魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の十

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今は京都市右京区の春光院に伝わる「南蛮寺の銅鐘」。イエズス会の紋章が彫られている。ウィキメディア・コモンズより。

⑰六月二日:南蛮寺午前八時(佐与の回想)

本能寺から約二百メートル離れているイエズス会の教会(通称「南蛮寺」)の門を、数人の女が激しく叩いた。
「お願いでございます。お助けください」
取り乱しているわけではないが、切迫した様子が見て取れた。
「何事でしょう」
いくさです。私たちは京に身寄りがありません。こちらでかくまってください」
「どちらから見えましたか」
「本能寺です」
門番は門を開けた。
「しかし、一体どういうことです。本能寺で何があったのですか」
「謀反です。明智光秀さまが謀反を起こされました」
門番は驚いて、表に出た。通りに顔を出すまでもなく、夥しい数の兵がそここに溢れているのに気がついて、南蛮寺に逃げ帰った。
それは丁度明智軍が本能寺に突入を始めた頃だった。門番は、女たちを食堂で休ませ、司祭のフランシスコ・カリオンに事の仔細を報告した。
朝の礼拝をしていたカリオンは驚いて、直ぐに食堂へ向かった。佐与はカリオンに気がついて「神父様パードレ」と呼び、その前に跪いて手の甲に接吻した。
「私は洗礼名をマリアと申します」
佐与の冷静さを失わない様子にカリオンは感動した。
「とにかく話を聞かせてください。本能寺で何が起きたのですか」
佐与は静かに語り始めた。
「昨夜上様は、十二時を過ぎるまで寝所にお渡りになりませんでした。夜の宿直から、上様のお目覚めはお早くないと聞かされていました。私たちもそのつもりでおりました。
「朝の七時頃でしょうか、台所の方で何かが割れるような音と、女の悲鳴が聞こえました。私たちは上様が目を覚まし、不興を買うことを恐れました。騒ぎは直ぐに収まったのですが、上様はやはり騒ぎに気が付いておられました。しばらくすると襖が開いて、『何やら騒がしいな』と寝所から出てこられました。上様は直ぐ、廊下に控えていたお小姓に、表が騒がしいから見てくるようにとご命令されました。
「『お寝巻はお着換えになられますか』上様は少し間をおいて『かわやに行く』とおっしゃいました。本能寺の厠は、部屋を出て縁を渡った奥にあります。
「上様は廊下を渡っていかれました。私はすぐ後ろをついてゆきました。
「そして、お手水ちょうずのお手伝いをするために、廊下の端に控えました。そして、上様が厠から出てこられて、お手水をお使いになられるお手伝いをしようと手を伸ばした瞬間、廻りの空気を切り裂くような音が私の脇をかすめたかと思うと、カ-ン!と鋭く乾いた音は上様のすぐ横の柱に響きました。柱に突き刺さった矢が、呻りながら振動していました。上様は怒りを込めて、矢の飛んできた竹藪を睨んでおられました。上様と二人、どうにかこうにか、寝所に戻ることができました。しかしその間にも、もう一度矢が飛んできました。その頃には、家臣たちが慌ただしく駆け回る足音が聞こえていました。様子見に出た小姓が戻ってきて申しました。『本能寺の周囲は、数千の兵に囲まれています。水色に桔梗の旗指物が見えます。明智光秀さまの旗印です』上様は暫く絶句されました。
「『いかがいたしましょう』上様に尋ねる者がいました。考え事をされていた上様は、カッと目をお開きになり、ただ一言おっしゃいました、『是非もない』。そして鴨居にあった薙刀を手にされました。それと同時に『女はかまわぬ。逃げのびよ』とおっしゃいました。私はすぐさま、上様のお言葉を宿直の者や、賄いの者に触れて回りました。『女は直ぐ逃げるように。これは上様からのご命令です』女たちが取るものも取りあえず(身ひとつで)寺を後にするのを確かめて、私は周りの数人を連れて抜け出しました。夢を見ているようで、詳しくは覚えていません。しかし、本能寺の門を出て驚きました。蟻の這い出る隙間もないほど、びっしりと何重にも明智軍が本能寺を取り囲んでいました。しかも何千もの人々が何者かに取り憑かれているかのように、無言でした。
「“寺から逃げ出す女子供には手を掛けるな”との命令が行き届いていたようで、門を出た私を襲う者はいませんでした。それどころか、私たちに道を開けてくれる者さえいました。しかしあの異様な静けさは何だったのでしょうか。まるで本能寺の塀に張り付いた亡者の群れを見ているような状況にゾッとしながら、ここまで逃げて参りました」
佐与の話を聞き終わったカリオン司教は、そっと右手を彼女の額の上にかざして、祈りの言葉を捧げた。そして言った。
「とにかく、様子を見ましょう。町が落ち着いたら、うちの者たちと手分けして、できるだけのことをしますから、あなたは、少しおやすみなさい」
佐与は司祭の言葉に落ち着きを取り戻したようだった。丁度その時“本能寺が燃えている”と告げる者がいた。全員驚いて飛び出した。
町の家並みの間から、黒い煙が濛々と上がっているのが見えた。
あの煙の下で数え切れない人たちが死んでいる。そう思うと佐与は居ても立ってもおられず、自分が今ここにこうして生きているのが申し訳ない気持ちになった。本能寺にいる者の多くが、イエズスの者ではないし、唱えても助からないのは充分に知っていたが、いま佐与にできるのは、ただ一心不乱に祈ることだけだった。(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

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