魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

伊東潤『修羅の都』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

プロローグ

伊東潤『修羅の都』(文藝春秋社刊)を読了して。
これは12世紀、中世日本に武士の府を創成した源頼朝北条政子夫婦が、栄光の階段を駆け上る時期、そしてその代償を支払う時期を描いた歴史小説です。
生まれながらにして貴種流浪の宿命を負った源頼朝源義朝藤原氏の血脈を伝える由良御前との間に生まれた)と、根っからの関東武士(田舎豪族)北条時政の長女・政子とが出会い、流人から征夷大将軍武家の棟梁)への旅が始まります。
また馬術の名人だった頼朝が、どうして衆人環視の儀式の帰途、落馬したのか?死因との関係はこれまで明らかにされてきませんでした。

頼朝の回想‐平家滅亡まで

頼朝の運命は1180年、以仁王の令旨をきっかけに走り出す。頼朝は三十代後半にさしかかる頃か?
京都の人心は、専横を極め、公家化しつつある平氏から離れている。源氏復活の時宜がきたのか。石橋山の戦いでは、北条政子の実兄北条宗時が討死するが、これは北条家が覇権を握るための最初の犠牲である。それより、江間家に分家していた政子の実弟義時が北条家の後継者となる。これが重要です。義時は頼朝の家人ではあるが、頼朝・政子夫婦にとって必要欠不可欠な人物になっていく。のちに鎌倉幕府の重鎮となります。
清盛が病没して後、幾つかの合戦を経て1185年、壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼす。だが、ここから頼朝の誤算が始まる。
周知のように、異母弟九郎義経が勝ちすぎたのだ。おまけに功名心を丸出しにする。義経は、ただ異母兄に褒めてもらいたいだけかも知れませんが、もう少し上手くやれよ!政治力学を知らんのか?って感じですね(頼朝は安徳天皇二位尼まで命を絶つつもりはなく、朝廷を重んじる忠臣のポジションを想定していた?)。いずれにしても、既に頼朝と義経の兄弟関係の綻びは始まっています。その理由は、異母兄弟で母親の家格が違う点、一緒に育ったことの無い点を加味しても、鎌倉幕府を運営していく上で、異母弟九郎義経は自分と同格のポジションであってはいけないのだ。ましてや、自分に対する不満分子のリーダーとなってはいけないとの考えからです(義経の秀でた戦闘能力を恐れています)。
頼朝は、捕虜になった平宗盛以下の男子を総て斬首にします。彼らの嘆願など聞くのも時間の無駄だと図りに、出家なども許可しません。かつて自分達の命乞いをしてくれた池禅尼平清盛の継母)の血縁者以外の平氏一門衆の男子を斬首して、世の中に政権が変わった事を、平家は敗者なのだと、アナウンスします。

九郎義経・十郎行家の追討

さて、平氏という共通の敵が居なくなった武士集団は、どう変容していくのでしょうか?
頼朝を追い落とすには、後白河院に頼朝追放の院宣を得て、頼朝を謀反人とすることです。皮肉にも、異母兄弟考える方法は同じですね。
一方頼朝は、北条時政(政子の実父)を朝廷への使者とし、「日本国総追補使・日本国総地頭」の官職をもぎ取ります。更に頼朝支配人下の御家人を地頭として随意任命できる宣旨も得ます。反頼朝派の公卿たちも解任させます。こうして徐々に義経包囲網が出来上がります。目的は奥州藤原氏義経を逃亡させて、鎌倉幕府の対抗勢力と見られる奥州を丸ごと平定することです。
流人生活の長がった頼朝は、辛抱強く義経が罠に落ちるのを待ちます。その間にも近畿・和泉国に隠れていた十郎行家・光家親子を討ちます。追捕使のポストを設けた甲斐がありました。そして局面が動きます。1187年、出羽入道・藤原秀衡が病没しました。1188年一条能保を通じて、義経追討の宣旨を受け取ります。また、藤原泰衡には義経を生け捕りにして、京都まで護送すれば本領安堵の文も出します(妥協案)。
1189年正月頃、遠乗りに出た頼朝は、長女大姫や長男頼家が自分と同じ様に不安定な気質を持っていること、そして十五歳頃から、いつ清盛から死の使者が来るのか?と憂慮して過ごし、頭痛や気分の浮き沈みと対峙せざるを得なかった日々を回顧する。又御家人の畠山次郎重忠は、頼朝に奥州向けの“無用の出師”を興さぬよう、つまり大義のない奥州進軍は中止されたらどうかと進言するが、今更奥州への進軍を止める事は出来ない(急進派の御家人達を説得できるわけがありません)。
畠山の言い分は、真に道理が通っている。しかし、その正しさを保つなら鎌倉幕府は守れない。頼朝は人間の心を失くしながら、前に進むしかないのだ。
やがて、都に義経の首が届く。内部分裂した藤原氏鎌倉幕府の敵ではない。
頼朝は、厨川柵にて、長さ八寸の鉄釘で泰衡の首を大木に打ち付ける(3世代前の故事に習った)。
かくて奥州平定は、頼朝の心身をむしばみ、御家人達の不和を表面化させてゆく。

後白河法皇との駆け引き

1190年頼朝は上洛する。日本一の大天狗こと後白河法皇と、複数回の会談を持ちます。
会談の内容は、大姫の入内(後鳥羽帝)やら、頼朝の官位右近大将と権大納言の官位の授与やら、表面は穏やかに進みます。しかしながらその官位を務めるには京都に定住する必要があります。朝廷に鎌倉幕府が組み込まれる恐れがあるので、頼朝は返上します。そして、熟柿思考に切り替えます。熟した柿の実が落ちるのを待つ。法皇のご万歳を待つのです。この頃から頼朝の時間軸の感覚が衰えていきます。母政子から、入内の話を聞かされた大姫は「父上も母上も武士の府を守る一念に動かされているだけです」と言う。
蒲柳の質ではあるが、事象の本質を看破できる大姫の進言は、その後頼家や頼朝の生死に深くかかわってきます。1192年後白河法皇が66歳でご万歳します。すかさず頼朝は、関白九条兼実を遣って征夷大将軍位に就く。そのうえ比叡山天台座主九条兼実実弟慈円を、そうして鎌倉に住みながら、朝廷と比叡山に睨みを効かせます。ほぼ反頼朝勢力を抑え込みます。しかし46歳になった頼朝は、心身の衰えをますます感じるようになります。と同時に自分に万が一のことがあれば、心血を注いで作り上げたこの鎌倉幕府はどうなるのだろうか?それよりも、我が子達が、北条家や、自分に臣下の礼を取って出家している異母弟阿野全成御家人達に、手のひら返しをされ、殺されはしないだろうかと、誰にも言えないまま不安が増大してゆきます。
しかも朝廷では、後白河法皇の寵妃だった丹後局が権勢を揮っています。

頼朝迷走、見当識を失う

1196年頼朝は、人知れず懊悩していた。大姫の入内を望むのは帝の外祖父になるのを望むも同じ。私は清盛入道と同じ道を行こうとしているのか?私は鎌倉幕府の運営より、自分の血筋(源家嫡流)を保全することに、執着しているのではないか。
その上、物忘れが激しくなっている。意図せず癇癪を起す。人の顔を忘れる。
この状況をチャンスと見た北条家と仲の悪い比企能員(頼家の乳父)が、頼朝に北条一族を討てとの御教書を出せと迫るが、政子の機転で仮病を使って逃れる。だが頼家は自分が早く将軍位に就きたいので(母政子とは他人行儀な関係で、母が怪物に見えるらしい)日を置かず、頼朝に、御教書に花押を書けとまで迫ってくる。もはや花押の書き方も、牛車の乗り方も忘れてしまった頼朝だが、なんとか日延べをする。

独り冥府魔道を行く

頼朝の老耄の症状は、もはや隠しようがなく不可逆的に進行していく。
この頃になると、譫妄の症状がでて、日中でも目の前に清盛や義経がいると怯える。
頼朝がこのような状況では、鎌倉幕府の屋台骨が揺らぐ。しかも隠居するつもりはない。
自分が将軍であることは、辛うじて覚えている。馬にも乗れる。政子は義時とともに、ある図り事を計画する。それは大姫の遺言書にもしたためられていた。政子は逡巡するが「では鎌倉幕府が平家と同じ末路をたどってもよろしいのか」との言葉で肚をきめる。
決行は、稲毛重成の橋供養の日の昼食に、鴆毒を入れる(稲毛重成は政子の妹の夫。妻の死を悲しむ余り出家して、私財を投じて橋を架けた)。その式典に頼朝は参列する。
この日の頼朝は、調子がよく気分爽快だった。政子の顔や食事の仕方(箸の使い方)は忘れていたが。式典終了後、屯食(おにぎりのようなもの。将軍位に就く前は、政子お手製の屯食を好んで食べた)を見て、若かったころを思い出す。今の状況を理解する。頼朝は、自ら築いた“武士の府”を残すために、自ら毒入りの屯食を喰らう。その帰途、落馬する(鎌倉幕府のため人柱となった?)。
頼朝没後、父・頼朝の花押の入った書付を盾に、2代将軍となった頼家はやりたい放題、心のおもむくままに振舞う。政子は一番新しい遺言書を盾に頼家を名目のみの将軍とする。
もはや、母子関係は壊滅状態です。有能な吏僚、大江広元を使った政子に分がありました。
何時の時代も、遺言書の形式や日付がものを言うのは同じですね。

エピローグ

1221年、後鳥羽院は義時追討の院宣を出す。義時個人に対する院宣です。
65歳となった政子は、出陣する御家人達(農場主でもある)を前に、白米を小道具とした、肺腑に響く見事な演説をする。勝鬨の声を上げて、最後の隊列が出で行くのをみとどけた政子は、足立景盛(高野入道)と一緒に勝利を確信する。
政子は、四人の子供の命(特に頼家と実朝)と引き換えに鎌倉幕府と北条家を守った。充足感とともに、形容しがたい後悔に囚われるのでした。

長くなりましたが、歴史の中のスクラップ&ビルドの物語としても、武家社会の創成期の物語としても、頼朝や政子の伝記物語としてもお楽しみいただけます。お薦めします。

天一

修羅の都

修羅の都