魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

岡田秀文『大坂の陣』

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表題の作品につきまして、一天一笑さんから紹介記事をいただきましたので掲載します。一天一笑さん、いつもありがとうございます。


岡田秀文『大坂の陣』(双葉社)を読了して。
この小説は豊臣家滅亡へのロード・マップ、そして豊臣恩顧の大名たちの“抗えぬ運命”(徳川家とどう向き合うか)に死力を尽くして立ち向かった人々の物語です。中でも、大坂城を出て‘天下人‘の座を降りて、徳川配下の一大名として生き残るのか、人生の決断をせざるを得ない淀殿秀頼母子。この時点では秀忠の娘千姫が秀頼に既に嫁いでいます。そして人生の持ち時間と競争で、豊臣家の根絶やしを熟慮断行する徳川家康。この部分は岩井三四二著『家康の遠き道』『あるじは家康』と重複する内容があります。
年代的には1600年~1614年の短い時間ですが、有事の際ですから平時の何倍もの速さ、正しく疾風怒濤の如き時間の流れであったことでしょう。
「二条城」「内訌」「鐘銘事件」「冬の陣」「夏の陣」の五章から構成されています。

第一章:家康、計画を発動する

1603年、二条城で、高台院豊臣秀吉正室寧々)と共に、作法通り成人した豊臣秀頼との会見を済ませた家康の、胸に去来する思いは?特に1600年の“関ヶ原合戦”の戦後処理に思いを馳せる家康です。本多正純が暗躍します。
因みにこの時の秀頼の警護は、浅野幸長加藤清正片桐且元の3人です。この3人のうち、浅野幸長加藤清正の2人は、程なくして病死します。これにより高台院の情報収集力や権威が削がれます。我が子同然に慈しんだ加藤清正に逆縁された高台院の気持ちは?毒殺説も囁かれますが、証拠は一切ありません。この加藤清正は、家康が朝廷から征夷大将軍に叙せられてからは、天下の趨勢を見ては如何と進言するのですが、淀殿には家康と話し合う方法や、具体的な着地点が見出せません。気持ちの切り替えもできません。

第二章:内訌―岡本大八事件の波紋

1609年、岡本大八(洗礼名パウロ)事件が起きます。ポルトガル船マードレ・デ・デウス号を長崎で撃沈した肥前日野江城キリシタン大名有馬晴信が恩賞を欲しがり、本多家家臣岡本大八に多額の賄賂を送り、岡本大八は偽の朱印状を渡し、金品を詐取した疑獄事件で、単純なのですが、家康はわざと大久保長安に取り調べをさせます。背景には本多正純大久保長安の権力闘争等、複雑な事情があります。目に見える形では、岡本大八は安部河原で火あぶりの刑に、有馬晴信は幽閉後切腹で終局を迎えます。そしてキリスト教禁止令発布の大きな切っ掛けになりました。事件処理後も波紋は消えず、病に倒れた大久保長安は、死後遺体を掘り返され斬首され、安部河原に首をさらされます。息子たちは全て切腹させられます。疑獄事件が汚職事件にまで発展してしまいます。家康は大久保長安の鉱山開発の能力は認めていたものの、ウマが合わず、長安に富が集中するのに危機感を抱いていました。いわば引き締め政策を実行したわけですね。大久保一族の重鎮の大久保忠隣は近江に配流となります。秀忠の付け家老職も辞職です。但し大久保忠職(忠隣の孫で、家康の曾孫)には家督相続が認められます。これで三河以来の譜代の煩型うるさがたはいなくなりました。つまり家康は誰に遠慮することもなく、宿願の豊臣家退治に精魂を傾けられます。
融通が利かない三河人気質の大久保忠隣は、豊臣秀頼こそ天下人と考えています。

第三章:鐘銘事件―片桐東市正且元の苦悩

有名な方広寺の鐘にまつわる、家康と、豊臣家の交渉役片桐且元との知恵比べです。と言っても片桐且元は防戦一方、巨人と蟻の戦いです。片桐且元淀殿は浅井家を通じての古い知り合いですが、淀殿は主筋のお姫様です。且元はまるで頭が上がりません。海道一の弓取りの名に恥じない戦巧者の家康は心理戦・神経戦を展開します。方広寺の大仏の開眼供養と大仏殿の堂供養の二つを一日で終わらせるつもりの豊臣家に横槍を入れて、日取りを二転三転させます(豊臣家の屋台骨を揺さぶる分断策の開始)。
トドメは、銘の文言に不吉な文言があるから法要を中止せよと且元は連絡を受けます。
以前に銘文を家康側に提出した時点では問題はありませんでした。土壇場でどの点が問題になるのでしょうか?銘文を作った南禅寺の清韓にも織田有楽斎織田信長実弟)にも、出家した織田常真信雄(織田信長の3男)にも見当がつきません。ただならぬ悪い予感がします。
不吉な文言とは、「国家安康」「君臣豊楽」で家康の諱を呪詛しようとしているとの話です。
ほぼ家康側のこじつけ、若しくは粗探しなのですが、これによって豊臣家は片桐且元の穏健派と大野治長・治房の強硬派に家中が割れます。年若く、大坂城の奥深くで女たちにかしずかれて成長した秀頼はリ-ダシップを発揮できません。いつでも淀殿がピッタリ側に付いています。
そしていつの間にか、大坂城内に牢人の数が増えていき、当然家康側は開戦準備と捉えます。
おまけに、秀頼の名前で家康に家老職を任命された片桐且元大坂城から追放するのですから、大坂城内には、織田家の血を誇り、姻戚関係で事を収められると考える淀殿と、寄せ集めの戦力でしのげば、太閤恩顧の大名が動くであろうとの甘い見通しの大野治長たちが残ります。織田常真はいつの間にか大坂城から姿を消します。
家康は京都所司代板倉勝重を遣わして開戦を宣言します。

第四章:冬の陣―大坂城無力化計画(裸城)

大坂城は、否応なしに籠城戦に突入します。武器・弾薬・食料は大丈夫でしょうか?
着地点が見えません。城の奥深く暮らす女人たちには現状がわかるのでしょうか?
豊臣恩顧の人々は、家康の謀略に切り崩され、動きが取れません。真田信繁が来るのですが、淀殿は信用しません。しかしながら真田丸を築き活躍するので、家康は得意?の2枚外交を展開します。即ち表では大野治長織田有楽斎や本田正純と和睦交渉を重ね、裏では女性陣、常高院・饗庭局と阿茶局との女同士の交渉を試みます。大坂城無力化計画を実行に移すためには、淀殿にご機嫌麗しく過ごして貰う仮の日々が必要なのです。そして堀を強引に埋めてしまいます。堀を埋める事項を文言に残さないのは、調略の達人、家康の真骨頂発揮です。どのような方法を用いたかは読んでのお楽しみです。家康は“大坂城の堀は、三歳の童でも楽に上り下りできるくらい、しっかり平らげよ”と明確に指示します。

第四章:大坂夏の陣―終局

大坂城の堀が埋められてしまうと、豊臣家には城を出て大和郡山に移封して家康臣下として生き伸びるか、開戦して散るかの2択の状況となってきました。こうなってくると淀殿のあてにしている姻戚関係など屁の突っ張りにもなりません。淀殿は、自分が浅井三姉妹の長姉で、秀忠夫人お江や常高院の母親替わりだったので悪いようにはされない、自分と秀頼が粗略な扱いを受けるはずはないと思い込んでいたのかもしれません。
使者が行き交います。淀殿と秀頼の決断は?次妹の常高院に、今のうちに大坂城を出なさいと説得するのは落城に人生を翻弄された淀殿ならではの判断ですね。さすがの家康にも、秀頼自身の判断は判りません。ただ豊臣家存続の交渉は充分試みたと自分に言い聞かせます(行動と気持ちが矛盾していますが)。
そして真田信繁藤堂高虎松平忠直木村重成青木一重毛利勝永明石全登らが、生き残るため、あるいは自分の信じるものの為に、結果はどうあれ死力を尽くして戦う戦国時代最後の戦いをお楽しみください。

落城から逃れられなかった淀殿の生き方、家康の調略の巧みさ、決断する、無能ではない将軍秀忠など、勿論城全般に興味ある方にもお薦めします。
天一

大坂の陣

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