表題の作品について、一天一笑さんよりレビューをいただいておりますので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。
はじめに
加藤廣『神君家康の密書』新潮文庫を読了して。
2005年に『信長の棺』で小泉首相(当時)に絶賛され、その後も幅広く活躍した加藤廣が、“天の意思”に恵まれなかった(天下人にはなれなかった)戦国武将を描く、中編3篇からなる歴史小説です。
時代は1574年~1616年前後です。織田信長が本能寺の変で斃れる前から始まり、大阪冬の陣と夏の陣を経て豊臣家が滅亡するところでこの小説は終わります。
日本史の教科書に載っている、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康がもれなく出てきます。
そして徳川家康がどうして天下餅を喰う事ができたのか?の一端が解き明かされます。
中編3篇の主人公は、それぞれ京極高次・柴田勝家・福島正則です。更に織田信長に滅ぼされた浅井長政とお市の方(信長の妹)の間に生まれた浅井三姉妹(長女お茶々・次女お初・三女お江)、秀吉の筆頭側室・京極龍子が華を添えます
勿論脇役の石田三成や加藤清正も魅力ある人物像が浮かんできます。
戦国の世に在って、庇護者・伯父織田信長と、継父柴田勝家と、実母お市の方を失った浅井三姉妹の生き方にも成程と思わされます。
一世一代の変身・京極高次
先ずは蛍大名と揶揄されている京極家13代目当主・京極高次です。当時の京極家は、武家では足利将軍家に次ぐ名門でありながら、禄高僅かに一万石。ようやく大名の体面を保っている有様です。実妹京極龍子は京極家の再興を賭けて秀吉の側室となります。うまく男の子を生めば将来の天下人の生母になれます。又浅井三姉妹とは親戚で、幼馴染の間柄です。
しかも高次は茶々に思いを寄せていたが、妹の初を妻に迎える次第になります。
この様な状況の下、武将としては胆力に欠ける高次は、巷で噂されている「秀頼の父親は誰か?」を梃子とする謀略戦に巻き込まれます(秀頼が秀吉の実子でなければ、秀頼や茶々に合力する道理はありません)。関ヶ原の戦いで激突する、徳川家康率いる東軍陣営と石田三成や豊臣恩顧が率いる西軍陣営の両陣営から、勧誘を受けます(徳川家康の諜報網はそれは見事なものです)。自分は東軍と西軍のどちらの陣営に与するのが生き残れるチャンスが多いのか?
高次の気持ちとしては、茶々は憎い。小坊主上がりの石田三成はなお憎い。
優柔不断で胆力に欠ける高次は、側近伊豆の守の協力を得て、人が変わったように活躍します。どの様な活躍でしょうか?これ以上はネタバレになるので。
そして、良い死に時を得て旅立ちます。
猛将柴田勝家・最後の茶席
次は柴田勝家が主役の「冥途の茶席」です。賤ヶ岳の戦い後、北ノ庄で見事に散った武骨者のイメージが強い柴田勝家が茶席?と思う人がおられるのかもしれませんが、律義者の勝家が思う茶席は主人の信長から拝領した高麗青磁の茶碗を用いて、後妻のお市の方(信長妹)を正客に亭主として茶席を楽しむ事です(勿論お市の方の連れ子の浅井三姉妹も帯同します)。
だが、信長が本能寺の変に斃れた急転直下の、後継者争いの渦中の身となります。
お市の方との再婚で、信長の義弟のポジションを得た勝家ですが、清須会議では秀吉に押し負けて、敵対関係となりました。慎重派の徳川家康は動きません。孤立した勝家は、必然的に賤ケ岳の戦いへとなだれ込みます。敗走して形ばかりの北ノ庄での籠城戦となります。
勝負は時の運の言葉そのままに、秀吉の勝利をもたらしたのは、正しく天運(天気)であったと悟った勝家は、高麗茶碗を用いてお市の方を正客としてお点前を立てたのち、従容として作法通りに自刃します。
ここで、この章の影の主役の高麗茶碗にスポットが当たります。高麗茶碗は、浅井三姉妹の長女茶々と一緒に城落ちします。勿論お初・お江も同じく2回目の城落ちをします。
この柴田の銘のついた高麗茶碗は、聚楽第までは茶々の引っ越しに付き合いますが、秀吉の思い付きで、茶々から離れ徳川家家臣(陪臣)の物となり、その後行方不明になった後、変遷を経て、根津美術館に展示されています。
果たしてその様をあの世の勝家とお市の方は、どう眺めているのでしょうか?
家康の密書と福島正則&福島丹波の守・治重の陰謀
この話は戦場から始まる。1600年福島正則(清須城主)が豊臣徳川連合軍として上杉景勝征伐の行軍中に起きた、家康対福島正則のもう一つの戦い、密書を巡る交渉術の戦いを描いた物語です。関ヶ原の戦いも盛り込まれているので、戦記物としてもお楽しみ頂けると思います。
では、福島正則は何処で何をしくじったのか?切羽詰まった状況(豊臣恩顧の大名を一本化できないどころかお互い肚の探り合いをしている、更に毛利家の動きは掴めない)下で、最初に交渉する相手(榊原康政)を自分勝手なイメージから甘くみてしまった事です。
何せ戦国時代に在って謀略戦・武力闘争を勝ち抜いてきた家康です。側近も千軍万馬の強者揃いです。榊原康政に値踏みをされ、やや空腹の状態のままで、暫くの待ち時間に気力を奪われ、不安感を煽られた状態で家康との面会に臨んだ時から、既に勝負は決まっていたのです。家康は最初こそは「これは清須侍従どの」と福島正則を持ち上げ、食事を共にしますが、話が切所に入ると福島氏とあしらい、豊臣秀頼の父親は秀吉ではない事を、福島正則の口からいわせます(秀頼は茶々一人の子供であると言っている)。秀頼を“若君”と仰ぐ正則は、この後それを認めたうえで、家康から身命を賭して秀頼を守る起請文(密書)を採ろうとしますが、百戦錬磨の家康に江戸に帰ってからとはぐらかされてしまいます。詰め切れません。ここで正則が、今覚書を交わして後で正式な文書と差し替えましょうとでも詰め寄ればよかったのですが、歯噛みをしても後知恵です。
最初は上杉討伐の戦だったのですが、予想外に関ヶ原の戦いになだれ込みます。主戦場を関ヶ原に決めたのは、誰あろう石田三成です。
ですが、石田三成には天運がありませんでした。何が起こったのか?盆地特有の霧の発生です。豊臣秀吉に見込まれて、出世の階段を急上昇した石田三成ですが、人生の幸運の量を使い果たしたのか?一番大事な局面で、天運に恵まれませんでした。
結果福島正則は、豊臣恩顧の大名でありながら、徳川家康に尻尾を振って家禄を増加させた裏切りの報酬を得た大名となってしまいました(広島五十万石)。
腹の虫の納まらない福島正則と丹波の守の主従(甥と叔父)は秀頼公を守るとの家康の起請文を偽造することを実行します。いつの日にか、豊臣家再興を願う秀頼に届くように。家康に対する切り札として使えるように(2通作ります)。
最終局面、福島正則の面従腹背を知り抜いている徳川家は無理難題を福島家に押し付けます(その様はまるで赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に対する吉良上野介の様です)。
大阪夏の陣の後、ほぼ言い掛かりに近いことで、居城の開城を幕府から命じられます。
福島家を取り潰すから、城を明け渡せと幕府の役人がやって来ます。
城明け渡しの責任者となった丹波の守の活躍は刮目に値します。家臣たちの活躍も
(赤穂城開城の大石倉之助に相当します)。
そうして最後に何が残ったのか?それは、希望です。
城の明け渡しの儀式・検分が終わり、家臣達の再士官も決まった丹波の守の下に吉報が届きます。秀頼公は生きている。大阪城で自刃したのは偽物、切支丹大名の明石掃部の守と一緒に九州に落ち延びている、と。切支丹を保護した正則へのお礼でしょうか?
丹波の守は、秀頼に起請文(密書)を渡す希望を胸に振り返りもせず、堂々と城を出で行きます。
ここから先は『秘録島原の乱』へと続きます。2018年4月7日に急逝した加藤廣の遺作となりました。
関ヶ原の戦いに興味のある方、家康の晩年に興味のある方、戦記物を読んでみたい方、豊臣秀吉の愛妾たちに興味のある方にお薦めします。
一天一笑