www.deviantart.com「ロデリック・アッシャー」。Abigail Larsonさんがdeviantart.comに投稿した画像。元画像はこちら。
Netflix版「アッシャー家の崩壊」に関するアメリカ人の評価
マイク・フラナガン監督の「アッシャー家の崩壊」は、日本ではほとんど反響がないようですが、欧米ではヒットしているようで、Netflixの「世界の視聴ランキング」の上位に躍り出ている。ただ前の記事でも触れたとおり、とりわけポーの愛読者からは反発も出ているようです。私が個人的に面白いと思ったのは、Aja Romanoというライター集団がvox.comというサイト上に発表した「Netflix版『アッシャー家の崩壊』はポーの情熱的怪奇を欠く(Netflix’s The Fall of the House of Usher lacks the passionate weirdness of Poe)」と題されたレビューで、長文なので今回はご紹介できませんが、機会があればせめて抄訳でもお目にかけたいと思っています。ポーのファンの不満をまとめて代弁したような、手厳しい内容です。
とはいえポーの愛読者が全員怒っているわけではない。下はインターネット・ムービー・データベース(www.imdb.com)のユーザーレビューに投稿されたものの一つで、「紛れもなくポー(Quintessentially Edgar)」と題された、好意的なレビューです。
私見では、魅力的な作品は常に毀誉相半ばするもので、一般的に、私が好きな作品を嫌う人々がいても、それで気を悪くすることはない。かと言って傍観者的なレビューを書くのも好きではないが、この『アッシャー家の崩壊』については、いささか言わせてもらいたい。
演技、演出、制作の価値など、このショーの技術的な側面についての個人的な好みを問うつもりはない。 私自身は、いくつかの見事な劇的瞬間(乱交パーティーが急に終わる場面*1など)によって装飾された素晴らしいテレビシリーズだと思うが、それは単なる私の見解だ。
私がここで争いたいのは、フラナガンがポーの作品を正しく評価しているかという点についてであって、これを否定する者に対しては、残念ながら容赦できない。
ポーは単にゴシック小説を書いたのではない。彼はこれにきわめて個性的なタッチを加え、これをジャンルを超えたものとし、それは最終的に彼の作品の最も代表的な側面となった。Chat GPTにポー風のものを書いてくれと頼むと、実際にそんなものが出てくる。(中略)
ポーを単なる良いライターではなく天才たらしめているのは、彼の作品の深い心理学的含蓄なのである。この男はもろもろの精神疾患や神経障害を、まだ病名も定まらない時代に活写した。彼は普遍的な恐怖や不安を掘り下げ、それらは単に時代を超越しているばかりでなく、現代においてなお重要性を増している。すなわち死への病的な接近、ぬくもりのない疎外された環境での生存、不確実性の絶え間ない圧迫感などだ。
ポーの作品の核心は暗くて現代的であり、フラナガンは『アッシャー家の崩壊』でこれを完璧に捉えた。彼は必須の象徴的文脈の上に、今風のコスチュームを被せるだけでは満足せず、その下に隠れているものへと脚本を集中させた。私としては、彼をいくら褒め上げても足りないほどだ。
私がこのテレビシリーズについて唯一の減点対象としたのはタイトルの選択*2で、確かに観る人のうちにはこれを同名の短編小説の翻案だと思い込む人もいるかも知れないが、実はポーの「グレーテスト・ヒッツ」に対する広範囲にわたるオマージュだったわけだ。
それを除けば、ポーの作品の長年のファンとして、私はこの『アッシャー家の崩壊』が最高のストーリーテリングであり、現存する最もポーらしいポー風コンテンツの 一つであると断言してはばからない。
こういうのを見ると、さすがにアメリカ人はポーをよく読んでいるなあ、と感心しますね。もっともポーが真剣に読まれるようになったのは、アメリカでも比較的最近のことで、私の感じでは、少なくとも20世紀の前半までは、英米におけるポーの評価は非常に低かった。
ポーがまずフランスで認められたことはよく知られている。これはもっぱらボードレールの名訳によるものですが、ポーの「名訳」などというと日本にも掃いて捨てるほどありそうな気がしますが、ボードレールのはそういうのとはわけがちがうので、ポーの生まれ変わりか?と思われるほど見事なフランス語に訳したので、マラルメもヴァレリーもみんなボードレールの訳でポーを読んで、今のわれわれよりもはるかに深くポーを理解しておりました。残念ながらポーは日本においてはそのような名訳者と未だめぐり会っておりません。
「アッシャー家の崩壊」は近親相姦の物語か?
上のレビュー中の「心理学的含蓄(psychological implications)」という言葉について、少し私見を付け加えます。今は日本でも「ゴシック」という言葉が定着して、「ポーはアメリカのゴシック小説家です」みたいな言い方が平気で用いられますが、ポーがそれまでのゴシック・ロマンスとは一線を画するものを書いたのだという点は押さえておく必要がある。大雑把に言うと、ポーはこのゴシック・ロマンスという陳腐で荒唐無稽な文学形式に、近代的な合理主義あるいは実証主義の精神を持ち込み、これを渾然一体化させた作家だ、と一応は言えるのですが、彼の作品にはもう少し予言的な面がある。「われ冥界を動かさん」とのエピグラフを巻頭に掲げたフロイトの『夢判断』が出版されたのは1900年、ポーの死後半世紀が過ぎてからです。ポーの時代には「潜在意識」とか「深層心理」とかいった言葉はなく、概念もなかった。にもかかわらず、ポーはいちはやくこれらの存在に気づき、フロイトとはまったく違う独自の手法によって、これらに関する研究を行ない、知見を積み重ねていたのではないか。彼のゴシック・ロマンス、特にこの「アッシャー家の崩壊」(原作の方)を読むと、読者はそのような印象を強く持つものです。
これに関連して、この「アッシャー家の崩壊」(原作の方)は近親相姦の物語ではないか、ロデリックとマデラインはこのタブーを犯したために破滅したのではないか、という解釈が、これもかなり昔からあります。これは作者の側からすると心外なところでしょうが、何せ含みの多い文体なので、こういう深読みの仕方も確かにできるわけです。こうした「裏の文脈」も読み取り得る、という点も、この作品の魅力の一つには違いないので、ここは草葉の陰の作者にはぐっとこらえて頂きたいところです。
ロデリック・アッシャーの魅力
もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「アッシャー家の崩壊」(原作の方)に描かれた主人公ロデリック・アッシャーの魅力ですね。いつの世にも存在するこの繊細で高貴な「詩人」タイプのキャラクターについては、このブログのこちらの記事でも触れていますが、「モルグ街の殺人事件」に出てくるオーギュスト・デュパンもそうですが、こういう行動力に乏しいタイプのキャラクターを活写するにはいかに特異な才能が必要か、少し考えてみればおわかりになるでしょう。確か澁澤龍彦氏に「アッシャーの好んだ本」という短文があったと記憶しますが、あれはニキータ・コシュキンの「アッシャー・ワルツ」同様、この魅力的な「詩人」の肖像に捧げられた美しい花束だという気がします。
下はニキータ・コシュキンの「アッシャー・ワルツ」。演奏者は作曲者の奥さんだそうです。