⑱南蛮寺:六月二日午前六時~
佐与が南蛮寺に駆け込んだ頃から時間が遡る。明智軍が本能寺を取り囲み、包囲は秘密裏に、静寂のうちに完了した頃だ。十人を一組とする部隊が三つ組織された。部隊は、仮に「い組」「ろ組」「は組」と呼ばれていた。斉藤内蔵助が短い言葉を伝えた。先ずは本能寺の様子を偵察すること。最大の使命は信長の首を獲ること。小さい合図をだした。部隊はあっと言う間に本能寺内に姿を消した。彼らは有能だった。本能寺潜入後一時間以上探索したが、織田陣営にそれを悟られることは無かった。最初、三手に分かれていた部隊は、次第に目標を狭めて、午前七時近くには、信長を中心に三十メ―トル程の範囲に集まっていた。
一隊は台所の向こうから中を伺い、もう一隊は渡り廊下の影に身を潜めていた。そして、一番の先鋒隊は渡り廊下の丁度反対側の竹藪にいた。騒ぎは台所近くにいた隊が引き起こしたものだった。織田の家臣を装って台所に入りこもうとしたのが、しくじったのだ。無理もない。本能寺に詰めている織田家臣勢50~60人、全て顔見知りである。五~六人の家臣に取り囲まれ、詰問された男は脇差を抜いて振り回し、裏庭から逃走した。こうして本能寺では不審者が侵入している情報が共有され、緊張が走った。その頃には信長も目覚め、何事かと小姓も姿を見せた。そうしてたちまちのうちに、本能寺は騒然とした雰囲気に包まれたのだった。
当然のことながら、竹藪に身を潜めている部隊は、この騒ぎに神経をとがらせた。
このまま騒ぎが拡大するようであれば、撤退もあり得る事態となった。
彼らは、敵と遭遇した時には相手と切り結ばず、一目散に逃げることとしていた。なので、武器と言えば、弓矢と鉄砲しか持っていなかった。最低限、本能寺と信長の寝所の様子を偵察して生きて帰るのが、彼らの任務であった。
他の部隊の者が台所で騒ぎを起こさなければ、目の前にある信長の寝所に忍び込んで、信長の首を挙げることができたかもしれない。リ-ダの嘉助はそう思ったが、今は危険が大き過ぎる。引き揚げるしかない。嘉助が決心をした瞬間、障子が開いて、白い寝間着姿の男が現れた。すぐ後ろには侍女が控えている。部隊は俄然色めきたった。あれが信長だ。嘉助は部下の五郎左に目で合図を送った。五郎左は逸る心を抑えて、矢をつがえた。白い寝間着姿の男は厠に消えた。どれくらいの時間がたったろうか。やがて男が厠から出てきて、手水を使い始めた。五郎左は弓を引き絞った。矢を放った。
放たれた矢は、わずかに的を逸れ、信長のすぐ脇の柱に突き刺さった。五郎左は自分の矢が外れた事が信じられず、すぐに二の矢をつがえた。しかし既に平常心を失っている射手の矢が的中するはずはなかった。
「もういい。引き揚げよう」
嘉助が言った。五郎左はそれを無視して三の矢をつがえようとした。
「五郎左、もういい。いくぞ」
信長の姿は既に寝所に消えていた。頭に血が昇った五郎左は、弓を捨て、護身用の短刀を抜いた。信長を射損ねた事を恥じて本隊に帰るくらいなら、信長を刺して自分も死のうと思い詰めていた。
「何をしているのだ」
嘉助が引きとめた。
「行かせてください」
「ばか、引き揚げるのだ」
その時、建物から織田家臣が抜刀のまま二人に飛びかかってきた。
「行け!」
嘉助は五郎左を突きのけ、自身は護身用の脇差を抜いて、織田家臣たちに立ち向かっていった。嘉助は、三振り目に肩をやられ、鮮血を散らし、更に胴を薙ぎ払われ、丸太のように地面に倒れた。
嘉助が倒れるのを見た五郎左は、自分の愚かさをひたすら歎きながら走った。
三つの部隊がすべて戻ってきたのは、七時半頃だった。一時間半、敵陣を徘徊していたことになる。彼らのもたらした情報は、貴重なものであった。
本能寺内部の建物の配置から、間取り、さらにそこに配置されている人員までほぼ正確に把握することができた。内蔵助が何より驚いたのは、一隊は信長の寝所にまで忍び込んで、信長に矢を射かけたという事実だった。内蔵助はその殊勲は賞賛に値すると言った。しかし、五郎左は地べたに蹲って自分が死ねばよかったのだと、赤子のように声を上げて泣きじやくるばかりだった。内蔵助が褒めれば褒めるほど、五郎左は泣きじやくった。誰も五郎左を慰めることはできなかった。しかし、本能寺の見取り図がはっきりしたことで、光秀は、詰め将棋のように、信長を討ち漏らさない確実な作戦を立てることが可能になった。
午前八時、光秀は門を破って突入した。最初は矢を射たり、鉄砲を撃ったりしていたが、直ぐに織田方との距離は詰まり、それぞれの獲物(刀剣)で応酬する運びになった。佐与が最後に見た時、信長は薙刀を携えていたが、やがて何処かでより実践的な槍に持ち替えたと推測される。とにかく、信長は自ら武器を持って、圧倒的な数の明智軍と戦い、やがて腕に傷を受けて、姿を消した。間もなく庫裏から火の手が上がったのが午前八時半前後。火は本堂に燃え移り、火の勢いも強まって、織田の最後の兵が倒れた頃には明智軍も近寄れないような大火になっていた。結局信長は自決したのか、誰が介錯をしたのか、その様子はどうであったか、遺体の行方は何処なのかについて、手がかりは何もなかった。全ては本能寺と共に灰になってしまったのだった。(続く)