玄関のすぐ正面の座敷に家臣たちを上がらせ、正面の襖をあけ放った。家臣たちが思わずどよめいた。そこには宝塔が高々と聳えていたのである。
安土城天主の構造の最大の特徴は、地下から地上三階にかけて、巨大な吹き抜けが貫通していることだった。吹き抜けの中心に舎利塔がある。建造物の中に小建築を設置するという発想はそれまでの日本にはないものだった。常に時代の最先端を往く、常人離れした信長だからこそ建造できたものだ。
「これは何と・・・」
家臣たちはあっけにとられて、吹き抜けを見上げていた。やがて誰となく言った。
「このような舎利塔を城の中にお造りになるとは、信長公は思いのほか仏法を重んじられていたのでしょうな」
「それはどうかな」
光秀は軽く、或いは気にしないという感じで笑い、近習に吊り灯篭に火を入れるよう命じた。吊り灯篭は、地上一階部分に十個、二階部分に七個、全部で十七個あった。
暗い吹き抜けが淡く照らされた。光秀は言った。
「上にあがってみよう」
光秀が家臣たちを案内したのは、「蒔絵の間」と呼ばれている二十畳ほどの広間だった。おそらくは狩野永徳の手に成る、馬が悠々と草原に遊ぶ襖絵が描かれていた。光秀は広間にずかずかと入ると、部屋を横切り、南に面した戸を開け放った。戸の向こうは吹き抜けだった。吹き抜けに向けて能舞台がせり出している。
光秀は家臣たちを連れて、能舞台の上に立ち、言った。
「下を覗いてみよ」
明智家の歴戦の勇士も、下を覗くには勇気が必要であった。足元から下には、舞台の奈落。その底に先程の宝塔の屋根が臨めるのだ。もはや家臣たちの理解の範疇を軽く超えていた。光秀は構わず言った。
「もう一つ上に行ってみよう。一段と面白いぞ」
座敷を抜け、さらに上の階に家臣たちを引率した。吹き抜けの最上階である。吹き抜けの中央を幅一メ―トル程の橋が横切っていた。地下一階、地上四階に渡された橋掛かりの上を歩けというのは、殆ど肝試しに近い感覚だ。橋の中央に立つ光秀は思った。信長はこうして仏塔を自分の足元に組み敷いて見下ろしていた。おそらく宝塔を日本国に見立てたのであろう。君臨する王になることを夢見たのであろう。しかし、所詮見立ては見立てである。思い込みであり、現実ではない。光秀は信長の子供染みた悪戯を冷笑した。
「さあ、もっと上に行こう」
「まだ上があるんですか」
家臣の一人が言った。家臣たちは、想定外の安土城天守閣に身も心もヘロヘロになっていた。出来ればもうこれ以上は遠慮したいようだった。それを察した光秀は、明るく笑って言った。
「もう何もないから安心しろ」
そして、さっさと上がっていった。
光秀が上がった先は、安土城天主第五層であった。第五層は、正八角形の間。床柱が全て朱色の漆で塗りこめられ、隙間を金箔が埋めていた。その豪華さは筆舌に尽くしがたい。
家臣たちは、目を白黒させるばかりであった(何もないと言ったのに…)。
光秀は、更に最上階・第六層にあがった。第五層で肝を潰した家臣たちは、これ以上驚く事は無いだろうと、半ば開き直りのような、捨て鉢のような気持ちにもなっていたが、又驚嘆の声を上げざるを得なかった。第六層は黄金の間。壁も床も一面金。金以外は使われてはいない間だった。気のせいか、窓から入ってくる空気さえ、金に熱を奪われたかのように涼やかであった。
光秀は言った。
「ここは織田の家臣でも、最も位の高い者以外は上がることが許されなかった場所だ」
光秀の言葉に、家臣たちは改めて周囲に目をやった。
「身分違いの者が、間違ってここに入ってこようものなら、その場で手討ちにされても文句の言えない場所だ。だが心配するな。今はこの光秀が天下人だ。家臣のお前たちがここに入っても、何の問題もない。今日だけでなく、これからも幾度となくここに集おうぞ」
家臣たちは、それぞれ顔を見合わせて、改めて自分たちのお館様(光秀)が天下人になったことを実感した。そこで明智左馬之助秀満が珍しく自分を鼓舞するように軽口をたたいた。
「こうしてみると、この城も何やら貧相に見えてきますな」
この負け惜しみとも取れる一言が、一同の笑いを誘った。左馬之助秀満は負けず嫌いで、それと直ぐにでも分かる虚勢でも張らずにはいられない気性の持ち主であった(このような性格は、どうあっても矯正の利くようなものではありませんからね)。何時しか光秀も一緒になって笑っていた。ここ数日ぶりに、光秀の心は軽くなった。
㉗六月六日:安土城
夜、寝付けないまま、床を抜け出した光秀は、一人で安土城の最上階に向かっていった。
訳もなく、重い何かが自分にのしかかってくるようで、嫌な胸騒ぎが収まらなかった。
夜一人で歩くと、一足ごとに廊下が軋んで、まるで誰かが自分の後をついてきているようで薄気味が悪い。やっと階上にあがる階段にたどり着いた。最上階に着いた光秀は、窓をあけ、外の空気を入れた。そして、夜の湖水を眺めた。静かだった。胸騒ぎが少し収まった。
今や天下人は、確かに信長から光秀(自分)に変わったのだ。だからといって何も変わらない。充足感と安心感を得た光秀は、改めて寝直せる気がして、ふと後ろを振り向いた時に、強い悪寒を覚えた。階段の途中に誰かいる。光秀はその気配に自分の息を殺した。やがてその者も気配を悟られたと気づいたのか、ゆっくりと動いた。階段を上ってくる音が聞こえた。光秀は、何故かその者に自分が最上階にいることを知られてはならないと思った。
しかし、どこにも逃げ場は無いのだ。ひどく焦った。その者に自分の姿を見られてもいけないし、自分がその者を見てもいけない。
しかし、もうどこにも逃れるところが無い。光秀は覚悟を決めた。次の瞬間、その者の気配が消えた。光秀は急に肩の力が抜けた。やっとのことで息をついた光秀は、自分が呼吸することを忘れていたのに気が付いた。今のは一体誰だろうと思った瞬間、閃いた。今のは上様、信長公だ。死んだ筈の信長公がそこにいた。風が吹き、軒に吊るされた風鐸が揺れて、音を立てた。(続く)