魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の十五

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歌川国芳「赤松(高松)之城水責之図」。ウィキメディア・コモンズより。

㉒六月三日

主人信長の命令で、中国戦線に投入された秀吉は、六月二日の時点で、何処で何をしていたのだろうか。
天然の要害、高松城を攻めあぐんでいた。小高い山脈を背にして、城の前には扇状の平地がある。城を中心に盆地を形成している。そこに足守川が流れている。守りやすく、攻めにくい城だ。定番の城攻めでは落ちない。その上、城主・清水宗治は、猛将として名を馳せている。更に間の悪いことに、これ以上愚図々々していれば、毛利家の宗家・輝元および毛利の両川(吉川元春小早川隆景)の軍によって前後から挟み撃ちされる危険さえ出てきたのだった。そこで秀吉の知恵袋、軍師・黒田官兵衛義孝は、従来の城攻めに無い方法、土木工事を用いる案を秀吉に上申した。一時的に足守川を堰き止めるのだ。
西北の方向から東南の方向に、約4キロにわたって土嚢を積み、簡単な堤防を築いた。この工事により、高松城は巨大な人造湖の中に浮かんでいる格好となった。援軍に駆けつけた毛利輝元も、この状況では、陣を引き払わず、秀吉軍と睨み合いを続けることしかできなかった。この睨み合いの最中、高松城内では兵糧が尽きかけていた。
一方、堤防工事の現場監督となった蜂須賀小六は、苛立っていた。ここ二、三日の雨で水嵩が増し、いつ堤が破れても不思議ではない。本陣に増員要請をしているのに返事はない。焦れた蜂須賀小六は、泥まみれの姿のまま、本陣に乗り込んだ。
「お前ら、何をしているんだ。人を送れとあれほど言っただろうが」
本陣にいる重臣たちは誰も答えず、難しい顔をしていた。ジッと腕組みをしていた羽柴秀長が言った。
「信長公が亡くなられた。明智光秀の謀反じゃ」
「本当か」
「本当だ。光秀の密使が毛利の陣と間違えて我らの陣に飛び込んできた。これがその密書だ」
秀長は書付を小六に手渡した。
「花押も筆跡も光秀のものだ」
小六は言った。
「それでお館は」
「一人で部屋に閉じ籠っている」
暫くすると秀長が言った。
「どれ、お館も次の手が浮かぶ頃だろう。伺いに行ってくる」
秀長が立ち去ると、小六は一同を睨みつけて吠えた。
「俺たちはどうなる?信長公は亡くなった。俺たちは帰る港が無くなったんだ!」
一同は俯くしかなかった。その時、
「まあまあ、そう悪くばかり考えずとも」
黒田官兵衛がことさら明るい声で言った。
「我らがどうなるかは拙者にも解らぬ。ただ禍福はあざなえる縄の如しともいう。案外、これはめでたいと思っていいことかも知れませぬ」
官兵衛は腹の底から呵々と笑った。小六以下一同は、不思議な生き物を見るような視線を官兵衛に送った。

「兄上」
秀長は声をかけた。
「秀長か。入れ」
秀吉は顔を伏せたまま、一心不乱に何かを考えているようだった。秀長がそっと下から、兄・秀吉の顔を覗こうとした。その瞬間、
「やられたな」
と秀吉が腹の底から絞り出すような声で言った。
「今度ばかりはやられたな」
「で、兄上、これからどうなさる」
「どうもこうもない。あの光秀は阿呆ではない。少なくとも荒木村重松永久秀よりは出来る奴だ」
秀吉の頭の中には、その一点がずっと渦を巻いていた。信長に反抗し、敗れた二人だった。もし俺だったらあんなにバカな方法は執らない。秀吉が、光秀謀反の一報を聞いた瞬間に思ったことは“先を越された”であった。
「秀長、今回ばかりはわしの負けかもしれない」
秀長に返す言葉は無かった。元来、秀吉の戦法は相手の意表を衝き、敵より速く正確な読みで勝ってきた。しかし、今回ばかりは光秀に先手を取られてしまった。今頃、慌てふためいて対応策を考えている。どうやっても自分に勝ち目はなさそうだ。
「しかし、わしはやらねばならない。やる以上は勝つ算段をつけねばならない」
秀吉は嗄れた重い声で言った。
「兄上、その通りです」
「わしも焼きが廻ったのか、とんと好いアイデアが浮かばぬ。そこでわしが光秀だったら、どう考えるかだ」
最初に天皇を味方につける。白を黒と言いくるめる。信長公暗殺は謀反ではなく、正義の行いであると強弁できる。
その次には畿内をもれなく纏める。畿内は金と兵糧の要だ。今のわしは、その逆だ。補給線を断たれ、軍資金も兵糧も底が見えている。
「どうだ秀長、これでも勝ち目はあるのか」
「ありませんな」
秀吉は大きくため息をついた。
「そういうことだ。そうなってしまっては打つ手がない。やるならそうなる前にやるしかない」
「しかし、やる前に高松城の決着をつけないことには」
「すぐに講和を取り付ける」
「取り付けられますかな?」
「出来なければわしは終わりだ!」
「・・・」
「何としても講和を結ばねば。何でも向こうの言う通りにする」
「いきなり物わかりが良くなっては、相手にこちらの肚を探られます」
「それはそうだな。では毛利にこう言ったらどうだろう。一両日中にも信長公が大軍を率いて岡山に着陣なさる。そうなると先発隊のわしは手柄も無く、毛利家も滅亡を避けられない。今なら和睦をもって信長公にとりなし、毛利家は領地安堵、わしは高松城主、清水宗治殿の首級を頂いて、面目を施す。いずれにしても、今日明日中にも講和を成立させなければならない。これならどうだ」
「上出来です。で、講和を結ぶなら、仲介を立てなければなりませんが」
「安国寺はどうだろう」
安国寺恵瓊ですね。すぐに手配しましょう」
秀長は一礼をして素早く部屋を出て行った。
再び一人になった秀吉は独り言を言った。
「光秀よ、今のところ、お前はよくやった。しかし、まだ決着がついたわけではないぞ」
次第に秀吉の中で今度の戦いの要諦が見えてきた。
今大事なのは、光秀に時間を与えないこと。つまり、光秀に持ち時間を浪費させれば、わしに勝機が訪れる。秀吉は右手に握りこぶしを作った。
「光秀よ・・・光秀よ・・・」

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

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