魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の十二

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現在の妙覚寺ウィキメディア・コモンズより。

⑲六月二日午前九時頃:中将信忠

本能寺と同じように、周りに堀をめぐらし、小さな城郭のような構えを持つ妙覚寺に宿泊していた信忠に、本能寺の変の報せが届いた。信忠は自ら先頭に立ち、父信長の救出を試みたが、多勢の明智軍の前には手も足も出なかった。
そして、本能寺が焼け落ちたことを知らされた。信忠は父信長が討たれた衝撃の余りか、正気を失ったような行動を取る。
即ち、守りの堅い妙覚寺を引き払い、向かいの二条御所に移動したのだった。
しかも御所には誠仁さねひと親王、若宮(のちの後陽成天皇)、その母の阿茶局あちゃのつぼね勧修寺かしゅうじ晴子はるこ)以下、皇子・姫君お付きの女房衆が住んでいたのだが、勝手に侵入した信忠は、即刻彼らに退去を命じた(一説には、皇族たちを人質にして、明智勢と交渉し、自分は安全な場所に逃げようとしたとも云われている)。
誠仁親王の一家にとって、とんでもない災難であったことだけは間違いない。この状況を見かねた織田方の武将村井禎勝が、信忠に勝手に上がり込まれて巻き込まれた形になった誠仁親王一家が無事に退去できるよう、明智軍に一時休戦を申し入れた。信長の遺体捜索に忙しい明智軍もさすがに休戦を承知した。ただし織田方の者と御所の者とを区別するため、馬や籠を使用しての退去は罷りならないとの条件を付けた。
親王一同にすれば、自分の足で歩いて御所を出るのは初めての経験であり、屈辱でもあったが、従うしか他に方法が無かった。
ここで町屋の者、連歌師の里村紹巴が活躍した。彼は歩いて御所を出た親王一家のために輿を用意したのだった。ただし用意できた輿は地下人じげにんの使うような粗末なもので、床には筵がひかれている有様だった。輿を担いだのは町衆の者だった。親王一家がそのような粗末な乗り物で通りを往来するのは前代未聞のことであった。輿を担ぐ町衆は何故か神輿みこしでも担ぐよう面白がっていた。物見高い京雀たちは目配せをしていた。命が助かった上に、輿が無かったらもっと無様な姿を衆目に晒していたことを思えば、誠仁親王としては本来、里村紹巴に礼を言うべきところでもあったろうが、とても感謝する気持ちにはなれなかったようだ(里村紹巴がこのことをどう思ったかは史書には記されていない)。

そうして誠仁親王一家の退去に目途が付き、休戦もまさに終わらんとするタイミングで、取り敢えず本能寺の後始末をつけた光秀が、二条御所にやってきた。
その時、隣の屋敷の戸が勢いよく開かれ、光秀の傍に転がるように走り出た男がいた。近衛相国前久だった。
明智殿,、よくやってくれた。よくぞやってくれた」
近衛前久は、今にも泣き出さんばかりに興奮していた。
「信忠は血迷って、御所に逃げ込んだ。しかし心配無用です。御所はうちの庭から丸見えです。ぜひうちを使ってください。遠慮なく使ってください!」
前久は、当主自ら門を開いて、光秀の軍を屋敷の庭に迎え入れた。
二条御所の戦いでは、逃亡者や投降者が多数出た。それも名のある武将らに限ってだった。前田玄以、織田長益ながます水野忠重等である。
それとは対照的に、名もない兵卒たちは果敢に戦って死んでいった。何せ普通の戦ではなく、攻撃側(明智軍)も防御側(織田軍)もお互い顔見知りの者たちで編成されていたのだった。兵卒たちは誰に言われたわけでもないが、知り合いの前では見苦しい真似はできないとの気持ちが強く働き、各々の名誉のために持てる限りの力を尽くし、誇り高く戦死していった。その甲斐あって、明智軍を三度門に追い返した。尋常ではない強さを見せた。しかし寡兵の悲しさはカバーできなかった。総勢五百名の二条御所の織田軍の戦死者は、約四百二十名に達した。殆ど全滅に近い状態であった。通常の戦争では全体の二割の死者が出た時点で戦の勝敗が決まってしまう。死者の倍は負傷者が出ているからで、その時点で戦闘員は既に五割を切っていると考えられる。
この五割を切った時点で指揮官に理性があれば、これ以上の戦いは無意味だと判断し、敗北か撤退かの決断を迫られる。これ以上の戦いは虐殺になるからだ。やがて、二条御所に火の手が上がった。
「おお~!火が出た、火が出た」
近衛前久は小躍りして喜んだ。光秀はその様子を悲しそうに、暗い瞳で見ていた。そのような二人に伝令が走り寄って、信忠の自害を告げた。
素早く小耳にはさんだ前久は、いよいよ喜んだ。
「勝った、勝った!」
と二度叫んだ後、腰でも抜けたように地べたにへたり込んでしまった。
しかし一瞬の後、不安になったと見えて、
「信長は、信長はどうした」
と光秀を振り返った。光秀は静かに苦々しく言った。
「おそらく自害されたでしょう」
「そうか、あいつも死んだか。あいつも…うんうん、そうか、死んだのだな」
前久はそう口の中でブツブツ言いながら、魂が抜けたようにいつまでもヘラヘラと笑っていた。
光秀は、前久の様子を醒めた目で眺めながら、自身は用意された馬に素早く飛び乗った。そして言った。
「本能寺には信長公の亡骸を早急に確実に探すように言え。信長公の首を持ってきた者には篤く褒美を取らせる」
光忠が尋ねた。
「で、お館様はどちらに」
妙心寺じや。これからやらねばならない事が山ほどある」
光秀は、馬に鞭を入れて、単騎妙心寺を目指して出発した。(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

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