魔性の血

リズミカルで楽しい詩を投稿してまいります。

永遠のオフィーリア――小林秀雄の「狂女愛」

映画『ゆきてかへらぬ』(2025年、日本)のワンシーン。press.moviewalker.jpより。

小林秀雄中原中也の三角関係を扱った映画が公開されたということで、私も予告編だけチラリと見ましたが、小林秀雄のいわゆる「悪夢」*1が大変美しく映像化されているようで、本人が見たらどんな顔をするだろうか、と少し考えてしまいました。
小林秀雄の愛読者の方ならどなたもご存じでしょうが、彼は若い頃から非常に奇妙な性的嗜好を抱えておりました。彼は発狂した女性に強く惹きつけられる傾向があるのです。この美しい「狂女」のイメージは彼の作品のいたるところに出没して、読者をびっくりさせる。彼の初期作品の一つ、「女とポンキン」という短編小説には、狂気の少女に対して淡い慕情を寄せる文学青年の姿が描かれている。彼が長谷川泰子と出会ったのはこれを書いた後のことだったと記憶しますので、長谷川泰子は彼にとって、今風に言えば「直球ど真ん中」だったわけで、夢中になったのも無理はないが、それが不幸にして親友の彼女だったわけです。やがて長谷川泰子中原中也を捨てて小林秀雄になびき、小林秀雄の苦しい恋は一応は叶うのですけれども、これは誰の恋愛でも同じでしょうが、夢中になった相手と一緒になってもろくなことはありません。天国の門の先には地獄が待っているのです。
小林秀雄は後年、長谷川泰子との同棲生活を、以下のように「総括」しております。

どういうめぐり合わせか、私は、今日まで狂人を身近かに観察する機会を充分に持った。狂人と同棲もしたし、交友もあった。(中略)狂人の言動は、初めのうちは、不思議だが、これに慣れると、まことに退屈極まるメカニスムだ。私は、日々、この退屈を耐え忍び、殆ど耐え切れぬ想いに苦しんでいた時、或る日、突然一つの考えが浮かび、救われた様な想いがしたのを、もう古い事だが、今でもはっきり覚えている。それは、狂人は一所懸命なのだ、苦しい努力をしているのだ、という考えであった。退屈なメカニスムと見えるものの裏側に、又、メカニックな原因を見る事が何になろう。裏側には意志があるのだ。狂人には、複雑な長い推論式を、誤りなく辿ることが出来る能力もある様だが、彼は又しても同じ推論式の計算をやり直さねばならぬ様に強制されているらしい。その都度意志を新たにし、欲するように間違いなく推論しなければならぬ、としたら、これは苦しい努力に相違ない。狂人という賽河原さいのかわらの労働者には、鬼の姿が見えないだけだ。彼は決して壊れた機械ではない。この発見は、私の気に入った。実際それは発見の様に思われたのである。恐らく、この考えは、私が狂人と否でも応でも生活を共にしなければならぬという必要が生んだものであろう。この必要は、人間は、いつも人間の形を、探り出したいという要求を含んでいる以上、この要求の上に現れる観察が、心理学的観察と抵触するとは滑稽に思われる。(中略)ところで、私は奇妙な事に気付いた。奇妙な事だから、奇妙な言い方しか出来ないのだが、こちらが気が変になると、狂人の方でも気が変になるのである。狂人のうちに病人を見るのでは足らず、人間を見ようとする努力は、狂人の気に入らぬものらしい。相手は、不安になり、苛立ち、狂暴になる。遂に、相手に私に対する害意或いは殺意さえ生ずるのを認めた時、私は全く失敗した事を悟った。(小林秀雄金閣焼亡」1950年)*2

自分自身の過去の恋愛体験を語る際の、この透徹した語り口に注目していただきたい。小林秀雄は自己分析の達人で、彼の内省のやり方には、今日のわれわれも大いに学ぶべき点が多々あります。確かに言葉も思想も時代とともに移り変わりますが、みずからを省みる人間の姿勢というものには、今も昔も変わらないところがあるからです。
こうしてひどい目に会った後も、小林秀雄の「狂女」に対する情熱は、表向きは影を潜めていても、完全に冷め切ることはなかった。ある日、彼は『徒然草』中の次の一文に出会って、衝撃を受ける(小林秀雄徒然草」1942年)。

因幡の国に、何の入道とかやいふ者の娘かたちしと聞きて、人数多あまた言ひわたりけれども、この娘、ただ栗をのみ食ひて、更によねたぐひを食はざりければ、かか異様ことやうの者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」(第四十段)*3

これを今風に「現代語訳」すると、こんな感じになります。

因幡の国で、何の入道とかいう男の娘が絶世の美少女との評判で、多くの求婚者が殺到したが、この少女、三度の飯の代わりに栗ばかり食って、米などの穀物を一切受け付けなかったので、「この女は人間ではなく、妖怪変化へんげのたぐいであるから、人様の嫁にやるなどもってのほか」と言って、親が許さなかった。

この実の親にさえ人間扱いされなかった薄幸の美少女の姿に、小林秀雄は単なるヒューマニスティックな同情とか共感とかいったものをはるかに超えた、痛切な慕情に近いものを感じざるを得なかった。しかも『徒然草』の作者の「筆の冴え」について、今のわれわれよりも何万倍も敏感だった彼は、卜部うらべ兼好もまた彼が感じたものと同じものを感じていたに違いないと錯覚せざるを得なかった。これはそれから20年後、国鉄東海道線の食堂車で、たまたま向かい側の席に座った狂気の女性を前にして内心惑乱する「大批評家」が、彼の隣に座った聡明そうな女子大生の視線に「私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った」ような気がしたのと同じ構図ですね。(小林秀雄「人形」1962年)*4
このような「大弱点」を内部に抱えた彼ですが、彼の偉大なところは、この「弱点」を克服するのではなく、これをそのまま自分の「強み」に変えたところにあります。先ほども述べたように、彼は苛烈な自己分析を繰り返し、自分自身を底の底まできわめ尽くした。その結果、このわれわれ凡人にあっては単なる変態性欲的悪癖に過ぎないであろうものが、彼の思想に力強い根拠と表現とを与えるに到ったのです。

成る程、己れの世界は狭いものだ。貧しく、弱く、不完全なものであるが、その不完全なものからひと筋に工夫をこらすというのが、ものを本当に考える道なのである。生活に即して物を考える唯一つの道なのであります。考えあぐむ、とか思いあぐむとかいう言葉がある。思いあぐんだ末、とうとうあの女は自殺して了ったと言います。こういう言い方には深い仔細があるのであって、例えば、人類について遠大に思索している思想家は、果ては自殺して了った女なぞ眼中にはないかも知れないが、ものの考え方については、女の方が正統派かも知れませぬ。恐らく女は詰らぬ事をくよくよと思い患ったのだ。何日も水の流れを見て暮らしたのであるが、それは、詰らぬもの、不完全なものから、一と筋に生きる工夫を凝した事である。過ちに過ちを重ねるような考えの糸を辿ったかも知れぬが、もうこの先きに工夫の余地は全然ないという処まで考えを推し進めた事には間違いない。そして死ぬ事だけが生きる道だという結論を得たからさっさと死んで了ったのである。これは正しい考え方である。若し女が死ぬ間際に生について翻然ほんぜんとして悟る処があったら、彼女は立派な思想家ではないか。(小林秀雄「文学と自分」1940年)*5

あわれなオフィーリアの亡霊は、終生彼に取り憑いて離れず、彼はこれに殉ずるほかありませんでした。彼の「狂女愛」の究極の形態がうかがわれるのは、晩年の大作『本居宣長』(1977年)の第15章、宣長源氏物語論に分析を加えるくだりで、「説明の補足と言って、ここまで書いて来て、心に思い浮かぶままに、もう一つ説明の補足めいた事を書こう。それは、浮舟入水じゅすいのくだりの浮舟評」とあって、宣長の『宇治十帖』に関する考えを紹介したあと、彼は「深読みに過ぎると取られるかも知れないが、私としては、ただ、宣長の僅かばかりの言葉でも、自分の心に、極く自然に反響するものは追わねばならないまでだ」と書く。これはどういう意味かというと「ここから先は、もはや宣長とも紫式部とも直接関係のない、私自身の自問自答の世界に入っていくのだ」と読者に対して断りを入れているわけです。続いて描き出される一切の行動力も、意志力も、判断力をも紛失してしまった狂女浮舟のデッサンはまことに美しい。もう引用はしませんので、興味のある方は原文に当たってみられることをおすすめします。*6


引用はなるべく新字新仮名遣いを用いた、読者の手に入りやすい流布本から行ないましたが、ところどころ振り仮名を省いたり加えたりしている点をご理解下さい。

*1:小林秀雄の詩「死んだ中原」の中にある言葉。文春文庫『考えるヒント (4) 』所収。

*2:新潮社『小林秀雄全作品』18より。

*3:新潮文庫『モオツァルト・無常という事』より。

*4:文春文庫『考えるヒント』より。

*5:中公文庫『戦争について』より。

*6:新潮文庫本居宣長(上)』より。