魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

「プラトニック・ラブ」の話(相馬黒光著『黙移』平凡社ライブラリー)

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荻原碌山作「女」。相馬黒光がモデルだと言われている。ウィキメディア・コモンズより。

チガハルさんのブログで「プラトニック・ラブ」という言葉を目にして以来、上げようか、上げまいか迷っていたネタですが、迷ってばかりいても仕方がないので、一応上げておきます。
日本語版ウィキペディアによれば、「プラトニック・ラブ」という言葉は今日では死語と言うことですが、今は死んでいるということは、生きて輝いていた時代もあったということですね。
明治時代に「明治女学校」という伝説的な女子校があったことは、知っている方もいらっしゃるかも知れない。どんな学校だったかというと、「創立された当初は、それまでのミッション女学校と同様、英学を中心としたカリキュラムで教育が行なわれていたが、1892(明治25)年に巌本義治が校長になってからは、教師陣に北村透谷、島崎藤村戸川秋骨、星野天知らをはじめとする学者や文学者、文化人を集め、キリスト教的雰囲気と同時に芸術や恋愛を賞揚するロマンティシズムによって、格別な魅力を放つ女学校として全国の女学生たちの憧れを集めた」(稲垣恭子著『女学校と女学生』中公新書)学校だったそうです。そこを卒業した多くの有名人(もちろん全員女性)の中に相馬黒光(変なペンネームですが、れっきとした女性)という人がいて、『黙移』というタイトルの、なかなか面白い自伝を遺しています。その中に「当年問題となった明治女学校の恋愛至上主義、所謂プラトニック・ラヴの好標本」として、島崎藤村と佐藤輔子の例と並んで、この北村透谷と斎藤冬子のケースを、著者が実際に見聞きした話として載せているわけですね。
この斎藤冬子という人は、著者の宮城女学校時代の先輩で、この宮城女学校で起こった女学生たちの「ストライキ」事件の首謀者として、他の四人の同志とともに退学処分となり、明治女学校へ転校した人です。この五人の先輩と著者とは兼ねてより親しくしており、この「ストライキ」の件でも「一人前の同志を以て任じて」いて、年少と言うことで処分は免れたが、「自分だけ後に残るなど思いもよらず」「皆さんの後を追って自発的に退校」した。著者によれば宮城女学校時代のお冬さんこと斎藤冬子は「頭脳明晰稀に見る秀才で、この上なく聡明で、また毅然としたところがあり、学徳共に私共の首領として指導者として申し分のない人」で、宮城女学校の校長(若い未婚のアメリカ人女性だった)からも大いに将来を嘱望されていたが、最後は喧嘩別れのようなことになったらしい。著者は宮城女学校を退校したあと、しばらく横浜のフェリス女学校に通いますが、その間、明治女学校に移っていたお冬さんは、そこで教鞭を取っていた北村透谷と恋に落ちる。
透谷とお冬さんの関係ですが、これは馬鹿馬鹿しいほどおおっぴらなものです。「お冬さんの級には勿論他にもすぐれた人があり、いろいろの意味でそれぞれ特色があったことと思いますが、透谷の時間になると何故かお冬さんが一番に冴えて見え、そして最も手応えがある、すると透谷もやはりお冬さんを目当にして講義をするという形になります。熱心に聴く、真剣に質問する、熱心に講義し、力をこめて応える、この距離がだんだん接近して、いつの間にか透谷とお冬さんは一つ机をはさんでむかい合い、まるで一問一答の形で教え、質し、論ずる。級友はその二人の一問一答から聴いて、非常に興味深く勉強するという有様であったということです」
さらに「ある日透谷は、かぜを引いてしきりに洟が出るのをすすりすすり講義していました。そのうち洟が落ちそうになると、お冬さんは懐から紙を探って差し出す、透谷がそれを受取って洟を押える、しかも講義は白熱の状態でつづけられており、その紙を渡すのも受取るのも無意識になされているという風で、すべて以心伝心」我々男性から見ると目も当てられぬていたらくですが、周囲の少女たちの見方は少し違っていて「そんな風で引きつ引かれつ互いの心は余程密接な状態になっていた、とそこまでは友達のすべてが認め許しているのでありました。もし今の学校で、こんなことがありましたら、その評判は大変で、忽ち問題になるところでしょうが、明治女学校では、そこにいやしい想像をめぐらすものはなく、二人の間で講義が白熱すれば、そこを教室の中心として学ぶことにいささかもやぶさかでない。先生と生徒の間が如何に接近してもその間が清純であったことは、これによっても分ることと思います」
見方によっては、こういう周囲の暖かい目が、かえって二人を追い詰めていったとも言える。こそこそと隠れて逢引でもできた方が、二人とももっと長生きできたのではないでしょうか。やがてお冬さんは病いに倒れる。「お冬さんが肺病になってもういけないそうだ…迎えに行った家の人が、汽車を一箱買い切ってつれて帰る」ちょうどこれまた病いを得て帰郷していた著者はそんな話を聞いて、駅まで迎えに行き、再会を果たしますが、あまりにやつれ果てたお冬さんの姿に驚く。「お冬さんは背が高く、その背に相応して見事な体格で、それからして人にすぐれて見えたものですのに、僅かの間にこれがあのお冬さんかと疑われるほどに痩せてしまって、その痩せようがまるで骨を磨いたよう」結局お冬さんは自宅へは戻らず、宮城病院に入院して、「そこの別室で静かに死期を待」つこととなった。
1894年(明治27年)5月16日、北村透谷は自殺します。その報が仙台に届いた時、お冬さんの周囲の人たちは誰が言うともなく「この知らせはお冬さんの死期を早めるから、お冬さんに聞かせてはならない」という点で意見が一致した。著者相馬黒光も、
「あなたも透谷さんのことはしゃべってはいやよ」
と言われたということです。面白い日本語ですね。
しかし周囲の人々のかような心遣いも空しく、透谷に遅れることわずか一ヶ月にしてお冬さんは亡くなった。遺体を清めようと病衣を解いたところ、懐に何か入っているのであらためてみると、はたして透谷が彼女に与えた書簡であったということです。
これが明治のいわゆる「プラトニック・ラブ」です。なかなか壮絶なものがあります。
もちろんこのような恋愛が好ましいものとは思われませんし、特に私なんか加川良の「教訓Ⅰ」を聴いて育った世代で、「命がけ」という言葉が大嫌いなのであります。ただここで翻って現代を思い、「プラトニック・ラブ」が死語となった今の時代を省みてみますと、即物的というか、物質至上主義的というか、とにかく我々が精神性のはなはだ希薄になった一時代に生きているらしいということは、どうにも否定できない事実のように思われます。

黙移 相馬黒光自伝 (平凡社ライブラリー)

黙移 相馬黒光自伝 (平凡社ライブラリー)