魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

再読・伊東眞夏『ざわめく竹の森』其の壱

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摠見寺(滋賀県近江八幡市安土町)の二王門。国の重要文化財に指定されている。ウィキメディア・コモンズより。

表題の作品につきまして、一天一笑さんから再度紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。なお前回の記事はこちら

はじめに

1582年(天正10年)6月2日に起こった本能寺の変へのスプリング・ボ-ドは何であったのか。明智十兵衛光秀の心の動きを時間軸と共にミステリ-タッチで描いた歴史小説です。又敗れた側からの約一か月間の戦国武将の手記という一面もあります。
時間軸は、1582年5月15日から6月15日迄を前後に行き来します。
6月1日に京都を出発し迷走し、6月2日に瀬田大橋を迂回し坂本へ戻るまでが、一番詳しく描かれています。
6月2日を境目として、第一部と第二部に分かれています。

第一部 5月15日~(信長の誕生日の4日後)

冒頭にイエスズ会宣教師ルイス・フロイスの『完訳日本史』中公文庫の一節が取り上げられています。
余談ですが、ルイス・フロイスによる光秀の人物評は芳しくありません。曰く“狡猾で残虐な人物、計略と策謀の人物”と評されています。
ここで最も注目すべきは、信長が自分の誕生日(5月11日?)を身分や立場を問わず祝えと領内にお触れを出し、お金を取って自分自身を拝ませた暴挙を我らの主イエス・キリストが許すはずがないと書き遺している点です。
第六天の魔王信長は、神になろうとしたのか?当時の日本には特定の人の誕生日を祝う習慣はなかったものと思われます。
以前筆者が紹介した『家康の遠き道』では人生の仕上げとして、日光東照宮に自分自身を神として祀らせる準備に勤しむ家康の奮闘ぶりが描かれています。
乱世には往々にして自分自身が神になる必要性をもった人物が出現するのかもしれません。

完訳フロイス日本史〈3〉安土城と本能寺の変―織田信長篇(3) (中公文庫)

完訳フロイス日本史〈3〉安土城と本能寺の変―織田信長篇(3) (中公文庫)

 
①光秀、信長の命令により徳川家康穴山梅雪をもてなす。

徳川家康穴山梅雪(武田家親類衆筆頭、正室武田信玄の次女)は、各々の所領(家康は駿河遠江)を安堵された御礼言上のため、安土までのぼって来ていた。後に二人とも本能寺の変勃発により過酷な伊賀越えをし、家康だけが生還する。詳しくは伊東潤峠越え』をお読み下されば幸いです。
二人に礼儀正しく挨拶した光秀は、梅雪を典型的な田舎武将とみて余り本気で相手にしません。何事にも心利く家康は梅雪に「織田家随一の家臣、明智殿だ」と紹介します。光秀は、主・信長に“私をもてなすと同じ心得で家康殿をおもてなし申せ”と命じられているから、当然メイン・ゲストは家康と想定しています。
二人くつわを並べながら、安土城の大手門をくぐり、緩やかな石段の大手道へ入りました。
梅雪は、安土城の壮麗さに夢中になっています。
家康と光秀の話題は、自然と織田家菩提寺摠見寺そうけんじの事になりました。
「信長公の誕生の祝いは盛大なものだったと聞いています」
光秀は苦笑しながら言いました。
「参道は数千人の人で埋まり、彼らは押し合いへしあいしながら、寺を参拝しました。参拝後、更に坂を上って、天主から二の丸を見てまわるのですが、その途中に床几を出して坐っているのが信長公その人であったのです。人々は信長公を拝んで通過してゆきました」
「ほお!」
「殿は、自分を拝ませるのに、庶民から銭を取りました」
家康はオウム返しに言った。「え・・・銭を・・・」
「はい。十文・二十文の小銭ですが、殿は民百姓から銭を取って自分の姿を拝ませたのです」
「それは・・・」
さすがの家康も呆れて、声を上げて楽しそうに笑いました。
光秀は宿泊所の大宝坊(信長が家康のために新築させた、青畳の香りのする屋敷)に、家康を案内がてら言いました。
「明日は、夕方から信長公ご臨席で宴席がありますが、それまで数刻、時間がございますので、安土の町をご案内申し上げようと存じますが・・」
「それは何よりです。有難く」
「不調法で何かといたらないと思いますが、安土にはいろいろと珍しいものもあるかと」
光秀は丁寧に頭を下げて、静かに家康の前から出ていきました。

②5月16日、光秀、家康らの観光ガイドをする(安土城下)

光秀は、先ず家康と梅雪をセミナリオ(信長の肝いりで作られた神学校)の門をくぐります。

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1596年刊の『教皇グレゴリオ13世伝』に掲載された安土セミナリオの全景。三階建て瓦葺き。滋賀報知新聞のホームページより。

オルガンが設置され、日本人宣教師・三浦パウロや洋装の少年の聖歌隊も居る広大な敷地を持った本格的な神学校です。
田舎者梅雪は、昨日から目にする光景に驚きやら、感激の連続です。特にオルガンの響きに、圧倒されます。
三浦パウロに堂内を案内された武将・家康は、マリア像は兎も角、脇にある十字架上のイエス像を見て、「あの磔の男が・・・」と言い、不満足な表情を浮かべました。
そして、自らも戦の過程で敵方の将兵を磔にした家康は、彼らが神でない事を熟知している。又南蛮の技術(鉄砲)が日本の戦の仕方を変えてしまった事実から、家康は南蛮の技術が日本を変えていく恐ろしさに身震いをしました。
この経験が後年家康をして、鎖国キリスト教布教禁止の方針を決定させたのかも知れません。

安土城下で、家康が最も興味を示したのは、商いをする際に上納金を治めなくて済む、楽市楽座の仕組みでした。『家康の遠き道』の商売上手な家康を予感させます。
勿論光秀は、摠見寺(本堂には盆山ぼんさんと呼ばれる信長自身を象徴する石が祀られている)も、嶮しい山頂にある安土城城内をも、信長の許可を得て案内しようとします。
セミナリオで勧められた葡萄酒で気持ちよく酔っぱらった穴山梅雪は、とても急峻な坂道を上る気はなくなっていて、宿泊所へ引き返します。
安土城は、外観は五層、内部は七層からなっている。
築城の名人でもある光秀は、三層から始まる住居を六層まで丁寧に案内します。
安土城内の各部屋の襖は、狩野永徳が精魂込めて描いた、金箔と群青をふんだんに使った壮麗な絵が描かれていました。
六層は、正八角形のお堂の形(法隆寺夢殿風)で、まわりに華灯窓かとうまどが並び、壁面は金箔を地に使い、緑の昇り龍と赤の下り龍が配されていました。

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龍泰寺位牌堂2階の花頭窓(=華灯窓)。佐賀県佐賀市赤松町。ウィキメディア・コモンズより。

光秀は、最上階の黄金の間まで案内する予定でしたが、家康は遠慮しました。
安土城からは、北に琵琶湖、南に安土城下、そして東西には中山道が京都まで通じている様子が眺望できます。
光秀と家康との話題は、織田家中の近況、越前の戦況、秀吉の中国攻めの様子に移ります。二人とも肉親を信長の指図によってうしなっているので、家族の話題は気まずいのです。
家康は光秀こそ織田家中筆頭の出世頭と言いますが、光秀は「私より羽柴秀吉殿が第一だ」と言います。
いつも慎重な家康が呟きます。
羽柴秀吉殿・・・私はどうもあの御仁が苦手です」
光秀は驚いて家康の顔を見ました。
「たしかに才気と胆力がある。しかしいくら食べても飢えを癒すことのできない餓鬼地獄を見るようで・・・」
家康は相好を崩して言った。
「や!これは失言でした。どうも光秀殿の前だと気が緩んでしまいます」
家康の笑顔につられて、いつしか光秀も一緒に笑っていました。
光秀は、家康を本丸に案内しながらも、秀吉との14年前の初対面の際の、あの遠慮のない物言い、バッサリと袈裟懸けに斬られたようないや~な感覚が甦り、しばしの間、注意力が散漫になりました。どうしても秀吉のことで頭が一杯になってしまうのです。
家康の「けっこうなお庭ですな」の言葉で現実に戻りました。
光秀が茶を淹れさせようと茶坊主を呼ぶと、茶坊主が光秀に耳打ちをしました。
光秀は「しばし失礼させていただきます」と慌ただしく席を立ちます。いったい何が起こったのでしょうか?(続く)

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―

ざわめく竹の森 ―明智光秀の最期―