
コメディアンみたいな春日クン
2026年4月よりテレビ東京系にて放映中のテレビドラマ版『惡の華』、面白いので毎週(TVerで)見てます(現在第四話まで視聴済み)。これの原作のマンガ(押見修造著、講談社刊)については、残念ながらまだ読んだことがないのですが、ただ押見修造氏の作品が、詩集『悪の華』の生まれ故郷、フランス本国でも人気があることは知っています。
で、このドラマの登場人物ですが、主人公の春日クンは、中学生ながら、詩集『悪の華』の読みづらい旧訳を読んで、人に自慢するくらいだから、本来は少し屈折した性格の持ち主かと察せられますが、鈴木福氏演ずるところの春日クンは、あまりにも純真素朴で、どちらかというと、シリアスドラマの主人公というよりも、ロマンスコメディの立役者のような印象を受けますね。
これに対して、ダブル主演のあのさん演ずるところの仲村サンなる美少女は、春日クンのファム・ファタールといった役どころでしょうか。実に魅力的なキャラクターで、私はすっかり気に入ってしまいました。
思えばボードレールの『悪の華』にも、魅力的な女の人がたくさん出てきますね。どれもみな物凄く綺麗で、物凄く悪い女の人たちばかりです。中には「男と生まれたからには、一度でいいからこんな女と暮らしてみたい」と思わせられるような、素晴らしい女性も出てきますが、そんな「夢」をかなえるためには、それこそボードレールみたいに一生を棒に振る覚悟が必要なのでしょうね。
詩集『悪の華』はティーンエージャー向けの読み物
『惡の華』の評判をネットで調べていて、少し気になることがあったので触れておきます。
このドラマ版の『惡の華』においても、これの原作のマンガ版『惡の華』においても、ボードレールの詩集『悪の華』は特に重要な役割を占めているわけではなく、単に一種の小道具として登場するだけなのですが、世の中にはこのボードレールの『悪の華』について、「アレは大人が読む本で、十代の少年少女が読む本ではない」といったイメージを抱いている人がいるらしい。
私の考えはこれのちょうど反対で、ボードレールの『悪の華』は十代の少年少女にこそ読ませるべき作品なので、頭の固くなった大人が読んでも意味ありません。ステファーヌ・マラルメにしろ、ポール・ヴェルレーヌにしろ、アルチュール・ランボーにしろ、はたまた敢えて言えばルネ・ヴィヴィアンにしろ、みんな十代のころにあの猛毒をあおって、「呪われた詩人たち」の道に魅せられ、あれだけの業績を残したわけですからね。
堀口大學訳『悪の華』について
ついでに、いまだに根強い人気があるらしい堀口大學訳の『悪の華』(新潮文庫)について、私見を述べます。
押見修造氏のマンガ版『惡の華』では、春日クンは当初、この堀口大學訳の『悪の華』を愛誦していた、という設定になっているそうですね。私が春日クンと同じ中学の頃、近所の本屋さんに『悪の華』を探しに行ったのは、今からもう50年以上も前のことです。今はすでにこの「近所の本屋さん」というものがなく、仮にあったとしても、ラノベとマンガしか置いてませんが、今の若い人には信じられないかも知れませんが、当時の小規模書店には、外国の名高い文学作品の翻訳物の文庫版が、ずらりと揃えてありました。そんな中、私が最初に手に取ったのが、やはりこの堀口大學訳の『悪の華』で、中をパラパラとめくって立ち読みしてみたのですが、難しい――というよりも、さっぱりわからない。それで、その横に並んでいた村上菊一郎訳の『悪の華』(角川文庫)の方が、少しはわかりやすそうな気がしたので、そちらを買って帰った記憶があります。ただ、これも結局ちんぷんかんぷんだったことは、前に書きました。
それから50年。今でも繁盛している大規模書店に参りますと、この堀口大學訳『悪の華』が、50年前と同じように置いてあったり致しますので、ふたたび手に取って、パラパラとめくってみたりするのですが――やっぱりわからない。まるでちんぷんかんぷんなのです。この50年、こちらの記事に書いたように、斎藤磯雄訳と鈴木信太郎訳で理解を深め、こちらのサイトで英訳も読み、さらにフランス語をかじって仏語原詩をも読み込むなどして、『悪の華』に慣れ親しんできたこの私が、です。まあ、この私の50年とは、いったい何だったのでしょうね?要するにこの堀口大學訳『悪の華』は、私にとっては永遠に七重の封印を施された禁断の書です。マンガに出てくる春日クンも含めて、あの本から何かをつかみ取れる人は、おそらく私なんか足もとにも及ばないほど素晴らしい文学的感受性に恵まれた人なのだろうと思います。

