魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

霧島兵庫『静かなる太陽』(1)

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「陸軍砲兵中佐柴五郎氏」。ウィキメディア・コモンズより。

表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。

はじめに

霧島兵庫『静かなる太陽』(中央公論社)を読了して。
この物語の舞台は、1963年のアメリカ映画『北京の55日』(ニコラス・レイ監督)を思い出していただければわかりやすいかもしれません。
主人公の会津出身の柴五郎中佐(在清国日本公使館付陸軍駐在武官)が、北京へ赴任する道中、幼少期の戊辰戦争にまつわる記憶を思い起すところからスタートします。この柴中佐の役を、『北京の55日』では、故伊丹十三が演じました。
中国の歴史から見ると、日清戦争の敗戦から5年後の清朝末期です。1898年に光緒帝や康有為、梁啓超らが試みた「戊戌ぼじゅつの変法」が失敗し、光緒帝は幽閉され、康有為や梁啓超は日本へ亡命します。西太后復権しますが、当時の中国は国外的には露・仏・墺・英、そして日本によっても「租界」や「租借地」が作られ、国内では義和団の拳士たちが北京を目指して進軍中です。各国の公使から2か月以内に義和団の進軍を停めるよう強要された西太后は、ままならぬ状況に日夜歯噛みしています。

柴中佐、北京に着任する。

柴五郎は、まさに内憂外患の状態の中国に、仏・英・北京官語が話せる情報将校として、後妻と8才の娘を日本に残したまま、単身赴任します。
出迎える病み上がりの西公使は、皮肉なことに薩摩出身なので、薩摩訛り丸出しで会話します。対する会津出身の柴は、幼年学校時代の仏語習得の際、会津訛りが邪魔になるとの理由で、自らを標準語に矯正しています。戊辰戦争の戦後処理で、斗南藩に転封され、苦渋を舐めている父や兄の事、またいつも通り自分を送り出し、猛火の中で命を落とした母や姉妹の事を一日たりとて忘れたことはありません。
公使館には軍人、書記官、自宅を処分し、自費で来た留学生、中国語と英語を使いこなせるインテリ僧侶、福島出身で、乳飲み子のうちに両親を亡くした右目が義眼の帝大教授など、沢山の日本人が出入りしています。喫緊の問題として、公使館を北京に置いている11か国(日本を含む)は、清朝宮廷(西太后)と和解するのか戦うのか、判断しなければならない。北京と天津の間の鉄道が、義和団により不通となってしまった現在、迫りくる義和団の拳士たちをどうやって撃退するのか。それは可能なのか。最悪、援軍到着まで日本公使館を含む所謂北京の内城・東交民巷に籠城した場合、非戦闘員を抱えてどの程度持ち堪えられるか等、難問が沢山あります。何より白人至上主義がまかり通っている状況です。
早速イギリス公使館に11か国の大使たちが集まり対策を協議しますが、主導権は英・露・仏・独の公使が掌握しています。結局多数決で、大沽タークーに停泊している各国の軍艦から海兵を呼び、公使館地区の警備増強を図るということに落ち着きました。
出席した西公使は、国際協調の美名のもとに行われた三国干渉の例に鑑みて、発言をしなかった。
同じく出席した柴中佐は、会議は自己宣伝の場でもなく、他人の意見を叩き潰して得意になる場でもない。結果が同じであれば発案者は誰であっても構わないとの考えのもと、発言した。広大な粛親王府の背面に位置して比較的に安全だと思われる日本公使館の北側にある住宅街を、最小の人数で常に巡察する案を採用させることに成功した(日本の負担を減らした)。(続く)

静かなる太陽

静かなる太陽