㉔六月三日・四日:備中高松城
人口湖の上に浮かぶ高松城では、城主・清水宗治を中心に、白熱した総員参加の軍議が開かれていた。廊下や階段や階段下は、部屋に入りきらない足軽や雑兵たちで溢れていた。議題は勿論、羽柴秀吉の和睦案を受け入れるかどうかである。仲介人の安国寺恵瓊が持ってきた和睦の条件は、家名存続・本領安堵で、悪くないどころか、むしろ寛大であった。実のところ、和睦とは名ばかりで、高松城の陥落は避けられない段階まで来ていたのだった。城内の兵糧は既に尽きて、皆極限の飢餓状態にあった。この時の羽柴秀吉の最大の目的は、可能な限り早く和睦を成立させて、その証に清水宗治の首級を上げることだ。勿論、この時点では毛利家にも清水宗治にも、“本能寺の変勃発・信長横死”の報は届いていない。城中の者は固唾をのんで、瞑目している城主・清水宗治の言葉を待った。無論、和睦成立が自身の死を意味するのは承知している。
清水宗治は言った。
「わかりました。和議に応じましょう」
「なりません。最後まで戦いましょう」
と進み出る者もいた。清水宗治は、静かに言葉を続けた。
「ここでわしが自刃すれば、その命は出雲・備後の二国と、備中・伯耆の半国に値する。わしの面目も十二分に立つ」
この言葉を聞いた家臣たちは、みな感極まって、声を上げて泣き出した。勿論、飢餓から逃れられると喜ぶ者もいただろう。
「安国寺殿」
清水宗治は、脇に控えていた安国寺恵瓊の正面に向き直って言った。
「わしは明日にも自刃しようと思うが、貴方の言う通り、毛利の三卿はわしの自刃を許さないでしょう。このことは知らせずに腹を切ろうと思います。そのことはお含みの上、よしなにお取り計らいください」
安国寺恵瓊はそれを聞いて、ただただ深く頭を下げるばかりだった。
翌日十時過ぎ、清水宗治を乗せた小舟が城から出た。予定より時間がかなり遅れたが、家臣たちとの永遠の別れに手間取ったのだ。心は“中国大返し”のプランにある秀吉は、さぞイライラしたことだろう。小舟の上の宗治は、「誓願寺」の曲舞を謳い、扇を開いて形だけの舞を披露した後、見事に腹を切った。城主の使命を立派に果たした潔い最期だった。
この切腹をもって、和睦は成立した。双方、血判起請文を交換した上で、堤防の堤が切られた。高松城はもはや湖上の孤立した城ではなくなったのだ。高松城内の者は皆ようやく助かったと歓喜の涙を流したが、実のところ、死んだ信長を駆使した大芝居を仕掛けて和睦を取り付けた秀吉が、一番感激し、涙を流したのではないだろうか。秀吉の涙の理由は「これでわしが天下人になれる好機がめぐってきた。何としても物にするぞ」であったであろうと筆者は推測します。
㉕六月五日:安土城
瀬田の大橋の修理完了を受けて(内蔵助による工期の速さはさすがです)、明智全軍は、途中何事もなく安土に入った。安土城下では、どの家も戸を固く閉ざし、息を殺して明智軍が通り過ぎるのを待っていた。通りはひっそりとしていた。明智軍はまるで葬送の列のように、城下町を抜けて城に入った。検問の木戸にも誰も居なかった。二日間放置されたままの大手門をくぐって進む。城内はとてつもなく静かだった。(続く)